出逢

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 以降日々は怒涛だった。使用人は確かに最初の見立てどおりのただの人間の男で、虐げられらた様子はない。  むしろ悪魔相手にそれはいけません、あれはいけませんと叱り飛ばし、心のうちも悪魔を可愛く思いその身を案じていた。  さらには悪魔が俺を小間使にすると宣言してからの1週間、とくに苦言もなく俺に対しての使用人教育もテキパキとこなした。  母親じみた雰囲気は独特であるが、かなり要領のいい男だった。そしてあっという間に使用人が屋敷を去る日はやってきた。 「いいですね、坊ちゃんは人とは少し違う振る舞いをしてしまう節がまだ多いですからね。よく見て注意しておあげなさい。もっとも周囲に溶け込めるよう教育するのが私の役目でしたがこれほど早く身を引くことになるとは」  そう言いながら使用人は俺の手から革のボストンバッグを受け取った。八百万会は拍子抜けするほどあっさりと彼の返還を要求してきたのだ。  仰々しいアンティーク調の片眼鏡をかけ普段よりはかしこまった、言うなれば少々時代錯誤の古めかしいヨーロッパ風の衣服に身を包んだ使用人は、まだ少し心配そうに俺と悪魔の顔を交互に見る。 「坊ちゃん」 続いて使用人は膝をついて悪魔に語りかける。 「これは大切なことです。お聞きなさい。この先あなたが誰を信じ、何を守らんとするかはあなたの意志で決めること。その志にどんな横槍や圧力がかかろうと、あなたはあなたの決断をなさい。そしていつも傍に守るものべきものを持つこと。あなたがそれを大切にすれば、それはあなたに応えあなたを望まぬ道から連れ出すでしょう。いいですね」 「お前は川崎の”それ”だろ」悪魔が答える。 「…ええそうかもしれませんね。あなたは賢い子です。それにもしかするとあなたの”それ”はそこのチンピラかもしれない」  チンピラとは酷い言い草だ。今生の別のような挨拶には内心首をかしげるが、実際今生の別に近い状況なのかもしれない。”川崎”とやらの得体はまだ掴めないが、おそらくは八十万会のお偉いだろう。 そこに使えていた使用人が、主人である川崎の言いつけでこの悪魔の世話をしに来た。 とするとこの屋敷は当初考えていたのとは違い、川崎の持ち物かはなから空家だった可能性すらある。川崎とは何者なのか。そしてこの男もだ。 「使用人さん、最後くらい名前教えてくれないんですか」 俺が言うと使用人は微笑んだ。 「名乗るほどの名を使用人ごときが持っていましょうか。”あなたに必要かはわかりませんが”先々のため知っておいたほうがいい。相手に迂闊に自分の名を教えないこと、それが己が身を守る秘訣です」 「相手って俺があなたに何するっていうんですか。秘密主義のまま行っちゃうんですね」 「秘密も持たない人間なんて色気のないもんです。それにあなたも私に本名を教えていないでしょ」  急にこちらに近づくなり最後の方は耳元で囁くと、使用人は困り顔で笑った。敵意はなさそうなのでこちらはそのまま黙っておいた。心に耳を澄ますと使用人はこう思っている。 『あなたがただの人間でないのは察しがつく。でもそこまでしか私にはわからない。だからどうか川崎の餌食にならない平穏な暮らしをこの子に与えてやってください。この悪魔は他のとは違うようだから…』  思わず目を見開く。この使用人はちゃんと"坊ちゃん"の正体を知っていたのだ。その上で周囲に溶け込める教育を任された。”他のとは違う”というのは具体的には一体どういうことなのだ。八百万会はこの悪魔をどうする気なのだろう。  使用人と目が合うと彼はふっと柔らかく微笑んだ。  それに奇妙なことはまだ一つある。この悪魔は俺がこの家に来て一度も人間を食べていない。日々使用人の用意した人間用の食事を日に3度食べてそれきり。飢える様子もなければ空腹に苛立っているところも見ない。  使用人が俺に教えたことは人間としての坊ちゃんの世話の仕方だけだ。だからてっきり何も知らずに仕えていると思っていた。 「坊ちゃん、須賀谷さん、お元気で」  使用人は小さく頭を下げた。はっきり心を読もうとせずとも、使用人からはこちらを案ずる顔をしていた。しかし俺はまだこの男が案じていることの実像を結べていないのかもしれないとふと思う。  そうしていると奇妙な気配が足元をすり抜けた。 「迎えの"穴"が来ましたね。では」  奇妙な気配は使用人の足元へ一直線に向かい、そこで気味の悪い黒い穴を開けた。使用人はにこやかな顔のままずぶずぶと黒い沼に沈んでいく。 一瞬助けるべきかと思ったが、これが八十万会のお迎えのやり方なのだろう。気持ちのいい旅にはなりそうもないがこれが異形のやり方といったところか。慣れた様子で首まで沈んだ使用人に俺も会釈した。
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