あぶく

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 星が降った次の日は、掃除が大変そうだと笑っていた彼女を思い出した。  紺碧の空から剥がれ落ちるようにゆっくりと、綿のような雲を追い越して、背中がチリチリ熱くなる。先ほどまで同じように天上で輝いていた仲間たちがもう遠い。流れいく景色の中で「ああ!」なんて箒に乗った少年が僕を追いかけるけれど、落下速度には追いつけない。少年の茶色い厚手のグローブをすり抜けて、落ちる、落ちる、どこまでも。空を抜け、木々を抜け、住宅街へ。  衝撃を覚悟していた僕の背中に、思いの外柔らかい感触が触れた。どうやら芝生の上に着地したらしい。背中はまだちりちりと熱いけれど、ひび割れたり、細かな傷が入った感触は無いように思えた。  僕は先ほどの恐怖体験にどきどきしながら(おちちゃったんだなあ)と思う。背の高い草が、まるで写真のフレームのように空を縁取っている。雲一つ無い星空。三日月が微笑みながら、夜を照らしていた。  僕がまだ生きていた頃は、なぜ星が落ちるかとても不思議だった。偉い学者さんも、いつもは怖い先生も、星が落ちる理由はよく分かっていないようだった。でも、死んで星になってよくわかった。落ちることに理由は無い。あるとしたらそう、うっかりだとか、そういう類い。  落ちてきた僕を追ってきた少年は、器用に箒で滑空し、芝生の上へと降り立った。彼は星の管理委員。こうして時たま落ちてしまった星を集め、空へと戻すお仕事だ。僕の友達もアルバイトをしていたから、彼らのことはよく知っている。星が落ちなければ夜のパトロールをし、星がもしも落ちたならば、空に戻すお手伝いをするのだ。  しかし、一度落ちた星はただ戻せばいいだけという話ではない。ふつうに空へと戻してしまっても、その星はまたすぐに地上へ降り注いでしまうらしい。だからそうならないように、落ちた星はすぐに夜露に浸さないといけないそうだ。浸して戻せば、再び落ちることはないという。(その理由もよくわからないけど、と友達が話していたのを僕は良く覚えている)  僕も浸されるのだろうか。背中が熱いから丁度いいかもな。伸びてくる茶色のグローブを見つめながら、そんなことを思う。  しかし、その手はぴたりと止まる。僕を掴み損なった少年の手は宙を掻き、遠くなっていく。 「こんばんは」  声が聞こえる。これは少年の声だ。 「こんばんは」  少年の声に応えるように、少女の声がした。聞いた事のある声に身体がぴくりと反応するが、いかんせん顔を見ようにも僕は星なので動くことも出来ない。芝生の上に身体を投げ出しながら、葉の隙間から見える少年の鼻先をじっと見つめる。 「すいません、星が降ってきたようで」 「ええ、窓から見てました。初めて見るので、つい」 「そうなんですね」  背の長い草の輪郭に、白い指が触れる。開けた視界に、ウサギのような赤い瞳をした少女の顔が飛び込んできた。『彼女』だ!  僕は嬉しくなって――そしてすぐに悲しくなる。泣いていたのだろうか、鼻先まで赤い。赤い瞳もきっと、泣いたことによる充血だろう。どうしたんだよ。そんな顔して。声をかけたいのに、僕には口がない。  ぐずりとひとつ鼻を鳴らした彼女は、おそるおそる僕に手を伸ばした。 「熱いですよ」  少年の声に彼女の指先が大きく震えた。そうして注意深く、僕の表面を指先で突く。お世辞にも綺麗な円ではない僕は、芝生の突起に引っかかりながらも、彼女の指に合わせて身体を揺らす。 「熱くないわ」 「もう冷めたのかな?」 「冷めたのかも」  彼女が僕をつまみ上げる。「確かに裏は熱いかも」なんて継いだ、鼻声混じりの声。僕は彼女を見上げながら、久しぶりに会えて嬉しい気持ちと、なんで泣いているのか気になる気持ちでまぜこぜになってしまった。僕がまだ生きていたら慰めてあげられるのに。鉱石にはなにもできない。生前見たことのないアングルで見上げる彼女の顎の丸い輪郭に、一筋涙が伝う。それは僕の頭上で弾けて、降り注いだ。 「星が落ちたのは初めて見るのだけれど……よく落ちるのかしら?」 「星になったばかりの子は、よく落ちるんですよ」  彼女の涙で塗れた僕を、少年は軽々とつまみ上げる。そうして銀色の浅いタッパーを開き、僕をその中へと落とした。興味深そうな彼女の顔が、水に歪む。これは夜露だ。言われなくても、本能でわかった。  僕のごつごつとした輪郭の隙間、知らぬ間に空いていた穴から気泡が漏れる。ぶくぶくぶく。ぽつぽつぽつ。身体中の空気が抜けると共に、僕の意識の輪郭も蕩けていく。  星の管理人だった友人。落ちる星を夜露に落とす度、悲鳴のような音が聞こえると言っていた。そんなの迷信だと笑う僕に、彼はいつも困った顔をしていた。  星降る夜。ラジオで聞く度に、一緒に見たいねと話していた彼女。掃除が大変そうだけどね。そんなに落ちるものなの? 一緒に歩いた夕暮れの帰り道。薄く浮かぶ月の下で、くだらない話はいつまでも尽きなかった。  交差点の先。僕は右で、きみは左。また明日ねの声。手を振る姿。彼女は。  彼女は。 「そう」  意識が融けていく。見慣れたその顔も、夜露に揺れて上手く見えない。ぼこぼこぼこ。無数に空いた穴から気泡が、思い出と共に消えていく。 『夜露に浸すごとに落ちなくなっていくんだよ』  それはきっと、魂が融けて、ちゃあんと星になっていくからだ。友人はそれを知っているだろうか。気泡が一つあがる。彼の顔はもう浮かばない。  透明な膜で覆われたさき、淡くきこえた「きれいね」の言葉。聞いた事の無いはずなのに、酷く心地よい響きをしていた。
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