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 上半身を起こして、部屋を見回した。フローリングの洋室で、壁紙クロスは白地に3センチくらいの幅ごとにクリーム色の線が上下に通っている。キッチンは狭く、電気コンロがひとつあるばかりで、およそ料理をするには適していない作りになっていた。ユニットバスで風呂場は膝を抱えて体育座りをするのでいっぱい程度。典型的な学生をターゲットとした一人暮らし向けのワンルームだ。  事故物件の「事故」の対象となる殺人事件に関しては、貝塚もよく承知をしていた。報道によると、被害者は吉川凛音という名の20歳の女性。歯科衛生士を目指していた、中国地方出身の専門学校生だった。  発見された遺体はかなり激しく腐乱していたが、胸から腹に複数の刺し傷があったことから、警察は殺人事件と断定。部屋のなかは荒らされた様子もないことから、顔見知りによる殺人として捜査。しかし目撃者はほぼ皆無で、この建物はオートロックでもなく当時は防犯カメラも設置されていないため、手がかりとなるものがまったく残っていなかった。  今も犯人は見つかっていない。  インターネット上では推理小説やミステリーの愛好家らしき有象無象の面々が犯人像をそれぞれ勝手にプロファイルしていたが、提出された犯人像は男か女かいずれかで年齢は10代後半から70代までと広く分布していた。  貝塚が事故物件から動画を撮影して、動画投稿サイトにアップロードしようと思ったのは、この部屋に引っ越しすることを決断したのとほぼ同時だった。  世の中にユーチューバーという珍妙な職業が発生しているということはもちろん貝塚も知っていた。バンド時代のライブハウスでの動画を、誰が撮影したのか無断でユーチューブにアップロードされていたこともあった。貝塚をはじめバンドメンバーはすべて、それに対して不愉快に思うことはなく、むしろ宣伝になるからと特に削除を依頼することはせず放置していた。おそらくその動画は今でも残っている。  実は半年ほど前に、貝塚は自分で動画を撮ってユーチューブにアップしたことがあった。「ギターの弾き方教えます」というタイトルで、エレキギターで簡単なコードやアルペジオなどを弾く動画だったのだが、インターネット上にはすでに似たようなことをやっているユーチューバーであふれていて、視聴者にはまったく相手にされなかった。再生数は累計で50に満たないものだった。  とにかく再生数を上げるには、ほかの人が絶対にやらないようなことをやるしかない。  しかし、自分に音楽のほかに何ができるのだろうか。不動産屋で契約の手続きを進めながらそんなことを考えていたが、ひょっとしてこの事故物件に住むというのは誰もが経験できることでもなし、ここで動画を撮って配信するということだけでも、ほかのユーチューバーと差別化できるのではないだろうか。  おもしろい動画を投稿することで注目されれば、ミュージシャンとして自分を売り込む機会になるだろうし、注目されなかったとしても、それはそれでただインターネット上に誰も見ない動画が少し増えたというだけで貝塚に害を生じるものではない。  動画の広告収入で稼ごうという気は全くない。ちょっと調べてみたところによると、広告収入だけで生活するには1日に10万アクセス以上が必要で、かなり繁雑な手続きを要するらしく、煩わしかった。  とりあえず人目を集める。それが動画投稿の目的だった。  冷たいフローリングの床の上にノートパソコンを置いて電源を起動させせ、撮影したばかりのユーチューブデビュー作となる動画をスマホからパソコンに転送させた。  そして、その動画をパソコンの画面で再生した。  ――どうも、みなさん。初めまして。  ――これがYouTubeデビューで動画初投稿になります、カイと申します。  先ほど自分が発した声が聞こえて来る。撮影機材がスマホというお手軽なものであるせいか、画面で見る自分の姿は、現実の自分よりも全体的に少し濃い色をしているように感じた。深い青色のTシャツを着ているのだが、画面を通すと、黒に近い灰色に見える。  画面のなかの自分が、少し緊張した顔付きで言葉を続ける。  ――不動産屋さんが言うには、事件の半年後くらいにひとりだけこの部屋に入居したいという人がやってきたらしいんですが、なぜか1か月も経たずに別のところに引っ越したらしいんですよ。まるで何かから逃げるように。  内見させてもらったときに、不動産屋はたしかにそういうことを言っていた。貝塚にとっては1か月だけここに住んでいたその人間は前の入居者ということになるが、その男あるいは女は短い期間にいったい何があったというのだろうか。  不動産屋は事故物件であることを考慮しても2万円という家賃は破格に安いということだった。何せ大家が、誰でもいいから早く入居してもらって、事故物件というレッテルを剥がしたいという理由からこの価格設定になったらしい。  ちなみに、事故が起こった次の入居者には、事故の内容を告知する義務があるが、その次の入居者には告知する義務が免れるというふうに世間一般では言われているが、厳密な規則はないらしく、かなり恣意的にこの規則は運用されている。貝塚は事故の次の次の入居者ということになるので、告知義務は発生しないはずなのだが、後から面倒なことが生じるのを未然に防ぐには、1か月だけの入居者しか経ていないこの部屋はまだ事故物件として扱うのが妥当だということだった。  いずれにせよ、人が死んで家賃が安くなるなら、ぜひ死んでいてほしい。貝塚は本音でそう思った。  ――今日からできる限り部屋の様子を撮影して、はたして心霊現象的な何かが撮れるのか、実験していきたいと思ってます。  相方のレオには、こんな動画を投稿することはもちろん相談していない。もし知られたら、レオはどんな顔をするのだろう。金持ちのボンボンらしく、レオは基本的におおらかで温和な性格で、どんなことでもけっこう平気で受け入れる。きっと知られても、笑ってすますに違いないだろう。  貝塚はそう決めつけると、パソコンのブラウザでユーチューブにログインすると、動画をアップロードした。
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