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付録 おさななじみ
俺の幼馴染の千夏は、相当に鈍い女だ。
顔はちょっとバタ臭いくらい、目鼻だちがはっきりしたタイプで、いわゆる『ボン、キュッ、バン』な体形をしている。声をかけにくいくらいの美人だ。
中学の頃から銭湯の番台に座っていたから、妙に度胸があり落ち着いている。そのせいで、ちょっととっつきにくさが増しているが、本人は姉御肌なところがあって、情の深い女である。
千夏は知らないだろうが、銭湯、『月の湯』には、かなり遠いところからも彼女目当てで通っている若い男性客が多い。まさしく看板娘だ。
千夏は、それほど男性に対して愛想がいいわけではない。
だが、特に薄着の季節になると、その豊満な胸は、魅惑的なのである。
盛夏になると、千夏は、Tシャツと短パンで番台に座る。もちろん、足は番台に隠れて見えないのではあるが、ごくまれに番台から出てくるところを目撃して、『眼福』だと騒いでいたり。そうでなくとも、豊満な胸や、Tシャツから見える首筋から鎖骨ラインを拝むために、日参する男どもは数知れない。
千夏に色目を使う男は、千夏が気づいていないだけで多いのだ。
俺は、つきあってもいないのに、幼馴染の特権を駆使して親しさを周囲に見せつけ、そんな輩を牽制してみたりする。
もっとも。
幼馴染の関係を崩すのが怖くて、千夏本人には何も言えない。
しかし、ようやく昨日、映画に誘うことが出来た。
千夏はデートだなんて思っていないだろうが、これはチャンスだ。
そう思って、月の湯の前に来ると。
「……それでは、さすがに先方に失礼でしょう」
困ったような千夏の声が聞こえた。
「あら。堅苦しいお見合いの時代は終わりよ」
この声は、世話好きの沢田さんだ。今、見合いって言っていなかったか?
胸にもやっとしたものが広がった。
「何が終わるって?」
暖簾をくぐるなり、千夏の顔を見た。当惑した表情の千夏がそこにいる。
「あら、徹ちゃん。こんばんは」
番台をはさみ、沢田さんは俺に微笑みかけた。
「ね、徹ちゃんからも勧めてあげて。千夏ちゃんにいいご縁があって」
「ご縁?」
心臓が凍り付いた。
「なんだそれ?」
「お見合いよ。ほら、千夏ちゃんもお年頃だもの。私ね、千夏ちゃんはグラマラスだから、ウェディングドレスが似合うと思うの」
「沢田さん、まだ相手に会ってすらいませんし、上手くいかないかもですし」
千夏は沢田さんに言い聞かせるようにそう話しているが、断る気はないらしい。
苦い気持ちが胸の中に広がる。
「何言っているの、千夏ちゃんは美人さんよね、徹ちゃんもそう思うでしょ?」
「え?」
沢田さんの顔が少し意地悪そうな笑みを浮かべている。
「気立ては良くって度胸もあるし。スタイルも抜群。銭湯に来る若い男性はみんな千夏ちゃん目当てだって噂よね、徹ちゃん」
何故そんなことを俺に聞くのか。
「ほらね、自信を持ちなさいって」
勝ち誇ったように沢田さんは笑う。
「花の命は短いのよ、じゃあね、千夏ちゃん」
沢田さんは特大の爆弾を落として、去っていく。
言葉が、出てこない。
「見合いなんかするのかよ?」
ようやく出た言葉が、それだった。
「するみたい」
他人事のような、千夏の言葉。
「何だよ、それ」
「髪の毛、切りに行ったら、強引に薦められちゃって。断り切れなかった」
見れば、いつもよりすっきりした首のラインが艶めかしい。その無防備な色香に腹が立った。
「秋人が就職するまで、結婚しないって言ってなかったか?」
「断れなかったのよ。お見合いしても、すぐ結婚する訳じゃないって言われちゃって」
「嫌なら、断れよ」
断れよ、ではなく、断ってくれ、というほうが本音だ。
「嫌じゃなくて、無理だと思っているだけだから」
千夏の言葉にショックを受けた。見合いをしても良いということは、俺は千夏の眼中にないってことだ。
「そんなにおかしい? 私にだって、結婚願望くらい人並みにあるわよ」
千夏は本人が思っているよりずっと魅力的だ。
見合いをしたら、きっととんとん拍子で結婚まで行ってしまうだろう。
頭の中がグチャグチャだ。
「ごめん。変な空気にして……昨日はありがとう。今日は無料にしておくから、ゆっくり入って」
「千夏」
千夏の指先が俺の指に触れた。その手に触れたいと思ったら、パッと手を引かれる。
完全に、拒絶された……そう思った。
「心配しなくても約束した映画代は別に払うわ。前売りチケット買ってきてあげようか?」
「俺は別に……」
映画が見たいわけじゃない。お前と行きたいのだと、どうしても言えなくて。
俺は風呂へと逃げ込んだ。
脱衣所に誰もいなくてよかったと思う。脱衣所に置かれた鏡に泣きそうな顔の男が一人、映っていた。
風呂からあがると、秋人が千夏に見合いを薦めていて、言葉を失った。
千夏は、いつも秋人の意思を尊重することを知ってるだけに、胸が苦しい。
「徹兄ィは、姉さんが見合いしても平気なんだ?」
重苦しい空気になって千夏が突然、席を外した後、秋人は不機嫌に俺を睨みつけた。
全部聞いていたわけではないが、秋人の気持ちもわかる。千夏は幼い時から、母親のように秋人を守り、そして、父親が亡くなってからは金銭的にも女一人で支えてきた。
千夏のしあわせを誰よりも望むのは、間違いなく秋人だ。
「……平気に見えるのか?」
俺は大きくため息をついた。
「見えねえけどさ」
呆れたように秋人は呟く。
「だったら、なんで、何も言わないのさ」
「……結婚願望あって、見合いするって、それ、俺のことなんか眼中にないだろ……」
「バカなんじゃない?」
秋人は千夏の去った方に目をやった。
「徹兄ぃ、今日はもう帰って、頭冷やしたら? 姉さんが鈍いことは知っていたけど、徹兄ぃも酷い」
番台に座りながら、秋人は大きくため息をついた。
「言っとくけど、オレは『反対』してあげないから。自分でなんとかしなよ、男だろ?」
五つも年下のはずの秋人にそう言われて、すごすごと家に帰るしかなかった。
心底、情けなかった。
映画館を出ると、初夏の太陽が照り付けていた。
強引に千夏を誘い出したものの、言わなくてはいけない言葉が、なかなか言えない。
「どうする? お昼、どこかで食べていく? それとも、そうめんなら、月野家食堂で食べる?」
「え?」
屈託のない笑顔で、千夏が問いかけた。
「ん? どうかした?」
「……それって、家で千夏が作るってこと?」
「え? 月野家食堂の料理人は私だけど、何か問題が?」
今の時間、秋人は家にいない。誰もいない家に、男を家にあげる意味を、千夏はわかっているのだろうか?
「……じゃあ、月野家食堂がいい」
ご機嫌にメンチカツを買っている千夏に危機感が全くない。
胸元の開いたシャツドレスから見える谷間とか、短めの丈からのぞく太ももとか、無防備すぎる。
正直、理性がたもてる自信が全くない。
そして。
予想通り、料理人ごと、美味しくいただいてしまった。
その後、とんとん拍子に話が進んでいる。
「徹兄ぃ、余裕なさすぎ」
秋人に呆れられるけど。
番台に座る千夏のうなじに、いつも俺の印がついていることは、千夏だけが知らない事実。
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