夕暮と失意

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夕暮と失意

「俺と付き合って。萩野(はぎの)」 僅かな足音すら立ててはいけないような気がして、咄嗟に身を隠す。物音を立てずにいる分、皮膚を突き破って飛び出しそうな心臓の鼓動が、数メートル先の二人に聞こえているんじゃないかとハラハラする。  ひと気のない渡り廊下に射す夕陽の中に立っているのは、紛れもなく私の片想いの相手――岡部(おかべ)晴由(はるよし)と、親友の萩野律子(りつこ)である。  向かい合って立つ二人の表情は、オレンジの光が飛ばしてよく見えない。それでも、二人の間には何ものの入る余地もない、静かであたたかい――ちょうど、夕暮のような――空気が横たわっていた。  顔なんてよく見えない状況で、逆によかった。  突然、魔法か、あるいは金縛りを解かれたみたいに。神経が通っていないかのように微動だにしなかった脚が動くようになって、私はその場を離れた。  後ろを振り返る勇気はなかった。ただ歩いた。ブレザーの肩にかけた鞄がやけに重かった。紐を握り直すと、気付かれないようにそっと踏み出した歩く速度が、どんどん速くなっていった。昇降口で外靴に履き替える頃には、なんだか一気に酸素が喉に入ってきて、私はさっきまで、ろくに息もしていなかったことに気付いた。  別に涙も出ないけど。夕暮の空を見上げる。  まじか。こんなことになるなんて。  なんということはない、いつも通りの夕方に。  私の恋は、終わった。    考えてみれば高校のクラスとは、なんと残酷で歪な集団だろう。  本来何の縁もない人間を40人詰め込んで、誰と誰が付き合ってるとか、誰が誰を好きとか、みんな知ってるのである。  私のいる2年6組も、そんな混沌とした箱の一つだ。 「まじ⁉岡部と、付き合ったの⁉」 誰かの頓狂な声、そしてそれに「あはは」と苦笑で応えるりっこの声。  そこへタイミングよく岡部が教室に入ってきて、教室は俄然、騒がしさを増す。皆に囲まれ、小突かれ、事情聴取され、お互い満足に目も合わせられずに頬を染めている二人を見ていられなくて、私はそそくさと自分の席に滑り込んだ。  昨日あの場で私は、もしかしてりっこが、岡部の告白をすぐにはOKしないんじゃないかと一瞬、考え、そしてそんな自分を恥じ、呪った。  視線を感じる。みんな、二人だけではなく私のこともちらちらと見ている。  ほらね、やっぱりみんな知ってるんだ。  居心地が悪いとまでは思わないけど、同情――あるいは単なる好奇の目を向けられるのは、まあまあいたたまれなかった。  りっこと目が合った。  その大きく、快活さを湛えた瞳が何かに揺れ、視線は一瞬で逸らされた。  ぎゅうう。  心臓が捻り潰されたかと思った。喉がかあっと熱くなった。  だめだめ。恋を叶えて幸せになるべきはずの人を、私が不安にさせてどうする。  しゃんとしよう。  一つ短く溜め息を吐き、背筋を伸ばすと、少し冷静になれた。  つまり、だ。私が失恋したということは、もう一人、時を同じくして失恋した人間がいるはずだ。  私と対角線の席に座るその男を、ちらりと見る。  いかにも生真面目といった眼鏡の横顔。この男こそが他でもない、りっこに片想いをしていた男である。  その男の名前を目にすることはよくある――試験の成績上位者の貼り出しで。その表の一番上に、いつも「滝本(たきもと)慶一(けいいち)」の文字があった。  私もそれとなく、その中に自分の名前を探すが、「増田(ますだ)知緒(ちお)」の4字を見つけ出したことはまだない。私も勉強はそこそこ得意な方だが、あの表に載るのはやはり簡単なことではないらしい。学年トップを保ち続けている滝本のことは素直にすごいと思う。  とはいえ。よくよく考えてみると、同じクラスにいるのにろくに話したことないなあ、ということに気付く。彼の名前は学年の誰もが知っているけれど、私にとって彼は他人に過ぎない。  果たしてこれからも、そうなんだろうか。  そこで予鈴が鳴り、わらわらと席に戻っていく人波に彼の姿は隠された。
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