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蝉が合唱を始めている8月、終日の暑さに職場と家の往復だけでも汗が流れるほどで、節電を心掛ける会社も然程涼しくは無いからか、なかなか汗は引いてはくれない。
けれど自宅にはシアンが居るため、常にエアコンと扇風機を稼働させている。碧は冷房が苦手で設定は除湿だが、正直冷房よりも快適で、なにより財布にも優しかった。
年末にシアンと出会って早くも半年以上が過ぎていた。
相変わらず人間臭く犬らしく無いシアンは当然のように碧と共に寝起きし、触れ合い、そして守ってくれている。愛着というのだろうか。愛着自体は出会ってすぐに湧いたが、やはりその感情に違いがある事を碧は明確に自覚していた。
おかしいだろうか。異常だろうか。犬の抱く愛情が歪に恋を含んでいる。
確かにシアンは格好良い。見惚れる瞳に安心感のある体躯、辛い時もさり気無くそばに寄り添い、寂しさなどあっさり払拭される。外に居る間には危険から守ってくれる。紳士的な犬だとは思っていたけれど、人間くささや行動が時々碧に錯覚させるのだ。
この胸の高鳴りは何だろう。離れても一緒に居てもシアンの事を考えている。
ペットが居ると独り身になる、という話はよく聞くし、動物好きの碧からすれば煩わしい人間関係に比べたら何の問題もないことである。けれど、きっと今自分が抱いている感情は一般的なそれではない。
色の違う瞳に見つめられ、擦り寄ってきて、一挙一動でなくともそれらの仕草などに度々片想いに似た緊張を抱くのは、禁忌的で決して叶わない恋でしかない。
死ぬまでずっと一緒に居ることは出来るだろうが、所詮は人と犬。プラトニックな感情ではないこの色欲は、持つだけ虚しい「人の罪」であった。
昼休みに入り、持参した弁当をつつきながらも碧の頭の中ではシアンの事があった。
自覚した淡い恋の意識よりも、それはここ数日のことで、シアンの食欲が落ちているような気がしていた。
水は足すほど飲むが、適量を出している食事は半分ほどしか減らないのである。先週末には医者に診てもらったが、体に異常は無く暑さでバテているのだと思う、と言われただけで、血液検査も結果は正常だった。
本当に夏バテだろうか。
室内は適温に保っているが、やはりシアンにとってはあまり良くないのか、と碧は思考を巡らせ、弁当を食べきらないまま昼休みは終わってしまった。
午後からは仕事に集中したが、早く帰りたい一心から、碧の処理速度は普段よりも上がっていた。
そして定時になるや否や、碧はデスクを片付けて鞄を引っ掴み、挨拶もそこそこに早足に職場から出て行く。その背を見送った何人かは「珍しく慌てている」と、顔を見合わせて驚きを顕にしていた。
最寄駅から殆ど走って帰宅した碧は、玄関を開けて涼しい空間に飛び込むと、乱れた呼吸を深く繰り返した。汗が流れて気持ち悪かったが、風呂は後だ。
「───シアン、ただいま、」
居間に続く扉を開けると、シアンがベッドに寝そべりながら顔を上げて碧を見ていた。
鞄を放りネクタイを緩めながら近づくと、緩やかに尻尾が跳ねる。
「あんまりご飯食べてないね…、どうしたらいいんだろ」
ダイニングテーブルの近くにある容器には、今朝入れたご飯がまだ残っていた。水は空になっていたので急いで足すと、シアンはのそりと起き上がって水を口にする。
あんまり食べられないようでは痩せて病気になってしまうのでは、と不安を抱いた碧は、床に座り込んでシアンを撫でた。
シアンは碧の感情を読み取ったように小さく鳴いて、舌で唇を舐めた。頬に擦り寄り、何度も囁くように鳴いた。
大丈夫だ、と言っているような気もするし、大丈夫か、と心配されているようにも思えて、碧はただ少し微笑みながら毛並みの良い体躯に手を添えた。
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