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 昔の恋人の吉川凛音とは、バンドのブラックバス時代から交際が続いていた。貝塚にとってはそれまでの女と比べると、かなり長く続いたほうだった。  出会いのきっかけはライブハウスに届けられていたファンレターで、貝塚はその中に記してあったメールアドレスに早速連絡した。バンド内ではあまり特定のファンだけと親密に交流するのはよくないという雰囲気はあったが、そんなことは知ったことではなかった。  出会った当時、凛音は19歳の専門学校生で、貝塚は大学の三回生だった。凛音は都内のワンルームで独り暮らしをしていた。150センチほどの小柄な体格に似合わない巨乳をしていて、ロングの黒髪は昆布のように野暮ったい。  ふたりは間もなく肉体関係を持つに至ったが、凛音が処女だったことに貝塚はにわかに驚いた。ライブハウスに出入りする客など、男女問わず遊び人が多いものだが。  凛音は度が過ぎるほどにおとなしく従順な性格をしていた。なぜこんな女が自分たちのライブを見に来たかというと、学校の友達に強引に誘われて断れなかったと言っていた。そこで見た初めてのライブで、一目ぼれのような感じで貝塚のファンになってしまったらしい。  貝塚はセックスがしたくなれば凛音のワンルームマンションを訪れた。凛音はいつも丁寧に貝塚のペニスをしゃぶり、精液を呑み下すと得意げな表情を見せた。アナルにペニスをねじ込むと、痛みで苦悶の表情を浮かべながらも、貝塚の腕を強く握っていた。貝塚が何を求めても、拒否することはなかった。貝塚にとって凛音は最高の女だった。  大学卒業を間近に控えたある日、貝塚は両親から卒業後の仕送りはできないと通告された。就職には失敗したし、カネを稼ぐあてといえばバイトしかない。  貝塚が考えたのは、仕事量を増やすことよりも、家賃のいらない誰かの家に転がり込むことだった。もちろん第一候補は凛音のワンルームだった。  しかし、そのころから凛音の性格に難があることが徐々に判明していった。  きっかけは貝塚の浮気がバレたことだった。凛音はひどく貝塚を責め、それ以上に自分を責めた。凛音は浮気相手とはどんなセックスをしたのかを、根掘り葉掘り聞き出そうとした。  相手は誰なのか。何歳なのか。何回浮気したのか。どんな体位をしたのか。フェラチオはしたのか。クンニはしたのか。避妊はしていたのか。アナルには入れたのか。  それらをしつこく何度も貝塚に自白を迫って、その後に事実を知ったことを後悔するという意味不明な行為を繰り返した。  この女はまずい。そろそろ離れなければならない。  浮気相手だった佐藤美雪を本命に切り替えようと決めたころ、凛音は自傷行為を開始した。凛音が最初にカッターナイフで切ったみずからの部位は、ありきたりな手首などではなく乳房だった。左の乳輪のまわりを取り囲むように多角形の傷を作っていた。  もはやまごうことなきヤンデレ女だった。 「カイ君に捨てられたら、私死ぬから」  傷を見せつけながら凛音が言った。  この女とはもう会えない。会うとヤバい。貝塚は凛音の電話番号を着信拒否して、SNSはすべてアカウントをブロックした。  その後、美雪と同棲を始めて、しばらくは平穏な日々を過ごしていたのだが、約2か月が経過したある日、知らないアドレスからメールがやって来た。  開くと、 「新しい彼女の名前、佐藤美雪さんって言うんですね。株式会社××コーポレーションというところにお勤めの、美人のOLさんですね。事故に遭わなければいいですね」  と書いてある。  めまいがしそうだった。凛音であることは疑いなかった。  すぐに凛音のワンルームへ向かった。部屋の前に立ってドアノブを回すと、鍵は開いていた。 「凛音、いるのか!?」部屋のなかに向かって叫ぶ。  返事はない。  部屋のなかにそっと足音を立てないように入る。カーテンは閉まっていて、昼なのに真っ暗だった。床に洋服や下着、またはコンビニの弁当ガラやペットボトルなど散らばっていて、かつての様子とは似ても似つかないものになっていた。 「カイ君」  ぎょっとして振り向くと、そこには髪の毛がボサボサで頬はやせこけ、白目だけがやたら光っている女の姿があった。服はいっさい着ておらず、細った腕や脚が薄っぺらい胴体から突き出している。暗い部屋のなかでも、腕や胸、あるいは首筋に赤黒い切り傷が身体についていることが見て取れた。 「凛音!」  女は右手に包丁を持っていた。刃渡り30センチ近くありそうな出刃包丁だった。恐怖よりも怒りが込み上げてきた。 「お前、何やってんだよ。ふざけんなよ」 「天国で、一緒になりましょう。カイ君は私だけのものなのよ」  凛音が包丁を振り上げて、貝塚に飛び掛かってきた。後ろに避けると、凛音はバランスを崩して床に倒れ込んだ。  眼下に、ボサボサ頭の凛音の後頭部がある。貝塚はそれをサッカーボールのように蹴り上げた。凛音の身体が吹き飛んで、手に持っていた包丁が床に突き刺さった。  凛音はうめき声を上げながら起き上がり、その包丁を取ろうとする。  その後のことはあまり記憶がない。気付けば、血まみれになった凛音の遺体が床に転がっていた。 「いつまでも、待ってる」  絶命する寸前、凛音はそんなことを口にしたような気がした。  貝塚は手や首筋の血をバスルームで洗い落とすと、逃げるように部屋から出た。黒いシャツを着ていて返り血が目立たないのは運が良かった。  そしてちょうど3週間後に、ワンルームマンションで専門学生の腐乱死体が発見されたというニュースが流れた。  貝塚は心ここにあらずという日々を過ごした。直近の交際相手ということで、自分がいちばんに疑われることは間違いない。  とうとう、事件発覚後4日目の昼に、警察が事情聴取にやってきた。  貝塚は、凛音とはもうかなり前に別れており、死んだことは知らなかった、自傷癖があったから自殺ではないか、としらを切った。犯人の心当たりはないか、と聞かれ、 「そういえば、僕と付き合う前ですが、ストーカー被害に遭っていたということを聞いた記憶があります。たしか相手は、専門学校の講師らしいんですが、具体的に誰かは聞いていません」とその場での即興のでたらめを取り調べに来た警察に密告した。  過去の交際相手だったということで疑われたのだが、それが逆に幸いした。凛音の部屋から貝塚の指紋や毛髪が出てきたところで、何の証拠にもならない。事件が発生したとき隣人は留守にしていたらしく、目撃者も一人もいなかった。  もう、大丈夫だろう。貝塚が平常心を取り戻して日常生活を送れるようになるまでに、半年ほどを要した。  時が過ぎ、事件のことなど誰もが忘れ去ったころ、貝塚は恋人で同居人である美雪に三行半を突き付けられた。  部屋探しに不動産屋を巡ったが、自分が借りられそうな物件はなかなか見つからなかった。しつこく安い部屋を求めると、不動産屋が、事故物件ということでかつて凛音が借りていた部屋を紹介してきたときは、さすがに良い気分はしなかった。しかし、時間的にも金銭的にもほかに選択肢はなかった。  まさか、こんな形でこの部屋に帰ってくるとは思いもしなかった。事故物件となったそもそもの原因は、この俺なのだ。内見に訪れた部屋はきれいに片付いていた。フローリングは以前は黄色基調の板だったが、濃い茶色のものに張り替えられていた。壁紙も、新しい。 「事件後、ひとりだけ入居者がいたんですけど、なぜか1か月経たないうちに逃げるようにほかの物件に引っ越したんですよ」と不動産屋は言った。 「まさか、オバケでも出るんですかね?」 「出るわけないでしょう。そんなの気にしてたら、不動産屋なんて商売やってられませんよ」 「そうですよね」貝塚は笑いながら相槌を打った。 「あいだにひとり入居者が入っているので、本来ならもう事故物件として取り扱わなくてもいいんですが、期間が短いので引き続き事故物件としての値段で入居者を募集しているんです。大家さんも一刻も早く次の入居者に入ってもらって、事故物件という扱いから脱したいと言ってましたから。本当、この値段は破格ですよ。さすがにここまでは下げ過ぎだと大家さんには言ったんですが、どうしてもこの値段で賃貸に出してくれって強硬に言うんです」  オバケや幽霊など、いるはずもない。凛音はこれまで一度も化けて出なかった。  そうだ。オバケなど存在しないことを証明するため、事故物件の映像を撮影してユーチューブにでも投稿してみようか。  自分が人を殺した部屋に住むことを決心した後、貝塚はそんなことを思いついた。
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