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 都心のホテルの前でレオと別れ、ロビーに入ったところで劫詠師匠に会った。師は、妻を伴っていた。にぎやかに人が行き交う中、歳を経た夫婦が姿の良い和装でたたずむさまは、まるで静寂をまとっているかのようだった。  劫詠の妻に会うのは、夏に師が倒れた時、見舞いに行って以来だ。「ご無沙汰しております」と、草准は頭を下げる。かつての優しさが消えてしまって久しいその目を見ることは、いまだできなかった。  黙って会釈を返し、劫詠の妻は立ち去った。再び頭を下げて見送る草准の胸に、漠とした思いが残る。 「近くで茶会があるというので、一緒に来たんだよ」  劫詠の言葉を聞き、席を共にするわけではなかったことに、わずかな安堵を覚える自分が情けなかった。  その後、師匠や相弟子、得意客たちを交えた気の張る会食の席で精いっぱい接待に努め、いつものごとく会が終わる頃には疲れ果ててしまった。  せっかく開いてもらったねぎらいの宴だというのに、いつもながら申し訳ない気持にもなるが、ふだん静かに暮らしているせいか、こうした席はどうしたって心から楽しむことができない。師匠をはじめ、高齢者の多い席のことで、早い時間に終わったのは幸いだった。  このあと弟子たちだけで別の店にいかないかという形ばかりの誘いを穏便に断り、若い者たちのためにいくばくかの飲食代を包んで渡す。そうしてようやく独りになって、街に出た。  暮れかけた空に、薄い月がぽっかりと浮かび、黄色く色づき始めたイチョウ並木に映えて美しい。ぼんやりと見上げながら、ただ空虚だけが胸に残る。  このまま電車で帰るつもりでいたが、和服姿で雑踏にいると、集まる視線がどうにも煩わしく、逃げるようにタクシーに乗り、遠い自宅の住所を告げる。めったにない贅沢だったが、とにかく疲れていた。
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