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白い犬
小さい子供もヤンキーも寄り付かないような、廃れた公園の古びたベンチの上に座る犬を見つけた。
冴島碧が毎日通勤の近道として横切る児童公園は、今にも落下しそうな錆びたチェーンのブランコや塗装の剥がれ落ちた不気味な遊具が狭い空間に押し込められ、どこぞのB級ホラーの撮影くらいにしか使えないような区画である。
その日は年末の仕事納めを済ませたあと上司や同期に引っ張られて、周りは飲み会だ忘年会だと上機嫌で居酒屋のチェーン店に雪崩れ込み、酔っ払いどもに絡まれ、日付が変わってしまう前にさっさと退散した帰りだった。
外灯が多いおかげで不気味さは半減しているものの、静かな空間に小さな鳴き声はなるほど驚かざるを得ず、碧が恐る恐る周りを見渡すと、暗い中ではっきりと映る真っ白の毛に覆われた綺麗な大型犬が、釣り合わない古いベンチの上で座っていたのである。
「……どうしたの?」
か細く鳴いた犬はじっと碧を見つめていて、ゆっくりと近づくとその体には砂埃や傷も無く毛並みも良く、碧はこんな綺麗な子が野良犬だとは思えなかった。
顔は何とも愛らしく凛々しい。そして稀少な瞳を持っていた。猫ならまだしも犬では見た事がなかったその瞳は、夜の暗さでも分かるオッドアイだった。
片方はシトリンやアンバーを彷彿とさせる金色で、もう片方は暗い色をしているがそっちははっきりと認識出来ない。吸い込まれそうな瞳の犬に向け、碧は分かるはずないと知りながらも「迷子?」と声を掛けた。
すると犬は小さく鳴いて擦り寄ってくる。そしてまた碧の目を真っ直ぐに射抜くほど見つめ、まるで言葉を理解しているかのようなその仕草に碧は心を打たれた。
目線を合わせるように屈むと、首元に顔を寄せてくる。肌触りの良い毛が擽ったくも暖かく、獣臭さが際立たない事は不思議であったが、あまりの愛らしさに破顔する。
碧は無類の動物好きで、幼い頃から動物に好かれやすい人間だった。
人馴れしている綺麗な犬なのだから当たり前に飼い主がいると思っていたが、周りを見ても気配すらない。首輪もないし最近では野良犬なんて見かけないから、逸れたのか、もしや棄てられたのかと碧はしなやかな体を撫でた。
犬種は分からなかったが、ゴールデンレトリバーよりも一回り大きい。狼に似ていて、雑種の可能性もあるが、座り方も仕草も上品だった。そしてどこか犬らしくはない雰囲気を持っている。
しかし可愛い。いや格好良いという表現の方が合っているな、と碧は思った。
自分がなにか言う度に顔を向け、聞いているよと言わんばかりの視線。人の言葉が分かるのだろうか、というファンタジーな思想を抱いた碧は、しかしあり得ないとすぐに自分の考えを笑った。
「そろそろ行かないとな…」
いつまでも公園には居られない。アルコールが入っていて体が火照っているとはいえ、年末の外気は寒く眠気もある。
言いながら碧が腰をあげると、犬は静かにベンチから降りて目を合わせてきた。なにか察したのだろうか、と黙っていると、犬はなぜか先立って碧が帰る道を歩き出した。
「え、君もこっちなの?」
犬は吠えなかったが、ちらと碧を振り返り返事のように尻尾を緩慢に揺らした。横に並ぶと体を寄せてくるものだから、碧はつい無意識に撫でる手を出してしまう。
とりあえず方向は同じなのかな、と碧は楽観的に考えていたが、結局そこから自宅マンションまで一緒に帰ってきてしまった。
「君もここなの?」
しかし辺りに飼い主らしき人はいない。迷子なら探してもおかしくないし、貼り紙も見当たらなかった。
どうしようかと悩む碧の傍ら、犬は平然とマンションのエントランスへと入って行き、碧の方を見る。まるで「早く来い」と言っているような錯覚を抱いた碧は、まあいいか、と足を向けた。結構酔っているのかもしれない。
動物が好きでいつか一緒に暮らしたいと思っていたため、碧が住むマンションはペット可である。このほど自分の選択を褒めたことは過去にも類を見ないだろう。
犬はこれまた慣れた様子で碧の住む部屋まで付いてきた。自分の家に帰ってきたような堂々としたその態度に、これはもう一緒に住んでもいいのでは、と碧は思ってしまった。
深夜だったのでペットショップも閉まっている。起きたら病院ついでに買い物もしようと計画を立てながら、碧は犬と共に風呂に入った。
明るい部屋で犬の外見を再確認すると、夜目で見辛かったもう片方の瞳はエメラルドに似たとても魅力的で鮮やかな色をしていた。こんな色の瞳を持つ子がいるのか、と碧はしばらく犬と見つめあった。
パワーストーンのようなその色の神秘さに、碧は勝手に名前をつけた。青緑色を意味する「シアン」という名は、安直でセンスがあるかどうかはわからなかったが、呼んでみると犬は尻尾を振って碧の頬に擦り寄った。
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