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702号室/701号室
702号室
柾が、隣の702号室のチャイムを押したのは土曜日。欧介は出かけていて、玄関を開けたのは律だった。
「隣の橋口といいます。はじめまして」
「咲枝です。これからよろしくお願いします」
律は柾の目を見たまま、軽く頭を下げた。そして思った。
(欧介さんがベランダで会ったって言ってたひとかな?)
柾は、慎重に言葉を選びながら、笑顔でこう言った。
「えっと、この間…相方がベランダで櫻田さんに挨拶したって言ってまして」
相方、と言われて律は欧介の言葉を思い出した。多分ゲイだと思う、と言っていたのは正解だったようだ。つくづく「隣」に縁がある。
「あ、はい、俺も聞きました」
「それでですね、実は明日…」
柾は相方、つまり史がバーで出会って仲良くなった男がこのマンションのオーナーの恋人だったことから、日曜日にホームパーティーに呼ばれた、と話した。
「ホームパーティー、ですか」
「ええ。……あの、失礼かもしれませんが…咲枝さんは櫻田さんの…」
「あ……はい、そう、です」
同じ指向の匂いがわかるほど律は慣れていないが、欧介といるうちに、少しずつ理解できるようになってきていた。柾の言う意味がすぐに感じ取れるようになったのはひとつ進歩だ。
ほっとした顔をして、柾は続けた。
「もしよかったら…ご一緒しませんか?隣同士でこんなこと、なかなかないと思うし…」
「え、でも、そのオーナーさんのお宅はなんて…」
「大丈夫です、オーナーさんたちも…同じなんで。それに話したら、ぜひって……なかなかこんな機会ないからって言ってましたよ」
「そう…ですか。今、あの、留守なんで帰ってきたら聞いてみますね」
欧介のことを「相方」と呼ぶのは、律にはまだハードルが高かった。
柾はにっこり笑ってうなづいた。
「はい、もし都合がつくようだったら是非ご一緒に。僕らもいろいろ話せる人が少ないので…待ってますね」
⭐︎
「へえ…」
「橋口さん、優しそうないい人だったよ。よかったらぜひって」
「俺はかまわないけど…律、大丈夫?」
「大丈夫って、何が?」
「俺以外のゲイに慣れてないでしょ。その話だと、律以外はみんなそうだよ」
「そ…そんなに違うもん?」
「その知り合ったっていうのもゲイバーだと思うし。律はノンケだから…」
「欧介さん一緒なら平気だよ。それに俺もう、自分がノンケなんだかゲイなんだかわかんないや」
「えっ」
それまでゆったりとソファに背を預けていた欧介が、急に身体を起こした。青い顔で律をじっと見つめた。
「何、どうしたの、急に」
「りりりりっちゃんは、ゲイになったってこと?」
「んーと…そう、なのかな?」
「そんな…」
欧介はがっくりと頭を落とした。律はわけがわからず、焦って丸まった欧介の背中を揺すった。
「な、なんでそんなに落ち込むんだよ?そこ喜ぶとこじゃないの?」
「だって…今まではライバル、女だけだったのに、男も増えるなんて…」
「……何言ってんの?」
心配そうに揺すっていた律の手がいきなりばしん!と欧介の背中を叩いた。
「痛った!」
「欧介さんアタマ沸いてんぞ!ライバルってバカじゃないの?いやバカでしょ!バカ!」
「バカバカ言うなよ…」
律は欧介の額にごつんと頭突きして、言った。
「俺は誰のもんなの?」
「え…?」
「欧介さんは俺のだけど、俺は?どうぞご自由にお持ち下さい、みたいな扱いなの?まだ」
「律…」
「んっとにさあ…バカなこと言ってっと別れるぞ!欧介さんが心配になるようなライバルとか、そんな奴いねえから!」
律は欧介の口ごと食べてしまうみたいに、唇にかぶりついた。
「ごめん……律、ごめんね」
怒っていた律がいつのまにか欧介の胸に顔を埋めていた。律を抱きしめて欧介はしばらくごめん、と繰り返した。これ逆じゃねえか、といいながら律はその体勢のまま欧介にくっついていた。
~~~~~~~~~~~~~
701号室
「お隣、どうだった?」
「一応お誘いしたけど…どうかな。若い子が出てきて、悩んでる感じでしたけど」
「若い子?櫻田さんじゃなくて?」
「咲枝さんって言ってましたよ。あの感じは…20代半ばくらいかな」
「ふーん…どんな感じの子?」
「可愛い感じの、ちょっとストレートっぽい雰囲気でした」
「そうなんだ。せっかくだから二人で来られるといいね」
史は夕食の皿をテーブルに並べて微笑んだ。柾は何か違和感を感じたが、ちょうどその時史の携帯が鳴って、会話は途切れた。
電話を切って、柾と史は向かい合って食事をし、並んで座ってテレビを見て、それぞれ風呂に入った。
風呂から上がってきた史は、もうベッドに入っていた柾に向かって言った。
「明日、何か手土産用意しようか」
「ああ…そうか、手ぶらじゃまずいですね」
「駅前のパン屋さんのサンドイッチとか…」
「クロワッサンのやつですよね?あれうまいですよね」
「じゃあ午前中に買いに行こう」
「はい」
史は柾に背を向けて、バスタオルで濡れた髪の水分を拭った。ドライヤーで髪を乾かす後ろ姿を柾はベッドの中から見つめていた。
同じボディシャンプーの香り。最近使っているのは、史の好きな柑橘系。甘い体臭を上手に消してくれるとか。
乾いた髪を手で簡単に梳いて、史はいつも寝るときに着るTシャツに袖を通した。丸い襟が大きく開いていて、鎖骨が見え隠れする。
柾はそれまで読んでいた本を閉じた。
電気を消して、史がベッドに身体を滑り込ませた。が、背中を向けたままの史に柾はずっと気になっていた違和感を口にした。
「史さん……何か怒ってます?」
「怒る?」
「機嫌悪いですよね」
「悪くないけど…」
「もしかしてさっきの話、気にしてます?」
「さっき?」
「お隣の若い子の話」
「別に気にしてないよ」
「……俺だけの気のせいですか」
「………」
「言ってください」
「……わかってるなら、言わなくてもいいだろ」
「言わなきゃ伝わらないことだってありますよ」
「……言いたくない」
史の背中に頭を寄せて、ウエストに腕を回し柾は呟いた。
「俺が、可愛い子って言ったのが…ダメでしたか」
「………うん」
「ただの印象です。それ以上の感情なんてありませんよ」
「………うん」
「俺が史さんしか見えてないの、知ってるじゃないですか」
「………うん」
「史さん、こっちむいて」
「………嫌だ」
「どうして」
柾は史の肩を掴んだが、史は頑なに振り返らない。こっちむいて、いやだ、こっちむいて、いやだ、としばらく格闘して、柾が力づくで史を仰向けにさせた。
今にも泣きそうな真っ赤な顔で史は柾を見上げた。史が怒っていると思っっていた柾は間の抜けた声を上げた。
「あ…あら…?」
「…っだから嫌だって…言ったのに」
「史さん…」
「……みっともない……いい歳して、若い子に嫉妬するとか…」
「あの…めっちゃ可愛いんですが…何ですかそれ、もっとください」
「うるさいよ…もう…」
「史さんのその面倒くさくて可愛いやつ、大好物です」
「……言いながら脱がすな」
「え?そういう流れじゃないんですか?」
「違…っ…う……んっ……」
701号室の夜は長い。
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