BAR真珠 弘海/綿貫

1/1
前へ
/14ページ
次へ

BAR真珠 弘海/綿貫

「すみません、さっき、グラス…」 「ああ、大丈夫よ。怪我なかった?」 「はい、ちょっと飲み過ぎちゃったみたいで…弁償します」 「いいわよ、たいしたグラスじゃないから。…っていうか、お兄さん、そんなに酔ってなかったでしょ」 「えっ」 「ずいぶんしっかり喋ってたじゃない?」 「……えっと…いや、飲んではいたんですけど……酔えなくて」 「ふーん…」 弘海はカウンターで煙草に火を付けた。煙を吐き出して男を見つめると、ひねてない真っ直ぐな顔をしていた。 「酔えないって、何かあったの?あたしで良かったら聞くわよん」 男は弘海の笑顔につられて笑った。でもすぐに下を向いた。 「……聞いて貰うようなすごい話でもないですけど…ベタに失恋したんです」 「失恋……」 「俺、ゲイなの隠してて…初めてカムアウトした相手がノンケで、好きだったんですけど、そいつ彼氏がいて」 「ノンケで彼氏?」 「そこがややこしくてですね…多分、ゲイじゃないんだと思うんですけど」 「…ややこしいわね」 「そうなんすよね。で、自分もわけわかんなくなって、とりあえず飲んで忘れたくて…もしかしたら出会いとかあるかもしれないしって」 「うちの店、普段はもう少し人多いんだけど、今日は…残念だったわね」 「いや、まあ……それは…いいんです」 男は椅子に腰を降ろして、大きくため息をついた。 「さっきのお客さんたち…幸せそうでしたね。指輪とか…」 「ああ……、あの子たち結構苦労してんのよ、ああ見えて」 「へえ…」 「相性はいいと思うわ。ま、これからよね」 「ママも、指輪してますよね」 「……これ?…取れなくなっちゃったのよ」 弘海の左手の指輪は、もう10年つけたままだった。結ばれなかった相手と一緒に買った指輪。会うこともない。だから外さなくても構わないと思っていた。 「これは、もう終わった子との指輪なんだけど。まあ、お兄さんと同じよ。失恋」 「最近、ですか」 「もう10年も前よ。若いとき」 「忘れられないんですか」 「…忘れられない、っていうか…多分、あたしの中で一生、「一番大事な相手」っていうポジションだけは空いたままなのよね。別にもう誰とも恋愛したくないってわけじゃないし」 「…わかるかも」 「でしょ?そこだけは、誰にも変えられないのよね。もう結ばれないとわかっていても……女心よねえ」 「ママ、女装してないじゃないですか」 「心の問題よ、こ・こ・ろ」 男はくすっと笑った。その年齢より若く見える笑顔を見て、弘海は提案してみた。 「お兄さん、名前は?」 「綿貫、です」 「下の名前よ」 「佑久(たすく)です」 「たすくちゃんね。店閉めようと思ったけど、あと1杯だけつき合わない?失恋した者同士、気が合いそうだわ」 「はい、喜んで。あの……ママ」 「弘海」 「え?」 「あたしの名前」 カウンターに酒をつくりに戻った弘海の背中に、綿貫は少し悩んでから、途切れがちに言った。 「弘海、さん……すみません、あの…グラス割ったの、わざとです」 「え?」 「さっき、うるさい客に……しつこく触られてましたよね」 「………もしかして、助けてくれたの?」 「………」 弘海は綿貫をまじまじと観察した。初めて史に出会ったときとは違う。でも久しぶりのほんのりと温かい感覚に、弘海は絆されかかっていた。 「優しいじゃない。きっと良い相手、見つかるわよ」 「……弘海さんは……年下はだめですか」 「…へっ…?」 急展開に面食らい、弘海は素っ頓狂な声を出した。しかし50を目前にして、若い男に言い寄られるのはなかなか気分が良かった。 「あたし……?」 「お互い一番惚れた相手がいて…でも、恋愛してみたいとは思うんです。……弘海さんと」 「急…ねえ、ずいぶん」 「俺もそう思います…でも、さっき触られてるの見たとき、とっさに助けたくなっちゃって…」 「………たすくちゃん、あたしに触りたい?」 「そっ…そういうわけじゃ…」 「いいじゃない、ゲイの恋愛なんて身体があってなんぼでしょ。たすくちゃんなら触られてもいいわよ。まあ…おば…おじさんだけど」 「おじさんじゃないですよ。きれいです」 「あらん、ありがと。はい、かんぱーい」 「乾杯…」 最後に作った水割りのグラスを合わせた。それを飲み干すと弘海は背中でひとつに結った髪をほどいて、綿貫に向かってにやりと笑って言った。 「たすくちゃん…あたし、タチなんだけど、いい?」 「えっ」 「ネコも出来るけど…どっちがいい?」 「えっと…その…」 「まあ、出てから考えよっか。さ、店閉めるわよ。裏口で待ってて」 弘海は綿貫にウインクして、グラスを持ち上げた。 「俺の家行く?ホテル?」 「……家、行ってもいいんですか」 「いいけど。っていうか、ほんとに平気?俺マジでおじさんだけど」 「おじさんじゃないって言ってるじゃないですか。それより……」 「それより?」 「口調が違うと…雰囲気違いますね。なんか新鮮…」 「……同じようなこと言うんだな」 「え?」 「いや、こっちのこと」 弘海は綿貫をぐいっと引き寄せ、唇を合わせた。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

123人が本棚に入れています
本棚に追加