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昨晩の失態を忘れようとするかの如く、乃蒼は仕事に没頭した。
時折腰を擦りながら、ありがたい事に開店から閉店まで途切れる事なく入った指名予約を捌いていく。
お昼を過ぎてもまともに昼食も取れず、カラーリング中の待ち時間に急いで近くのコンビニでおにぎり二つを買ってきた。
「佐伯、大丈夫か? シャンプーは新井に任せとくからゆっくり食べろよ?」
「……ふぁい」
タイマーを裏に持ち込んで急いで咀嚼していると、三年先輩の三隈にそう気使われ乃蒼はホッと胸を撫で下ろす。
おにぎりを口いっぱい頬張っていたのでそれをお茶で流し込み、何気なくスマホを手にした。
忙しいのはいい事だ。
何も考えなくて済むし、あっという間に一日が終わる。
時々無性に人肌が恋しくなる乃蒼の心中は、ずっと前から変わらず後悔一色だ。
それをいつも癒し、慰めてくれる男の腕を欲していたはずが、まさに後悔の根源となった男の面影を思い出す事になろうとは。
「…………ふぅ……、……えっ!?」
あと十分は休憩を取れると踏み、手にしたスマホを起動させてみる。
何かに導かれるように、あまり見返す事のない発着履歴を開いた途端、あり得ない人物の名がそこにあって思わず立ち上がった。
昨日の二十三時頃。 トラウマを抱える乃蒼が絶対に掛ける事のない相手へ自らが発信していた。
「……う、嘘だろ、嘘だろ……っ」
履歴を見ると通話時間01:48とあり、確実に何事か会話をしている。
───ヤバイ。 全然覚えていない。
乃蒼はゆっくりと着席し、頭をガシガシ掻いて昨日の事を思い出そうにも、ビンちゃんに頼んだ三杯目のサングリア以降の記憶がほぼない。
その名を耳にしてからというもの、酔わなきゃやってられないと勝手に自暴自棄になってしまったのは事実だが、だからと言って彼に直接コンタクトを取ろうとするとは思えなかった。
月光とは、あの決別した日から本当に距離を取ったのだ。
翌日も何食わぬ顔で誘いを掛けてきたが乃蒼は頑なに応じず、それでもしつこく迫ってくる月光へ「彼女だけじゃなく月光のセフレ全員に俺との事バラすぞ」と脅して諦めさせた。
別にいいよと切り返される恐れもあったけれど、意外なほど彼はあっさり引いたので乃蒼はホッとした。
月光があれ以上乃蒼に執着しないように、何より乃蒼自身が月光に依存しないようにするためには、離れるしかなかった。
別の男と寝た乃蒼に、「次やったら半殺しの刑」などと恋人ぶった事を言っていた月光がいつ何時乃蒼を傷付けるか分からない。
大切な初体験を友達で済ませ、その後もズルズルと快楽に溺れて関係を続けてしまった報いなのだと、身を削る思いでお別れした。
月光に気持ちを抱く前で良かった。
あれで正解だった。
セフレどころか、確かに月光の言うとおり二人は恋人に近い関係だったかもしれない。
しかしそれならば、月光の節操の無さは恋人を裏切り続ける最低彼氏だったという事になる。
万が一あのまま月光に夢中で居続けていたら、それこそ今ここでおにぎりを咀嚼する事も出来ず、もはや存在しているかすら危うい。
親友としての月光が好きだった乃蒼には、体の関係を続ける事でマイナスしか生まないとあの当時から分かっていた。
同じ専門学校に入学した月光と乃蒼だったが、乃蒼の決意の表れは友情すらも立ち消えさせた。
月光とは二度とセックスしない。
何気ない会話をし、友達として楽しい時間を過ごせば絶対にそういう事になる気がしたので、そこはけじめを付けなければならなかった。
あれからもう七年が経っているというのに、何故今さら電話などしたのだろうか。
最後の一口を飲み込んだ乃蒼は、ぐしゃぐしゃに掻き乱した髪の毛をセットし直し、表へと出て行く。
考えるのも恐ろしい01:48の会話を日中いっぱいかけて必死で思い出そうとするも、一切記憶は蘇ってこなかった。
「───ありがとうございました、またよろしくお願いします」
「こちらこそよ〜! 乃蒼くん素敵にカットしてくれるから、次も絶対乃蒼くんじゃないと嫌♡ また来月来るわね」
「はい、お待ちしております!」
本日最後の予約客がご機嫌で帰って行った事にホッとし、乃蒼は倒れ込むようにしてスタイリングチェアに腰掛けた。
「冴島、ごめん。 三分休ませて……」
「ここ一年くらいで乃蒼の指名客めちゃくちゃ増えたもんなぁ。 すげーよ毎日あれだけの予約捌くって」
「冴島も同じじゃん……。 ここのスタイリストはほぼ毎日予約埋まってるし俺だけじゃないよ」
「だよなぁ。 あ、そこは俺と乃蒼で片すから、もう帰っていいですよ」
冴島は助手等にそう声を掛けてやると、入れ違いに三隈がやって来て廃人と化した乃蒼を見て苦笑した。
「佐伯、予約人数もうちょい減らしたら? ただでさえ体力ないのに、そんなんじゃ今にぶっ倒れるぞ」
「ですよね、俺もそう思います」
「分かってはいるんですけど……」
体力がない事など本人が一番痛感している事だが、今日は特にかもしれない。
昨日の誰とも知れない野獣とのセックスで、恐らく眠れたのはほんの二時間ほどだ。 サングリア五杯と激しい運動、睡眠不足のトリプルパンチが効いている。
三隈や冴島に心配されるのも致し方無い。
「お前らもそこ片したら上がっていいからな。 俺はもう少し裏に居るから」
「了解っす!」
「はい、お疲れ様ですー」
二十代も半ばになると、十代の頃のように無茶が出来なくなり始めている事を嫌でも気付かされた。
冴島と店を出て分かれたあとも、駅まで歩く道中すでに瞼が重い。
瞳を閉じるとあっという間に寝落ちてしまいそうな乃蒼であったが、突然ポケットの中のスマホが振動しパチッと目が覚めた。
「……っ。 誰? ゲッ……」
画面には、今最も恐れている「月光」の文字。
決して、「ゲッコウ」と言いたかったのではなく、ただ単に嫌で出た言葉がそれだった。
彼に用など無い乃蒼は、早く切れろと画面を見詰め続ける。
一度途切れても再び振動するしつこいそれには絶対に応じないと決めて、スマホをポケットにしまった。
約七年も離れていた月光と、素面で楽しく会話できるはずもない。
乃蒼が、『あ、ごめーん、昨日酔っ払って間違えて電話しちゃったんだよね〜!全然覚えてないから許して〜!』と、明るく振る舞える性格であれば良かった。
出ないと決めたそれは、ブー、ブー、という独特の振動音を深夜まで響かせていた。
うるさくて眠れなかった乃蒼が試行錯誤した結果、分厚い毛布にスマホをぐるぐる巻きにするという古典的な方法を見付けてついに安眠を勝ち取った。
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