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あれは小学校低学年のとき、先生に率いられ私のクラスは学校を出発した。
転校したばかりの私は、どこへ、なんのために行くのか、知らなかった。
一件の家に辿り着いたら、沢山の人がいて、順番にそのお家に入った。
よくわからないまま、小さなツボのような入れ物に入っている灰のようなものを周りの人がするように、同じようにした。
それは夏の日。
2年前、舅を見送った。人に迷惑をかけることをとても嫌がる人だった。
私たちの旅行予定を知っててか、それに差し障りのないような日を選んだかのようだった。
あまり状態が良くないと、急いで病院に会いに行けば、会話は出来なかったけれど私の手を取り、親指で私の手を撫でた。
まるでそれは
「息子と孫をよろしくね」
と言っているようで
「お義父さん、お元気じゃないですか。また、明日会いに来ますからね」
やせ細り、ミイラのようになった舅だったが、まだ、意志の疎通ができていたから、大丈夫と思って、私たちは旦那の実家に戻った。
その真夜中に彼は旅立っていった。
それは7月の終わり。
私は「舅を見送る会」で涙を止めることができなかった。
父のことと重ねてしまい、これからの寂しさを思ったからだろうか。
5月、50歳にならない父は体調を崩し、会社を1ヶ月休んでいた。
父のことが大好きだったので、寝室で寝込む父のところへ頻繁に行った。
時にはお布団の中へ潜り込んだりしていた。
体調が戻らない父は近くの国立病院へ診察を受けに行って、そのまま救急車で阪大病院へ運び込まれた。
「慢性白血病」だった。
まだ、当時、骨髄移植というものはなく、癌と同様に死に病と言われていた。この病気の末期は体の穴という穴から血が吹き出るのだと聞いたが、穴? 穴? 鼻の穴? どういう穴? とよくわからなかった。
母と祖母は代わる代わる遠い病院へ見舞いに行き、ちょっとでも体力がつくように好物を持って行った。
落ち込む母と一緒に病院へ行くと、上の階は頭に包帯を巻いた患者、下の階は手足がない患者、父の階は坊主頭が多かった。
「もっと早くにこの病院へ来てくれたなら……。」
お医者さんは言ったそうだ。多くの患者さんがこの病院に辿り着くまでかなりの時間が経ってしまっているのだそうだ。
そうして、ここで私は母が落ち込む原因を体験させられた。
「もって半年です。覚悟しておいてください」
頭をトンカチで殴られたような衝撃ってこれか、と。
その帰路、看病に疲れた母が道々、ボソッと言った。
「なぁ、XXちゃん、一緒に死んでくれへんか?」
「お母さん? 私、いやや、死にとうない」
そんな会話をしてから2ヶ月も経たない早朝、父は母に見送られて旅立った。
急の知らせに病院に着くと医師が父の上に乗って、汗をぽたぽたぽたぽた流しながら懸命に心臓マッサージを続けていた。
おそらく家族が到着するまで、残された私たちが納得できるように、それは続けられていたのだと思った。病院に着くまで1時間以上かかったのに、その間中、あんな大変そうなことをしてくれていたのかとありがたく思った。
家族が泣いて、父を呼ぶ中、私は一人天井に目を向けて心の中で父を呼び続けた。臨死体験とか幽体離脱などの話では体から魂が抜けたら浮かんで自分を見下ろしていた、というのがあったからだ。
生前、父に聞いた。
「死んだらどこへ行くと思う?」
「死んだら、消滅するだけや」
『お父さん、そんなことないよね? そこにおるんやよね?』
それは、8月、父が楽しみにしていた「甲子園」開幕の日。
そして昨年夏、息子の同級生のお父さんが妻と愛娘二人を残して、あちらへ行かれた。私よりもずっと若い人だ。
自分の父を見送ってから、寂しかったり、お金に苦労したり、人に陰口を叩かれたり何かと父がいないことで起きたことをその奥さんとお嬢さんたちがこれから体験していくのかと思うと心を寄せずにはいられなかった。
ある日、息子も大きくなってきて、私と同じように聞いてきた。
「死んだら、どうなるの?」
「怖いんか? お母さんは怖ないで、もう、お父さんもお祖母ちゃんもラッキーももう向こうに行ってるからなぁ。ただ、痛いのだけは嫌やわ。お布団の中でぬくぬく大往生と行きたいわ」
「じぃじ! じぃじ! 寂しいよう!」
舅を泣きながら見送った息子には何度となく話して聞かせた。
「夜のお墓は怖いんやけどな、お盆の時だけは怖くないねん。
向こうへ行った人が帰ってきはるから、みんなお迎えに行くんや。
そん時だけはお墓に明々と電気がついてんねん。
でな、お盆の終わりにまた送って行くんや」
祖母と親戚のおじいちゃんは寒い冬の日。
熱波と寒波、押し寄せる波、そして引いていく波。
そうしてまた夏がやってくる。
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