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第四話
「姉さん、大丈夫?」
昨日の今日で、心配したのだろう。
いつもは裏から帰ってくる秋人が番台に顔をのぞかせた。
「ああ、昨日の件なら、解決したわ。ご挨拶にみえたの」
私は番台の中の菓子折りを上にのせた。
「不審者だと思ったら、心配性のお兄さんだったのですって」
人騒がせではあったけれど、遠く離れた土地に住む妹が心配だったという気持ちは、すごくよくわかる。
「なんだそれ」
呆れたように秋人は呟く。でも、ほっとしたようだった。
本当に心配してくれたのだな、と思う。我が弟は、とても良くできた弟だ。
家事もしてくれるし、家業も手伝ってくれる。
うちの家計を助けるために、アルバイトまでやってる。本当は、学業に専念させてあげたいけれど、なかなか銭湯の経営状況は厳しくて、本当に申し訳ないと思う。
「あ、姉さん、髪の毛、切っちゃったの? 今度は伸ばすと思ったのに」
秋人は残念そうだ。
さすがに我が弟は、私が髪を切ったのに気が付いてくれた。ちょっとうれしい。
「あのね、それで、沢田さんにお見合いをすすめられて」
「お見合い?!」
秋人は相当びっくりしたらしい。
「声、大きいよ」
「ご、ごめん」
今、徹のほかは誰もいないから、いいけど、誰かいたら、町中に私が見合いすることが知られてしまうところだ。
「姉さん、お見合いって、姉さんが?」
そんなに違和感があるのだろうか。秋人の目が大きく見開かれている。
「えっと。うん。やっぱり柄じゃないよね。秋人がダメっていうなら、断るよ」
「何言ってるの! しなよ! オレに遠慮するなよ。姉ちゃん、いろいろ我慢しすぎだよ。恋だって、オシャレだって、それに、結婚して子供だって欲しい癖に、オレのために全部我慢して」
「秋人……」
「オレ、知っている。姉ちゃん、本当は銭湯継ぎたくなかったこと。本当はお菓子屋になりたかったこと」
「……そんなの、昔の話よ。秋人が気にすることないって」
私はにっこりと笑う。お菓子屋の夢、なんて。子供なら一度は誰でも見るものだ。それを本当に叶える人の方が少ないのだから。
でも、私が秋人の為にしていたことは、全て私の意思だったけれど、それが秋人に負い目になっていたのかもしれない。
「姉さん、お願いだから幸せになるの、諦めないでよ……ねえ、徹兄ィもそう思うだろう?」
秋人は、いつのまにか脱衣所から出てきた徹に声をかけた。
「え? ああ」
徹は突然同意を求められて、反応に困っている。さすがに、今のは不意打ち過ぎただろう。今日は、いろいろ巻き込んで本当に申し訳ないな、と思った。
「秋人、徹が困っているから」
私は秋人をたしなめる。
「そりゃ、困るよね。絶対、見合いなんかオレが反対すると思っていただろうし」
何を考えているのか。秋人はいつになく嫌味っぽい。徹の顔に当惑が浮かんでいる。
それはそうだろう。
私が見合いしようが徹には関係ない事なのだ。困っているのは、私の見合いのことではなく、それを関係あることのように決めつける秋人の態度であろう。
「秋人、わかった。私、お見合いするから……ごめんね、徹。秋人が変なこと言って」
「千夏、あの……そのだな」
徹は、途方にくれたような顔で私を見ている。お願いだから、そんな顔をしないで欲しい。
「本当、ごめんね。昨日から変なことに巻き込んで。この埋め合わせは、きちんとするから」
「千夏、俺は……」
言葉が見つからないらしく、徹は下を向いた。
巻き込まれて迷惑なら、いっそ、ハッキリ言ってくれたら、楽になるのかもしれない。
秋人は私と徹を見て。何かをあきらめたかのように大きくため息をついた。
「……悪かったよ、徹兄ぃ。関係ないのに変なこと言って。姉さんが見合いするのは、あくまで月野家の問題だよね」
秋人は謝罪する。
秋人は、私が蓋をしている心のうちを知っているのだろうか。知っているからこそ、こんな風に言っているのだろうか。
でも、それは『私の気持ち』だ。徹には関係ない。そう……本当に関係ない事なのだ。
そう思ったら。胸が苦しくなり、何かが込み上げてきた。
「ごめん、私、ちょっとお手洗いにいってくる。秋人、番台お願いね」
「姉さん?」
私は振り向かずに、そのままお手洗いに飛び込んだ。
頬を伝う涙の意味を、自分でも知りたくない。辛いだけの恋なんて、誰も気が付かないまま終わればいい。
私は、奴にとって『女』として認識されてすらいないのだから。
お手洗いから出ると、徹は既に帰った後だった。
お客が何人か来たので、何も言わずに私は秋人と番台を代わった。
秋人は、私が泣いたことに気が付いたのかもしれないが、そのことはおろか、見合いのことについて、仕事が終わっても一言も触れなかった。
あの時。
徹は、私が泣いたことに気が付いただろうか。
私の、涙の意味に気付いてしまっただろうか。
気づいてほしい、と思う。気づいてほしくないとも思う。
本音を言えば、『見合いなんてするな』と言ってほしかった。
でも……そういえば、剛兄さんは言っていたではないか。『昨日はご機嫌だった』って。
あれは、奈々子さんと出会えたからに違いない。次の日にデートをするくらいだ。
私と徹は、単なる幼馴染みで、それ以上でも以下でもない。
その枠から外れるものは、すべて忘れて、捨ててしまおう。
月明かりの差し込む部屋で、私は布団を頭にかぶる。枕がしっとりと濡れはじめた。
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