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「はい、お待たせしました」
メメの前に食事が並べられていく。具材が細かく切られた色の薄いスープと、果物が添えられたサラダだった。果物はメメの好物の一つで、食欲がまったくない日でも果物だけならば食べられるときも多い。食欲がないと告げていたので、気を利かせて用意してくれたのだろう。
「ありがとう」
短く礼を言って、フルーツから食べ始める。さっぱりとしたドレッシングがかかっているから食べやすい。スープも同様だ。味が薄く整えられているため、非常に食べやすい。メメはそれをゆっくり、時間をかけて食べ進めていく。向かいの椅子には誰も腰かけていない。彼は決して、メメと食事を共にすることがない。厨房に引っ込んで、そこで片づけするのに徹している。
メメの食事の手が止まると、それを見計らったかのようにモカが厨房から出てくる。まだスープとサラダが少し残ってしまっているが、もう食べ進められそうにない。
「……ごめんなさい、残して」
彼が用意してくれる食事は一見素朴だが、どれも手間暇かかっている。もったいないことをしてしまっている。謝ると、また頭を撫でられた。
「大丈夫ですよ。無理しないで。これだけ食べられれば栄養は充分でしょう。でも、体力の消耗を抑えるためにも、しばらく横になっていた方がいいかもしれません」
「……ごめんなさい」
優しさが、今はつらい。また謝ると、モカはそんなメメを安心させるみたいに笑いかけた。
「平気です。無理をされる方がつらいですよ」
モカに、生前の記憶はない。メメが実の妹であることも、自身が死者で、蘇った存在であることすら知らない。何も知らないのにただひたすら従順に、メメに仕えている。そのくせしょっちゅう、小さな妹にするように頭を撫でてくるし、このように元気づけようとしてくる。
「それより部屋に戻って休むことを優先しましょう。立てますか?」
「でも……アストリアのところに行くなら、ちょっと仕事をしないと」
メメの仕事は、魔術に関連した本の収集と管理だ。魔術は法や条約によって厳しく規制されているため、その書籍の管理もまた、厳しく規制されている。昨日も古い本がいくつか納品されたため、それの整理をしなくてはいけない。
「それだったら俺が代わりますよ」
「ううん、私の仕事だから、私がやらないと」
「……じゃあ、手伝います。本の運搬は俺がやるので、点検の方をお願いできますか?」
「あなただっていろいろやることあるでしょう? 私は一人で平気」
「駄目です。お願いです」
じっと目を覗き込まれて懇願される。メメは何も言えなくなり、不承不承頷くしかできなかった。
書庫に入ったメメは、中央にある机につく。するとモカが書庫の片隅にある本が積まれた台車をメメの傍らまで運んできた。メメはそこから一冊本を取り、数ページ目を通して机の右端に置く。右端は教本という意味だ。モカはそれを持ち、本棚に向かった。
一口に魔術の本といっても、その種類はさまざまだ。単純に魔術について記されているもの、魔術の使い方について詳細に書かれた教本、すでに廃れてしまった魔術について記されている歴史的価値があるもの、そして、一番厄介な本そのものに魔術が刻み込まれたもの。メメはそれらを仕分けていく。
メメには魔術を扱うための感覚はないが、両親から徹底的に魔術について教わったため、知識は豊富にある。それらを駆使すれば、書いてある内容からこの本がどんなものか推測するのは容易にできる。
この書庫にある本棚も、書庫も、一見はごく平凡なものにしか見えないが、そのすべてにとても強固な魔術の鍵が仕掛けられているため、通常は絶対に開けたり、本を取り出したりすることはできない。他にも複数の魔術によって常に監視、警戒がされているため、ここはあらゆる魔術の本の保管場所として成立している。
溜まっていた未分類の書籍を仕分け終わった頃には、すっかり正午近くなっていた。メメは小さく息をつく。……少し、疲れてしまった。
「大丈夫ですか? お茶とか飲みます?」
「ううん、平気。そろそろ門が開くから行こう」
言って立ち上がろうとしたのだが、モカの手がメメの両肩に添えられる。
「……何?」
「髪、まとめてもいいですか?」
顔を覗き込まれてそう訊かれた。さっきからちらちらこちらを見ていると思ったら、よっぽどメメの髪をまとめたかったらしい。
「いいよ、このままで」
「でも、長いのは俺のせいですよね」
「……別に、そうじゃない。私も納得はしてる」
――五年前のことだ。
あのとき、モカは蘇ったばかりで、メメは、両親を失って一人ぼっちになったばかりだった。モカの意識はまだぼんやりとしていて、虚空を眺めてばかり。声をかけても反応すら返ってこず、メメは、肉体だけが蘇生されて、それ以外は失敗してしまったのだと思い込んでいた。
何はともあれ、メメは一人になった。両親に言われて伸ばしていた銀の髪はもういらない。傍にあったナイフを、自分の髪に当てた。そのまま切ろうとして、けれど、できなかった。思いがけず強い手が、メメの手首を掴んで離さなかった。
「切っちゃうの?」
意識を感じさせなかった瞳に、ほのかに意思が宿っていた。
「そう」
「嫌だ」
「……嫌?」
「もったいないよ。綺麗なのに」
言葉少なにそれだけ言って、あとは、押し黙る。そのくせメメの手首から手は離さない。
メメは、兄のことを何も覚えていない。こうして面と向かってみても、確かに自分とよく似た面差しだと感じるが、それだけだ。懐かしくなったり、それをきっかけに何かを思い出したり、そんなことは一切ない。こうして動いて離す彼を見ても、失敗していなかったのかと冷淡に思うだけで、何の感慨も抱けない。
それなのに、なぜだろう。メメの手首を握る手は温かくて、なぜだか、とても懐かしいような気がした。
「……わかった、切らない」
そう返したのは、彼に気を遣ったからでも、彼にお願いされたからでもない。急に何かがこみ上げてきて、これ以上触れられているのが、怖くなっただけだった。
メメの胸の内など知る由もない兄は、うんと嬉しそうに笑っていた。そのときのことを今のモカもちゃんと覚えていて、メメの髪が今でも長いままであることを、自分のせいと感じているらしい。だからせめて帽子で容易に隠せるよう、まとめたがるのだ。
「今日はアストリアのところに行くだけだから。あそこの人たち、髪の色なんて気にしないじゃない。だからいいの」
「ときどき客人が来るじゃないですか」
「それは……そうだけど」
「客人がいたら、じろじろ見られちゃいますよ。嫌じゃないですか?」
「…………それは」
ごまかしようのないところを突かれてしまった。
「まあ、どちらかといえば、嫌……だけど」
しどろもどろそう言うと、モカはちょっと嬉しそうに笑って「じゃあ、髪をまとめさせてもらいますね」と言って書庫を出ていった。櫛や髪留めを取りにいったのだろう。
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