123人が本棚に入れています
本棚に追加
BAR真珠 弘海/綿貫
「すみません、さっき、グラス…」
「ああ、大丈夫よ。怪我なかった?」
「はい、ちょっと飲み過ぎちゃったみたいで…弁償します」
「いいわよ、たいしたグラスじゃないから。…っていうか、お兄さん、そんなに酔ってなかったでしょ」
「えっ」
「ずいぶんしっかり喋ってたじゃない?」
「……えっと…いや、飲んではいたんですけど……酔えなくて」
「ふーん…」
弘海はカウンターで煙草に火を付けた。煙を吐き出して男を見つめると、ひねてない真っ直ぐな顔をしていた。
「酔えないって、何かあったの?あたしで良かったら聞くわよん」
男は弘海の笑顔につられて笑った。でもすぐに下を向いた。
「……聞いて貰うようなすごい話でもないですけど…ベタに失恋したんです」
「失恋……」
「俺、ゲイなの隠してて…初めてカムアウトした相手がノンケで、好きだったんですけど、そいつ彼氏がいて」
「ノンケで彼氏?」
「そこがややこしくてですね…多分、ゲイじゃないんだと思うんですけど」
「…ややこしいわね」
「そうなんすよね。で、自分もわけわかんなくなって、とりあえず飲んで忘れたくて…もしかしたら出会いとかあるかもしれないしって」
「うちの店、普段はもう少し人多いんだけど、今日は…残念だったわね」
「いや、まあ……それは…いいんです」
男は椅子に腰を降ろして、大きくため息をついた。
「さっきのお客さんたち…幸せそうでしたね。指輪とか…」
「ああ……、あの子たち結構苦労してんのよ、ああ見えて」
「へえ…」
「相性はいいと思うわ。ま、これからよね」
「ママも、指輪してますよね」
「……これ?…取れなくなっちゃったのよ」
弘海の左手の指輪は、もう10年つけたままだった。結ばれなかった相手と一緒に買った指輪。会うこともない。だから外さなくても構わないと思っていた。
「これは、もう終わった子との指輪なんだけど。まあ、お兄さんと同じよ。失恋」
「最近、ですか」
「もう10年も前よ。若いとき」
「忘れられないんですか」
「…忘れられない、っていうか…多分、あたしの中で一生、「一番大事な相手」っていうポジションだけは空いたままなのよね。別にもう誰とも恋愛したくないってわけじゃないし」
「…わかるかも」
「でしょ?そこだけは、誰にも変えられないのよね。もう結ばれないとわかっていても……女心よねえ」
「ママ、女装してないじゃないですか」
「心の問題よ、こ・こ・ろ」
男はくすっと笑った。その年齢より若く見える笑顔を見て、弘海は提案してみた。
「お兄さん、名前は?」
「綿貫、です」
「下の名前よ」
「佑久(たすく)です」
「たすくちゃんね。店閉めようと思ったけど、あと1杯だけつき合わない?失恋した者同士、気が合いそうだわ」
「はい、喜んで。あの……ママ」
「弘海」
「え?」
「あたしの名前」
カウンターに酒をつくりに戻った弘海の背中に、綿貫は少し悩んでから、途切れがちに言った。
「弘海、さん……すみません、あの…グラス割ったの、わざとです」
「え?」
「さっき、うるさい客に……しつこく触られてましたよね」
「………もしかして、助けてくれたの?」
「………」
弘海は綿貫をまじまじと観察した。初めて史に出会ったときとは違う。でも久しぶりのほんのりと温かい感覚に、弘海は絆されかかっていた。
「優しいじゃない。きっと良い相手、見つかるわよ」
「……弘海さんは……年下はだめですか」
「…へっ…?」
急展開に面食らい、弘海は素っ頓狂な声を出した。しかし50を目前にして、若い男に言い寄られるのはなかなか気分が良かった。
「あたし……?」
「お互い一番惚れた相手がいて…でも、恋愛してみたいとは思うんです。……弘海さんと」
「急…ねえ、ずいぶん」
「俺もそう思います…でも、さっき触られてるの見たとき、とっさに助けたくなっちゃって…」
「………たすくちゃん、あたしに触りたい?」
「そっ…そういうわけじゃ…」
「いいじゃない、ゲイの恋愛なんて身体があってなんぼでしょ。たすくちゃんなら触られてもいいわよ。まあ…おば…おじさんだけど」
「おじさんじゃないですよ。きれいです」
「あらん、ありがと。はい、かんぱーい」
「乾杯…」
最後に作った水割りのグラスを合わせた。それを飲み干すと弘海は背中でひとつに結った髪をほどいて、綿貫に向かってにやりと笑って言った。
「たすくちゃん…あたし、タチなんだけど、いい?」
「えっ」
「ネコも出来るけど…どっちがいい?」
「えっと…その…」
「まあ、出てから考えよっか。さ、店閉めるわよ。裏口で待ってて」
弘海は綿貫にウインクして、グラスを持ち上げた。
「俺の家行く?ホテル?」
「……家、行ってもいいんですか」
「いいけど。っていうか、ほんとに平気?俺マジでおじさんだけど」
「おじさんじゃないって言ってるじゃないですか。それより……」
「それより?」
「口調が違うと…雰囲気違いますね。なんか新鮮…」
「……同じようなこと言うんだな」
「え?」
「いや、こっちのこと」
弘海は綿貫をぐいっと引き寄せ、唇を合わせた。
最初のコメントを投稿しよう!