出逢

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 横たわっていた木製のベッドから手を伸ばし濃緑のカーテンをすこしめくると磨き上げられたガラスの腰窓の向こうに一本の松の木と何種類かの低木が見えたので、これはおそらく中庭のようなものだろうと結論付けて仕立てのいいベッドに沈む。  あの後私は不思議なことになんと少年の背で寝入ってしまったようで、気づくと既にベッドで横たわっていた。  そして意外なことに少年の住処は立派で整然とした印象の伝統的な古い家屋で、おまけに一人男の使用人がいるようだった。その他に同居人がいる様子はなく少年自身が屋敷の主であるらしい。  どういう経緯で悪魔風情がこの屋敷を手にしたかは想像に易く心の中で顔をしかめる。住んでいた者は皆殺しにされ喰われたのだろう。  悪魔の主食は人間だ。主をなくした屋敷にこの悪魔が居座ったと思うと、まま有ることとはいえ薄気味が悪い。 「目覚められましたか」 地方の訛りなのか妙に言葉の間隔の狭いイントネーションで問われ、開けたばかりのまぶたを何度か瞬く。先程から廊下をこちらに向かって歩いてくる人の気配があったのには気づいていた。男は話し続ける。 「昨夜は驚きましたよ。坊ちゃんがいきなり知らない方をかついで戻られたンですからね。あなた、ここは前原の家です。決して怪しい場所ではないので安心なさい」 「マエハラ…」  ぼんやりを装って問い返した。"坊ちゃん"はあの少年のことだろう。そして驚くべきことはこの妙に清潔そうな使用人は間違いなく人間だ。 悪魔が人を食わずに生かして遣うなど聞いたことがない。それにマエハラ、と言ったか。ましてあえて人の名を名乗り生活するなどにわかには信じがたい。 「酷く酔いつぶれていらしたンで昨夜はお名前を聞けませんでした。あなたお名前は」 「スガヤ…」 「すがやさん?字はなんと書くのです」 「あー、スガは。ああ…」 「横須賀のスカ、それとも管と書いてスガです。それとも寿に…」 「最初の」 「ではヤの字は谷?それとも家ですか。弓矢のヤ」 「それも…最初の」  矢継ぎ早な質問にはつい片言になる。会話こそ流暢であると自負しているが文字のスペルまでは頭に入れてこなかった。  使用人の眉がピクピクと動き、探るような目で私を射る。どうやら私が何者かひどく疑っているようだ。当然か。 「もうそれくらいにしてやりなよ。目覚めた瞬間にいろいろ聞かれたら誰でも戸惑う。…でしょ?違う?」 揶揄、というより純粋な疑問系で途切れた言葉にふと見ると、部屋の扉は開いており少年が気配もなくそこにいた。 またしても悪寒がする。私が気配を察することができない生物など初めてと言っていい。使用人が今どき珍しい片眼鏡をずりあげる。 「坊ちゃんも、"普通の子"はこんな大男担いだりしませんよ。今後はおやめなさいね」 「そうか」 「そうです」 「わかった。覚えとく」 「ええそれがいいです」  使用人は少しだけ眉を吊り上げると神経質そうな困り顔をして部屋を去る。  廊下から『川崎にはなんと伝えましょう。私ではこの男の得体を見抜くことはできぬものかもしれない』という使用人の心の声が聞こえた。  かなりつまらない能力ではあるが、天使には他者の心を読み取ることができる。必要なときだけスイッチを入れ替えまるで発声したかのようにその心の声を聞くのだ。  そうやって徒に人間の前に姿を表しては“導く”という名目で人を誑かすのが天使のお決まりのやり口というわけだ。  少年は文机のイスを持ち上げ静かに私のベッドの横に置いた。私は今度は少年の心に耳を澄ます。 『こいつはなんという生き物なんだろう。あとで川崎に聞いてみようか。でもなんにせよ八百万会の周りを彷徨いていたのだからただの人間ではないだろう』  八百万会とは少年が出入りしている組織の名だ。出会ったあの路地にその出入り口があると聞いて悪魔を探しに7日も張っていたのだ。  組織はこの国に属するすべての異形を統括、管理、派遣する役割を数百年に渡り担ってきたという。その長い歴史は異形を統べるものとしては世界的に見ても比類がない。 「昨日はありがとうございました。なんか飲みすぎちゃったみたいで」  先手を打ってヘラリと笑ってみせると、少年は急にしどろもどろになり「ああ、いや、いい」と呟く。 『びっくりした。そんなに酔っていないのかこいつ。それにしても糸みたいな目してるな』  少年の心中では年相応の悪意のない言葉が続く。こちらこそなにか企みがあり餌として連れ帰られたと思っていたのに拍子抜けだ。  どうすり寄って居座ろうかと考えていたのに。  "悪魔"とはこの世と違う世界から現れる人型の生き物だ。  人智を超えた怪力と回復再生力が大きな特徴で、外見上は紅い三白眼とやたら質の良い髪と肌を持ち特有の雰囲気を持つ。そして彼らの主食は人間だ。 「あの、あんたは」少年が言う。 「なんですか?」 「あんたには、身寄りがない。そうだろ?」 「そうですけど」 「なら」  少年はもごもごと昨夜と同じ質問をするとちらりと廊下を見た。身寄りがないなら食ってもいいだろう、か。 「なら、僕の小間使いになれ」 「小間使い」 また予想が外れオウム返しにすると少年が顔を寄せ小声を出す。 「今の小間使いも悪くないけど、ある人に借りた人間だから監視されている気がして落ち着かない。形だけでもあんたが小間使いになれば僕は監視の目をぬけて助かるしお前は職と家を得る。ただしこの家で起きることは他言無用だ」 使用人の気配がないと確信を得たからか少年の声のボリュームが上がっていく。 「あんたは道端に落ちていた。行き場がないなら僕が居場所を用意できる」  到底年上に物を言うような口調ではない。しかしその話しぶりには身に覚えがある。まだ私が若い天使で、人と暮らすことを覚えはじめたばかりの頃には私もあんな口調だった。  言葉とは文の法則でも単語を知っている数でもない。自分を何者と認識し、周囲を何と認識するかだ。この悪魔もまた人間の世界へきて日が浅く、自分自身を最上とする価値観しか知らないのだろう。  ではなぜ人の世に飛び出してきたのか。しかも喉から手が出るほど食べたいはずの人間を遠ざけたいという。いや、あの使用人はなにかの事情で食べられず面倒な存在なので代わりに私を雇ったふりをして喰う算段か。  そんな考えはお首にも出さず口から次の言葉を吐く。 「え。いいんですか。見ず知らずの酔っぱらいの俺みたいのを家に引き入れて…本当にいいんですか?」 「金には困っていないか。必要なら工面しよう。できる範囲で」 「金はないって意味じゃ困ってるけど借金とかは別に。でも」  わざとらしく躊躇する顔をしてやれば悪魔はその外見の年の少年らしい動揺を見せる。できる範囲と言いながら明後日の方向を見る仕草などまるで人間だった。一体どうやって学習したのだろう。悪魔としてもおそらくはまだ未熟だろうに。  この異質さが天使長を警戒させ監視人を付けさせたのか。しかしただこればかりの異質さなら警戒するほどの理由にもならないだろう。 「…駄目か。確かにどうしてもお前がいいという理由はない。でもこの地で身寄りのない人間を探すのは難しい。老人ならまあ、いる事にはいるけど」  悪魔がもごもごと言いよどむ。老人は喰うところがないだろうからな。  どちらにせよ相手から誘い入れてくれるのであればこれほど楽な話はない。  私の不安だが了承した、という芝居に悪魔の淀んだ目に水面に輝く日の光のような煌めきが走った。
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