序章

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序章

 人間界へ放り出されてから、今日で五日目に突入しようとしていた。  その間、ろくなものをほとんど口にしておらず、体力が限界に近づいていた。また、魔力を抑えられているせいで、普段の四分の一の力しか発揮できない状態だ。  狩りに失敗して獲物にありつけない肉食獣も、恐らくこんな感じなのだろう。  ――ここが魔界であれば、もっと簡単に食糧が手に入るのだが……。  獲物が見つからない以上、むやみに動き回って体力を消耗するのは賢明ではない。それに何より、今この状態で天界の連中に見つかれば確実に殺される。  ひとまずその場に腰を下ろし、そばに立つ木の幹にもたれかかった。 「何でこの俺がこんな目に……」  まるで底辺にいた頃に戻ったような気分だ。いや、その当時よりもひどいかもしれない。 「一体、いつになったら帰れるのやら……」  それからため息交じりに、何度つぶやいたかわからない愚痴をこぼす。  事の発端は時を遡ること五日前―― 『ここ最近の貴様の行動は、あまりにも目に余る。魔獣相手に戦いを挑んで、悦に浸るような愚か者に鍛えた覚えはない』  師匠は自身の元を訪ねてくるなり、開口一番にこう告げてきたのだ。  彼の言葉通り、魔界各地にいる魔獣に戦いを挑んでは、勝利を重ねてきた。  だが、そのことの何が悪いのか、全く以ってわからない。  実力のない者は弱肉強食の魔界では生き残れないし、何より己の力を磨けと言ったのは他ならぬ師匠である。  怪訝な表情を浮かべていると、師匠は呆れたように深いため息をついた。 『私が拾ってやったあの日から、大して成長していないようだな』  言うが早いか彼は、こちらの魔力を封じ込めたのだ。  一体何のつもりかと問い詰めると、容赦ない言葉が返ってきた。 『この状態で人間界へ行って、己の浅はかさを思い知れ!』  こうして問答無用で人間界へ転移させられ、五日も森の中を彷徨う羽目になってしまった。  愛用の武器は没収され、唯一手渡されたのが瀕死の重傷を一瞬で治す劇薬のみである。  この薬の原料は魔界でしか手に入らないので、今の自分にとっては命と同じぐらい貴重なものだ。だから体力を無駄に消費するのはもちろん、怪我を負うのも文字通り命取りとなる。  幾度となく凶暴かつ獰猛な魔獣を相手に戦ってきたので、幸い人間界の野生動物に苦戦することはなかった。  問題は肉が手に入らず、絶えず空腹に襲われているということだ。  何度か鹿やうさぎに遭遇したのだが、力を封じられているせいか上手く捕らえられずにいる。また、釣りなど元々性に合わないので、魚を捕ることすらままならなかった。  そのため、口にするものといったら木の実ぐらいしかない。  今、頭の中にあるのは早く帰りたいという気持ちの他に、とびきり美味しい肉を食べたいという欲求である。  考えれば考えるほど願望は強くなり、同時に空腹も一段と増していった。 (俺はこんな所でくたばるんだろうか……?)  自身の置かれている状況を嘆き、たまらず深いため息をつく。  その時、こちらに向かって近づいてくる気配を感じ、折れかけていた気力が一瞬にして覚醒した。  不安定ではあるが、自分と同じ闇と月の魔力を感じる。しかもなかなかの強さだ。  力を封じられている今、まともに戦えばこちらがやられるのは確実である。 (俺が弱っているのをいいことに、魔力を食らおうって魂胆か?)  たとえ同族であろうとも、大人しく自身の魔力を差し出すつもりなど毛頭ない。  わずかに残った力を振り絞り、相手が襲いかかってくる瞬間を待ち構える。  ところが、目の前に姿を現したのは五歳ぐらいの少女だった。 「何だ、子供か……」  安堵のあまり思わずそうつぶやく。  だが、幼くしてこれほどの魔力を有するとは、将来は間違いなく優秀な黒の魔女になるだろう。  そんなことを考えていると、少女は首を傾げてつぶらな紫色の瞳で見つめてくる。 「大丈夫? どこか具合でも悪いの?」  こんな風に子供に心配されるとは、我ながら何とも情けない。力が全ての魔界でこのようなことがあれば、笑いの的にされているところである。 「お前には関係ないだろう」  魔族としてのプライドを傷つけたくなくて、素っ気ない態度でそう言葉を返した。  だが、そんな自分の矜持に水を差すように、お腹がぎゅるると音を立てた。 「チッ、何てタイミングが悪いんだ……!」  子供の前で醜態を晒した恥ずかしさから、舌打ち交じりに毒づく。  すると少女は手にしたバスケットを開けて、サンドイッチを差し出してきた。 「良かったら、これ食べて」  普段の自分であれば断るところだが、空腹が限界だったので迷うことなくサンドイッチを受け取った。  一口かじりついた瞬間、口の中に卵とベーコン、そして野菜の味がじわっと広がっていく。  五日ぶりにまともな食事にありつけた喜びから、あっという間に食べてしまった。 「まだあるか?」  図々しいと思いつつも駄目元で訊いてみる。 「うん、あるよ」  少女は笑顔のままうなずくと、サンドイッチを再び渡してくれた。  高い魔力を有しているのだから、こちらが魔族であることに気付いている筈である。にも拘らず、彼女はこうして屈託のない笑顔で気にかけてくれるのだ。  つい先程まで、誰かの助けを借りるなど情けないと思っていたが、少女を見ているうちにいつの間にか別の感情が芽生え始めていた。 「悪いな、助かる」  少女に礼を言うと、二つ目のサンドイッチもありがたくいただく。  ――これで上質な肉があれば文句なしに最高なのだが。  ついそんな贅沢なことを考えてしまうが、それは魔界へ帰った時の楽しみにとっておくとしよう。 「あと、苺もあるけど食べる?」 「いや、もういい。それより、お前の魔力を少し分けてくれ」 「え?」  こちらの言葉を聞くなり少女は瞠目する。  いきなり魔力を分けろなどと言われたのだから、驚くのも無理はないだろう。  だが、同意など求めるつもりはない。  戸惑う少女を強引に抱き寄せると、その小さな口に自身の唇を重ね合わせた。  魔力が体の中に流れ込み、失われていた力が少しずつ戻っていく。 「終わったぞ」  必要最低限の魔力をもらったところで、唇をそっと離して少女を解放する。 「嘘……」  生まれて初めての口づけだったのだろう。少女は顔を真っ赤にしながら、指先で何度も自身の唇をなぞっていた。 「勘違いするな、口移しでお前の魔力を少しもらっただけだ」  他意などなかったのに、少女はすっかりその気になってしまったようだ。はにかんだように微笑みながら、「明日もここにいる?」と尋ねてきたのである。 「さあな」  ある程度魔力を取り戻せたので、ここに留まる必要などない。  だが、こちらの都合など一切お構いなしに、少女は勝手に約束を取り付けてくるのだった。 「明日もまた、サンドイッチを持ってくるわね。約束よ」 「おい、待て――」  少女は一方的にそう告げると、呼び止める間もなく去ってしまった。 「何でこんなことに……」  魔力をもらうために利用した筈が、好意を持たれてしまうとは完全に予想外である。  ――ある意味、厄介な相手に気に入られてしまったかもしれない。  これ以上、少女に懐かれたらどうしようと憂鬱になり、思い切り深いため息をつく。  しかしその一方で、彼女の厚意を無下にしたくないという、魔族らしかぬ考えを抱いている自分もいた。 「まあ、明日一日ぐらいなら、約束を守ってやってもいいか……」  もしそれ以降も会いたいと言われたら、その時は悪魔らしく取引を持ちかけるとしよう。それに、上手くいけばまた魔力を得ることもできる。  甘美な魔力を思い出して舌なめずりすると、口元をわずかに綻ばせるのだった。
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