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少しでもカザルやハヌルの役に立ちたかったのに。
後宮に行ったら、帰ってこられるのかな。
庶民は王宮に用はない。
花街からは遠く輝く王宮の塔の先端ぐらいしか見えやしない。
⋯⋯なんだか泣きたくなってきた。
「ロエルー!!」
「リュカ!」
仕込の一人、リュカが中庭に入ってきた。
今日の稽古は終わったのだろう。
明るい金髪に蒼い瞳のリュカは店一番の期待株。花開く前の蕾のような美しさで、デビュー前から客がつく勢いだ。本人は美貌を鼻にかけないさっぱりした性格なので、一緒にいて気持ちがいい。同年代なこともあって何かあれば気兼ねなく話す仲だった。
「聞いたよ、大変だったんだって」
「⋯⋯もう、そんなに噂になってるの?」
「だって、リアン師匠の機嫌がものすごく悪いんだよ。主様を殴ったって聞いたけど」
「うん」
「安心して! 俺も一緒に行くから!!」
「ほ、ほんとに? リュカも一緒に行ってくれるの?」
後宮の話をすると、リュカは太陽みたいに、にっこり笑った。
朝からずっと心細かったおれは、リュカの手をしっかり握る。
「うん、大丈夫だよ。仕込の中からも誰か行った方がいいんじゃないかって。
それに王宮に行けば、思わぬチャンスをつかめるかもしれないし」
ちょっと意外だった。
今までリュカはチャンスや出世になんて全く興味がなさそうで。この店で、一人前になれればいいって言ってたから。
「ロエルを一人で行かせたりしないよ」
「ほっとした⋯⋯。ありがとう」
「うん、心配しないで。国中からたくさん人が集まるだろうし。不安になったら⋯⋯俺だけを見て」
綺麗に微笑むリュカが眩しい。
いつもより力強く握り返してきた手が、今は何よりも心強かった。
「ロエル」
ハヌルの使いで隣町からの帰り道。店の前の稽古場から出てきたリアンに会った。
カザルとの喧嘩の日から1週間、お互いに顔を合わせることはなかった。
なんとなく気まずくて目を逸らす。
「お疲れ様です」
そう言って頭を下げ、店の中に入ろうとすると。
「ちょっと付き合って」
そっと腕をとられる。
「え?」
顔を上げると、暗く揺れる緑水晶の瞳。
切なげな瞳に嫌とは言えなくなって、一緒に黙って歩いた。
町はずれまで歩き、川沿いの土手に立った。
土手からは見渡す限り芝桜が絨毯のように鮮やかに広がり、白と鮮やかな桃色のコントラストを作っている。
降り注ぐ午後の陽射しは暖かいが、辺りには誰もいない。川面が光を反射してきらきらと輝いていた。
「きれい!」
思わず声を上げた。
「こんな場所、あったっけ? 全然知らなかった」
「お前は店の手伝いと学校で忙しそうだったからな。ずっと連れてきたかったんだ」
そうかもしれない。
リアンがよく誘ってくれたけれど、空返事ばかりしていた。
ごめん、と呟くとにっこり微笑まれた。
「いいさ。こうして一緒に来られたから」
芝桜の間を抜けて、土手を下る。
「リアン、ね、少しだけ川に入ってもいい?」
袖をまくり上げると、リアンが困ったように笑った。
「ちっとも変わってないな。まだ水が冷たいかもしれないのに」
水が好きだ。昔から、一人で川に入ろうとしては、よく怒られた。
そっと水に手を付け、足を濡らす。流れる水は少し冷たいが、気持ちが良かった。はしゃいで水をすくい、空中に投げる。光の粒が広がって青空の間に飛び散る。
いつからこんな遊びをしなくなったのだろう。
振り返ると、リアンが眩しそうにこちらを眺めていた。いたずら心を起こして、リアンに向かってすくった水を投げた。
「ちょっ! 待って!」
光る水の粒と逃げるリアンの髪と。どちらもきらきらと輝いている。無性におかしくなって何回も投げるうちに、川床の石に足がつるりと滑った。
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