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BAR真珠 真人/慧
「はい、かんぱーい」
ゲイバー「真珠」のママ、弘海は、カウンターに座った客とグラスを合わせた。
「真人、いつ出発なの?」
「明後日。やっと荷物片づいたよ」
「で、最後に飲みに来たわけね。慧ちゃんは?」
「職場の送別会で、終わり次第来るって。それまで飲ませてよ」
「OK。今日は空いてるから、ゆっくりしてって」
常連の真人は、ジュエリーデザイナーで、新店舗進出のため明後日からシンガポールへ飛ぶ。恋人の慧は薬剤師だが、仕事を辞めてついて行くという。
「それにしても慧ちゃん、よく決断したわね。しばらく日本には帰ってこれないんでしょ?」
「うん。出来れば向こうに拠点を移そうかと思ってるんだ。その話したら、一緒に来てくれるって」
「そう、理人には会ったの?」
「この間、理人と一樹さんと、4人で食事した」
「ええ…怖…」
「慧はずいぶん慣れたよ。一樹さんも少し丸くなったから」
「時間はかかったけど、良かったわね。理解してもらえて」
同じ病院で働いていた黒瀬、理人、慧は今、それぞれの道を歩み始めていた。双子の真人と理人はお互い依存し合っていたが、今は真人には年下の、理人には年上の恋人が、献身的に彼らを支えている。
カウンターで話す弘海と真人の背後で、3人の客が賑やかな笑い声を上げた。また、ボックス席の一番奥には、一人の若い男が酔いつぶれたのか、テーブルに突っ伏している。
真人は小声で弘海に尋ねた。
「あの3人組…大丈夫?たち悪そうな感じだけど」
「そうなのよ…一人はゲイなんだけど、あとの二人はひやかしだわ、多分」
「…ああいうの、本当にもううんざりだ」
真人がため息をついたその時、ちょうどその3人の客が弘海を呼んだ。
弘海は真人にウインクを残して、なあに、と彼らのところに行った。
一人の男が弘海にまとわりつき、あとの二人はげらげらと下品な笑い声を上げている。真人は水割りをあおりながら、何かあればいつでも止めに入れるように身体を半分そちら側に向けて座った。
弘海は50手前の、見目のいい男だった。この場所で10年以上バーを経営している。噂によれば、若い頃に大恋愛をした恋人と結ばれず、それ以来特定の相手を作らなくなったとか。
パートナーのいない弘海に言い寄る客は少なくない。3人の客のうち、ゲイである男はことあるごとに弘海を口説いていた。
弘海が近づくと、男は彼の腰に手を回しにやにや顔を近づける。弘海は愛想よく話を合わせながら身体を引くが、男の手は執拗に弘海の腰の周りを撫で回す。
腰から尻に下がり、足の付け根まで男の手がたどり着いた時、弘海の手がそれ以上の侵入を止めようと伸びた。しかし男は触るのをやめなかった。
弘海がチッと舌打ちして強く腕を掴んだのと、真人が椅子から腰を上げようとしたのはほぼ同時だった。
がしゃーん、とガラスが割れる音が店内に響いた。
3人の客も、弘海も、真人も、音がした方に振り向いた。ボックス席の一番奥で酔いつぶれていた若い客が、ゆらりと立ち上がっていた。
「あ……、わ、割っちゃった…ごめんなさい!」
20代後半くらいのその客は、酔っているわりには滑舌が良かった。
「あら~、お兄さん大丈夫?怪我するからそのままにしておいて、今片づけるわ」
ごめんなさいね、と3人の下品な客から離れて弘海はカウンターの奥に戻った。真人はその様子を見て、ほっとして椅子を戻した。
弘海が割れたグラスを片づけている間に、真人の恋人の慧が息を切らして店に飛び込んできた。
「慧!」
「真人さん、すみません、遅くなって…」
慧は両手に紙袋を持って、背広にリュックを背負って現れた。慧が餞別にもらったという荷物を椅子に置くと、真人は慧を抱き寄せキスをした。
「ずいぶん飲んだ?顔赤いね」
「飲まされました…断れなくて」
真人は慧の言葉が切れるともう一度唇を重ね、髪に指を差し込んだ。
あまりにも長い二人のディープキスに、弘海が楽しそうに突っ込んだ。
「ちょっと、おっ始めるつもりならホテル行きなさいよね」
割れたグラスを片づけた弘海がいつのまにかカウンターに戻ってきていた。慧はあわてて真人から顔を離して、赤い顔で笑った。
「す、すみません、ママ、俺ビール下さい」
「はいはい」
「慧、まだ飲むの?…そんなに飲んだら勃たないよ?」
「えっ」
「本気でここでヤんなんでちょうだいね~、って、慧ちゃんいつからタチになったの?」
「ち、違いますっ、それは真人さんが…じゃなかった、あわわわ」
「ふふ、真人は生まれながらのバリタチだもんねえ」
「そうそう」
「そうそうじゃないですよ、真人さん…ずいぶん酔ってませんか」
「そんなことないよ」
弟の理人ほどの激しさはないが、真人は明るく意思表示がはっきりしていた。慧は出されたビールを勢いよくあおり、ぷはあ、と息を吐いた。
慧がグラスを置くのを待って、真人は切り出した。
「慧、ちょっといい」
「はい?」
真人は慧の左手を取り、その手のひらに何かを握らせた。
「え…っ…」
手の中の感触と形に気づいた慧は、真人の顔を見つめた。みるみる顔が赤くなる。指を開いたそこには、真人がデザインした指輪があった。
「真人さん…」
「結婚しよう」
弘海がひゅう、と口笛を吹いた。
真人は微笑んで慧を見つめ、慧は真人の胸に頭を寄せて、小刻みに震えていた。この二人がここまで来るのにも、紆余曲折があった。
弘海は真人に頼まれて密かに用意していた小さなケーキを、カウンターに出した。
慧は男泣きしながら、クリームを口の周りにいっぱい付けてそれを食べた。慧は、超がつく甘党だった。
晴れて伴侶となった二人を見送り、弘海は店に戻った。
あの下品な客たちはつい今し方帰った。今日は客が少ないから、もう閉めようかとよぎったとき、奧にもうひとり客がいることに気づいた。
グラスを派手に割った、若い男だった。
ふと目が合うと、男は腰を上げて弘海に向かって頭を下げた。
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