序章

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序章

 梅雨の特有のじめっとした空気が肌を撫でた。  空気を入れ替えようと窓を開けて網戸で虫をガードするが、外の空気は雨が降る寸前のはりつめたものを予感させ、私の顔が外の空模様と同様に憂鬱に曇っていく。  開けるんじゃなかった。後悔するがもう遅い。  ベランダを出て洗濯物を取り込み、今朝見た天気予報を思い出そうとする。  灰色の曇りマークの傍で、笑顔の眩しい女性のアナウンサーが「突然の雨に注意してください」と付け加えたのを思い出した。  幸い洗濯物は乾いている。安堵しつつ、バタバタと乾いた服を片付ける私は、ふと手を止めた。 ――彼が死んでから、3年も経過している。    3年が長いのか短いのか分からない。  彼を失って嘆き悲しんで、寝食を忘れていたかつての自分の姿はなく。  代わりに存在しているのは、洗濯物を手に取って、雨が降ることに苛立ちを感じる私がいる。  罪悪感が湧かず、どこか途方に暮れたような、遠くに来てしまったような物寂しい感情。  もう、私の中でのかつての恋人――嶺倉(みねくら) 雅紀(まさのり)の死は、日常に埋没してしまった。  心の傷は時間が癒してくれる――なるほど、確かにその通り。  色褪せた記憶に思いを馳せれば、満天の星空の下で雅紀が手を振っている。  心の中で私は手を振り返して、決して彼に駆け寄ることはない。  写真のように固まる風景を眺めて、アルバムを閉じるように目を閉じる。 『故郷の満天の星空を、(みつる)にも見せたいよ。七夕になったら、オレの実家に来てくれないかな?』  彼はそう言って、携帯の待ち受け画面にしていた故郷の星空を私に見せた。  澄み切った青い闇の中で、宝石箱をぶちまけたような溢れんばかりの星たち。  光の川のごとく帯状に広がって、あまりの星々の眩しさに川の周囲が白くにじんで霞んでいた。  周囲を霞ませる白は、まるで雲のように重みを感じさせて、そこから星が雨のように降ってきたとしても私は驚かないだろう。  星降る夜の写真を見せて、彼は3年前に私にプロポーズをして、その翌日に呆気なくこの世を去った。  急に飛び出してきた自転車にはねられて、道路の縁石(えんいし)に後頭部を打ちつけたのが原因だった。    ぽつりと小さなものが落ちる音が聞こえた。  目をあげて顔をあげると、灰色の空が星ではなく透明な雨を降らせている。  明日は蒸し暑くなりそうだ。そう考えながら、ベランダに通じる窓越しに雨に濡れる銀色の街をみる。  派手に跳ねる水音と冷えた風を心地よく感じて、そのまま眠りにつきたくなってしまう。  3年前には考えられなかった未来の自分は、無情にも普通に生活を送れるようになっていた。
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