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メメの兄
兄が死んだ。
兄は、天才だった。魔術という学問を何百年分も進歩させ、魔術という技術に大きな変革をもたらした。そんな偉業を為した兄は、まだ、たったの十歳で、この世を去って、後には才のない妹と、兄を崇める歪な両親だけが遺された。
それが、過ちの始まりだった。
メメが目を覚ますのは、いつだって、痛みのせいだ。
目を開き、最初に見えたのは自分の腕。枕のようにする癖がある腕には包帯が巻かれているが、そこにはうっすらと血が滲み始めている。起き上がって頭を振ると、兄と同じ銀の色をした、腰まで届く髪がさらさら揺れた。
銀の髪は、魔術の世界において特殊な意味がある。特別な何かに愛されているとしか思えないほどの才を持った魔術師は皆、銀の髪を持っているからだ。しかしながらメメは、何の因果か魔術の才に恵まれなかった。魔術を扱うには魔術というものを感知するための感覚器官のようなものが必要なのだが、メメにはそれが備わっていない。ゆえにこの銀の髪は見掛け倒しだ。いっそ切ってしまえば目立たなくなるだろうと思うが、反対されてしまったことがあるから、実行には移せずにいる。
少し重く感じる体を起こし、腕や片目、脚に胸といった体の随所を覆う包帯を一つ一つほどいていく。ベッドの脇にあるサイドチェストの引き出しから新しい包帯を取り出し、肌に走る文字の形をした傷を覆い直す。眼球そのものに施された傷がずきり、激しく痛み、眉をしかめた。今日も全身を、慣れ親しんだ痛みが包んでいる。もうずっとこの傷と付き合い続けているのに、この傷も、痛みも、いつまで経っても慣れることができずにいる。
包帯を取り替える作業が終わってから窓辺に寄り、カーテンの向こうを覗き見る。……朝日はまだ上りきっていない。空にはまだ、闇が残る。窓の向こうにある家々の屋根にはところどころ雪が積もっていた。夜のうちに雪が降ったらしい。家の中は常に快適な温度を維持されているが、今日は冷えそうだ。
「お姉さん」
扉を叩く音がした。メメが立てた微かな物音を聞きつけてやってきたのだろう。耳に馴染むちょっと明るい声色に、メメは「どうしたの」と無愛想に返す。
「アストリアさんから手紙が来てましたよ」
「あの人が」
珍しいことだ。だが、それだけに用件の推測は簡単にできる。扉の下から、手紙が挿し込まれる。メメは小さく息をつき、しゃがみ込んで手紙を受け取る。封を開けて中の便箋に目を通すと、思った通りのことが書かれていた。
「手紙、ほとんどあなた宛て」
「ああ、やっぱり。アストリアさん、なんですって?」
「新しい魔術道具の注文と、それから魔術師会の登録の更新手続き、あとついでにあそこに常備している魔術道具の調整もやってほしいんだって。今日の正午、いつものように私の部屋に門を開くから、それを通って来いって。あと、いつもみたいに手続きに数日かかるから、その分の着替えもちゃんと用意してこいとも言ってる」
言いながらメメは、便箋二枚のうち一枚を取り、ドアの下に挿し込んだ。そこには具体的な注文が記されている。
「内容、了解です。だいたいそんな用かと思って、準備はもう一通り終わってます。これなら追加のものもほとんどないので、正午までゆっくりできそうです。今日も一緒に行かれますか?」
「うん、行く」
「わかりました。今日の朝ご飯は何がいいですか?」
「食欲がないから食べやすいもの」
「わかりました。じゃあ、さっぱりとしたスープとサラダ、作ってきます。準備できたら呼びますから、それまでゆっくりしててください」
「ん」
軽い足音が部屋から遠ざかっていく。聞こえなくなったのを確認してから、メメは再び手紙に視線を落とす。手紙の最後には、こう書き添えられていた。
『あなたが探していた人をリーヴェロッテがとうとう見たそうよ。諸々確認したいとのことだからよろしく』
文面を数度、目でなぞる。そうしても、最初に見たときと同じ。心はずっと凪いでいる。
(……思ったより、何も感じない)
あれからもう、十五年。五歳だったメメは二十歳になり、あのときから一緒に過ごしてきた両親は、もういない。……結局、最期まで、彼らはメメを見てはくれなかった。
そして、メメのもとには。
(やめよう)
考えて無駄だ。手紙をサイドチェストにしまい込み、クローゼットから鞄を取り出す。……どうせメメの分も彼がしっかり準備しているだろうが、それでも何かをしていたくて、余分とわかっていながらも、着替えや包帯に薬といったものを鞄に詰め込み始めた。
外出の準備を終え、身支度も整えたメメは自室を出て廊下に出る。
メメの家は二階建ての一軒家だ。もとはかなり年季の入った空き家だったが、ここを気に入った彼により、根気よく補修が行われ、今ではすっかり居心地の良い我が家になっている。二階は家主であるメメの部屋があり、それ以外はほとんどが書庫となっている。書庫は一階とも繋がってもおり、この家自体が巨大な書庫にくっついているような状態だ。
一階は彼の部屋と、それからキッチンや居間、厨房といったものが詰まっている。彼の部屋は二階のメメの部屋に比べるとかなり狭苦しく、いくつかの私物をメメが預かろうかとか、書庫に適当なスペースでも作って物を置けるようにしようかとか、そういったことを何度か提案したのだが、彼は頑なに頷かなかった。メメが主だから、年長だから、世話になっているから、だからこれでいい。彼はそればかりだ。
二階の奥にある寝室からまっすぐ廊下を抜け、突き当たりにある階段を下る。居間のテーブルには、今日も花が活けられていた。今日の花は桃色と白の柔らかく華やかな花だ。
「お姉さん」
メメの足音を聞きつけて、居間の奥にある厨房から彼が飛び出してくる。
短く整えた銀の髪。メメとよく似た面差しの十歳程度の少年だ。メメと同じ灰色の目を少し丸くしている。
「もう降りてきたんですか? まだ寝てても……」
「平気」
心配する声を遮って、椅子につく。
「あ、髪は……」
「それも平気」
メメの髪はいつも彼が整えている。自分でできると言っても、彼は自分がやると言って聞かない。毎日彼の前に出る前にちゃんと髪に櫛を通してくるのだが、メメのちょっと雑なやり方ではどうも不満なようだ。
そっぽを向いて頬杖をつく。そうすると腕に鋭い痛みが走ったから、メメは諦めて手を伸ばしてテーブルの上に置く。なんとなくうつむいていると、彼が歩み寄ってきて、額に手を置かれた。……ちょっと冷たい。
「熱はないみたいですね」
座っているメメと、立っている彼。目線はちょっとだけ、彼の方が高くなる。だからといって見上げない。メメはずっと、床板の木目を眺める。
「いつも通りでしょ」
「うん、いつも通りです。ところでお茶は何がいいですか?」
「スープだけでいい」
「そうですか?」
「ん」
「わかりました」
彼はちょっと残念そうに笑って、メメの額から手を離す。そのまま、そうするのが当たり前みたいに頭を撫でられた。
いつものことだ。いつものことなのに、いつも、胸が痛くなる。
「もうちょっとでスープができるので、ちょっと待っててくださいね」
軽やかな足取りで、彼は遠ざかっていく。その小さな背中を見送ってから、メメはテーブルに置いた自身の指を丸めて拳を作る。手のひらに爪が食い込んで、少しだけ痛かったが、今はその痛みがずきずきと心が痛むのをごまかしてくれるような気がして、心地よかった。
彼と過ごすようになって、五年。メメはいまだ、彼への接し方を決めあぐねている。
――彼の名はモカ。十五年前に死んだ、メメの兄その人だ。
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