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「リュカの好きな物、たくさん送るからね。手紙も書くよ。⋯⋯と、時々は帰ってきて」
「もちろんだ。折を見て帰ってくるし、アスウェルで必ずお前の隣に立てるような男に⋯⋯」
ロエルの手を掴もうとした瞬間、すっと長身の男が割って入った。
「殿下と一緒に行くんだろう。後のことは何も心配しなくていい。お前ほど美しければ栄耀栄華は望むままだ。両国の架け橋にもなれるだろう。心置きなくアスウェルの土になれ」
リュカの蒼い瞳が細められた。
「リアン師匠、仕方がないから、もう少しロエルの面倒を見させてあげますよ。年寄りに花を持たせるのも若者の務め、これも弟子の仕事ですからね」
「⋯⋯もう一度、言ってみろ」
「⋯⋯おや、耳が遠くおなりで?」
波止場に季節に不似合いな突風が吹き荒れる。
「ロエル、アスウェルに来たくなったら、いつでも言うんだよ。君のためなら、王宮に部屋も位も用意するからね」
いがみ合う二人の影で、王太子がさりげなくロエルの手を握る。
ロエルは慌てて首を振った。
「ほしいものがあればアスウェルから届けさせるよ」
王太子は甘く微笑んでロエルの指に口づける。
「いえ、何もいりません⋯⋯。それに、先日の詫びにと子豚をいただきました。もう十分です。おれはズアが好きなので、このままズアにいます」
「子豚⋯!!全く奥ゆかしいねえ。そういうところも君の素敵なところだ。ぼくの周りには、なかなかいないんだよ」
悲しげな視線を向ける王太子に、ロエルはそっと目を伏せた。
汽笛が鳴った。
真っ白な船が、波頭をたてて海を行く。
リュカと王太子が船の甲板から大きく手を振っている。
ロエルは何度も大きく手を振り返した。
「ロエル」
振り向くと目の前にリアンの顔があった。
突然、あたたかな唇が触れ、強く抱きしめられる。
船の上からも、きっと見えているだろう。
「ん!ん──っつ!!」
リアンの体を強く押し返しても、離してはくれない。
「リアン!ひ、人前で!!何を!!!」
「見せつけてる」
「は!?」
風に混じって、王太子とリュカの声が、かすかに聞こえたような気がする。
もう船は豆粒ほどの大きさになっていた。
ロエルの顔は真っ赤だった。
リアンがふっと微笑んで、楽しそうにロエルの頭をくしゃくしゃと撫でた。
その微笑みを見ると余計なことを口走ってしまいそうで、ロエルは慌てて目をそらした。
「ねえ、リアン」
「ん?」
「宴で舞うこと、前から決まってたの?」
リアンが小さな呻き声をあげる。
ロエルが怪訝な目を向けると、口許に手を当てて眉を顰めている。
「⋯⋯カザルの伝手で、祝宴の舞手に入れてもらった」
「カザル兄さんの!?」
「──おかげで、向こう半年、ただ働きだ」
ロエルの瞳が見開かれた。
どんな約束が交わされたのか。
一瞬、カザルの酷薄な笑みが浮かんだが、それ以上は恐ろしくて聞くことができなかった。
「帰ろう。カザルたちが待っている」
王太子セランの為に集められた若者たちは、家々に帰されることになった。
『後宮入りした』という栄誉があれば、この先、嫁取りも婿入りも引く手数多と評判だ。
「うん。後宮に来てはみたものの⋯⋯あまり役に立たなかったなあ」
ロエルが波を見つめながら、しみじみと呟いた。1カ月余りの出来事が胸をよぎる。
王宮での審査。子豚と走ったり、慣れないダンスをしたり、攫われたり⋯⋯。
「そんなことはないだろう。十分役に立った。それに、お前が後宮に召されたままだったら」
リアンは、少し屈んでロエルに視線を合わせた。
「俺は逆賊になるしかないしな」
月明かりの下。
天女のような微笑みで、一緒に行こうと言った姿が脳裏に浮かぶ。
幼い頃から、いつも優しく側にいてくれた。
「本当に一緒に逃げるつもりだった?」
「もちろん」
ロエルの目の前に、リアンの柔らかな微笑があった。
「お前が望むなら⋯⋯どこにでも」
──どこにも行くな。
切ない瞳を向けられたあの日が、はるか遠い日に思える。
ロエルの右手がリアンの左手に絡められた。
波音に消えてしまいそうな小さな声で、ロエルは囁いた。
「ここにいるよ。⋯⋯リアンの側に」
銀色の髪が揺れて、小柄な少年を抱きしめた。
二つの影は一つになる。
強くなった陽光に、もうすぐ季節が変わることがわかる。
波止場からは、王宮と家並みが白くきらめくのが見えた。
紺碧の海は光り輝き、穏やかな波を寄せていた。
おわり
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