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「本当にそこに月があるように思えて、つい天井を見上げたくなる。さっきからこの絵を見る者の視線が妙だと思っていたのだが、こういうことなのかと合点がいった」  頬がさっと熱くなる心地を覚えながら、「ありがとうございます」と草准は頭を下げた。  目の前にある新作、『銀の海』は、こうして壁にかけてみると、思った以上にスケールの大きな絵に仕上がっていた。  当初の予定どおり、構図はひたすら単純だ。縦1.5、横2メートルほどの大きな画紙の下半分を覆い尽くすのは、あちこちに頭を向けてぎっしりと穂を重ねたススキの海。ぼうっと光る地平線の向こうには、明るい月の光を湛えた空が広がっている。  その空と大地の間を満たす、あたたかく透明な光を含んだ空気の色を表すのには苦心した。ススキの海を銀色に光らせる、見えない月が落とす反射の陰影にも。  そこにない月をあるかのように見せる。それは簡単なことではなかったが、どうやら成功したようだ。  実際、劫詠が言ったように、設営を手伝ってくれた美術館の職員たちや、同門の画家たちですら、この絵を見たものはみな、思わず……といった風に白い天井しかないはずの、額縁のはるか上方に、月の姿を求めて目をやった。そのことがどうにも可笑しく、そして嬉しかった。まさにそうした錯覚を人に起こさせるために、持てる技巧の限りを尽くした。  まったく、いつもながら師匠は褒めどころを知っている。画家がどこを見て欲しがっているかを一目で見抜き、ぴたりと当てて、すべての苦労が報われたような心持にさせるのだ。  その分、見て欲しくないところを見抜く眼光も正確で容赦ないが……。だからこそ、この人の前では全力で描かずにはいられない。その厳しくもあたたかい視線が、画家としての古箭草准を作り上げたといえる。いまだこの視線なしには一筆だって描けない、と思うことすらある。
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