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第三話
美容院から、帰ってくると、人がたずねてきた。
「昨日は、お世話になりました」
昨日の女性が、男性を伴って立っていた。
女性より年上だろうか。真面目そうで、端整な顔立ちの男性ではあるが、鼻の頭に大きな絆創膏が張られている。
「たいへん、ご迷惑をおかけしまして申し訳ございませんでした」
男の方が深すぎるくらい頭を下げ、手にしていた包みを私に差し出す。
「えっと?」
「あ、私の兄の」
「中島晃と申します。昨日は、その……妹の奈々子ともどもご迷惑をおかけしまして」
「ともども?」
私がきょとんとすると。
「あ、あの、昨日の変なひと、兄だったのです」
「え?」
私はまじまじと中島晃の顔を見る。そういえば、顔面から転んでいたような気もする。絆創膏が痛々しくって、色男が台無しだ。
「兄が、急に田舎から、こっそり様子を見に来て」
奈々子は、申し訳なさそうに私に頭を下げる。
「え? こっそり? あれ、こっそりって感じじゃなかったですよね?」
どう見ても、露骨だった。しかも、明らかにアヤシイ姿。あれは、変装だったということなのだろうか。
「すみません。私、今、女子寮に住んでいるのですが、電話は当然、寮の電話しかないから、あまりこっちに来てから兄と連絡を取ってなかったのです。そうしたら、心配したらしくて」
なるほどね、と思う。
寮の電話って、たぶん、共同でひとつだけなのだろう。用事もないのに、そんなにかけられないと思う。お兄さんの方からかけるにしたって、周囲に遠慮しないといけないだろうし。
「その……奈々子は、いつでも『大丈夫』としか言わないものですから、本当に大丈夫かどうか気になってしまって」
申し訳なさそうに晃は頭を下げる。
「兄はずっと親代わりだったから……とても心配性なのです」
気持ちはわかるけど、昨日のアレは、心配という言葉で片付けていい問題じゃない気がする。
「……足、だいじょうぶでしたか?」
私の問いに、晃は情けなさそうに苦笑いを返した。たぶん、痛いのだろう。ただ、そこを突っ込むのは、なんだか可哀そうだ。
「本当に、ご迷惑をおかけしました。せめてこちらをお受け取り下さい」
奈々子が紙袋から、包みを取り出して、私に差し出した。
「いえ、私は何もしておりません。彼女を送っていったのは、うちの常連さんなので」
「徹さんにもお礼は致しておりますので、どうぞお受け取りを」
奈々子に言われて、私は包みを受け取った。駅前の有名洋菓子店の包装である。
二人は丁寧に頭を下げて、帰っていった。
「徹さんにも」
さりげなく奈々子が徹の名を呼んだとき、ふたりの仲睦まじい姿が脳裏によぎった。
胸に漂う苦さに気が付かないふりをして、仕事に戻り、銭湯の灯りを入れる。
夜の訪れに伴って、人がやってくるのを静かに待つ。昨日と同じ仕事なのに、今日は何故だか息が苦しかった。
「それで、千夏ちゃん、釣書はいつもらえる?」
夜、八時過ぎ。この曜日の、この時間は、大人気なテレビ番組があるため、風呂はがらんとしてしまう。
おそらく、それを見越していたのだろう。暖簾をくぐって入ってきたときは何も言わなかったのに、帰り際に沢田さんが番台に声をかけてきた。
「あの、でも。一応、秋人に相談をしてからに……」
「あら、でも、秋人くん、反対する理由なんてないでしょ? あの子だって、もう大人なのだし」
沢田さんはノリノリである。
「えっと。まだ写真をとってないので」
「別に、きちんとした写真じゃなくていいのよ? ほら、記念写真みたいなやつでもいいから」
「……それでは、さすがに先方に失礼でしょう」
「あら。堅苦しいお見合いの時代は終わりよ」
「何が終わるって?」
男湯側の入り口から入ってきた徹が私の顔を見た。
「あら、徹ちゃん。こんばんは」
番台をはさみ、沢田さんはにこやかに微笑む。
「ね、徹ちゃんからも勧めてあげて。千夏ちゃんにいいご縁があって」
「ご縁?」
徹の眉間にしわが寄る。
「なんだそれ?」
「お見合いよ。ほら、千夏ちゃんもお年頃だもの。私ね、千夏ちゃんはグラマラスだから、ウェディングドレスが似合うと思うの」
「沢田さん、まだ相手に会ってすらいませんし、上手くいかないかもですし」
暴走気味の沢田さんを私は、必死でなだめる。
「何言っているの、千夏ちゃんは美人さんよね、徹ちゃんもそう思うでしょ?」
「え?」
沢田さんからの突然、同意を求められ、徹は戸惑っている。
それはそうだろうな、と思う。そんなふうに思ったこともないだろうし。
「気立ては良くって度胸もあるし。スタイルも抜群。銭湯に来る若い男性はみんな千夏ちゃん目当てだって噂よ」
「まさか」
私は苦笑いを浮かべる。
「そうよね、徹ちゃん」
「えっ」
徹が言葉に困っている。あたりまえだ。そんな事実はないのだから。
そんな徹の表情を見て、沢田さんは満足そうに笑った。
「ほらね、自信を持ちなさいって」
いや、今の展開、沢田さんの強引な理論だけが際立っていただけで、徹は否定も肯定もしていない。
自信を持てる、という展開はどこにあったのか、私には全くわからなかった。
「花の命は短いのよ、じゃあね、千夏ちゃん」
沢田さんは陽気に微笑んで、帰って行った。
私と徹はゆれている女湯の暖簾をしばらく見つめる。
言葉が、出てこない。
「見合いするのか?」
徹がぼそりと呟く。
「するみたい」
私の答えに不服だったのか、徹の片方の眉があがる。
「何だよ、それ。他人事みたいに」
「髪の毛、切りに行ったら、強引に薦められちゃって。断り切れなかった」
そう言えば、髪を切ったのに。
徹は気づいてもいなさそうだな、と切なくなった。
「秋人が就職するまで、結婚しないって言ってなかったか?」
「だから。断れなかったのよ。お見合いしても、すぐ結婚する訳じゃないって言われちゃって」
なんだか責められている気分になる。
徹はマジマジと私を見つめた。
「嫌なら、断れよ」
徹の目がまっすぐに私を貫き、胸が騒ぐ。あわてて、視線を落とした先に、先ほどの菓子折りがあって。騒ぎかけた胸が唐突に冷えた。
「嫌じゃなくて、無理だと思っているだけだから」
徹の目に驚きが浮かぶ。息が苦しい。
「そんなにおかしい? 私にだって、結婚願望くらい人並みにあるわよ」
徹は私を見つめたまま言葉を失っていた。
そんなに、女を捨てているように見えていたのか、と思う。わかってはいたけど、改めて確認したくはなかった。
「もっとも。見合いしたところで、この性格じゃ逃げられちゃうよね」
私はくすりと笑う。
さすがに、かける言葉がないのかもしれない。徹は私を見つめたまま動かない。
私は目をとじて大きく息を吸い、心に蓋をすることにした。そして、ゆっくり瞳を開いて、笑顔を作る。
「ごめん。変な空気にして」
私は、番台にのせられた小銭を、徹の手元に返した。
「昨日はありがとう。今日は無料にしておくから、ゆっくり入って」
「千夏」
小銭の先にあった徹の指先が私の指に触れ、私は慌てて手を引っ込める。
「心配しなくても約束した映画代は別に払うわ。前売りチケット買ってきてあげようか?」
「俺は別に……」
何か言いたげに口を開いたものの、徹はそれ以上何も言わず、脱衣所へ入って行った。
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