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金木犀の香りは網戸越しに家中に侵入し、屋敷中どこにいてもその異国の香りを漂わせた。少し肌寒くなってきた空気に故郷を思い出す。
以前人と暮らした時には寒い国に住んでいたので、ようやく長くじめついた夏が終わってくれてほっとしている。慣れない気候には正直ほとほと嫌気がさしていた。しかしそれさえ除けばあの悪魔とは不穏なほどに穏やかに暮らしている。
”坊ちゃん”は元の使用人が去った後もいっこうに人間を食わず、日がな読書にふけっていた。悪魔とはこんなに勤勉なものだろうか。それとも俺がこれまで悪魔と接してこなかったので知らないだけで実際はそういう生き物だったのかもしれない。
しかしどちらにせよこの悪魔は本当によく本を読んだ。元使用人が基本的な読み書きは仕込んでいたようで、今では俺よりも難しい字を滑らかに読みこなす。その集中っぷりなど食事だと私室から呼び出せば苛立ってみせるほどだ。
「そんなに本ばっかり読んでいたら健康に悪いですよ」
食後にリビングのソファで丸くなる背中に上着をかけてやる。もう数カ月続けているこのままごとは一体何なのだろう。悪魔が風邪など引くはずもない。寒さを感じるかも定かではない。しかし元使用人は徹底して”坊ちゃん”を人として扱っていた。
それはあの元使用人の意向というより、八百万会の意向だろう。
俺の存在はきっと八百万会にも伝わっているはずだ。妙に相手の方針に逆らって目立つのは避けたい。俺についてあの元使用人がどう報告したかはわからないが、大方変わった人間というくらいの認識だろう。あの時点で彼は俺が何者かまでは見抜けていなかった。さらに元使用人が去ってから注意深く見ていたがここには監視するような異形の出入りもない。
唯一完璧には察せられない存在だったこの悪魔さえもその気配をよく覚えてからは居場所がわからないようなこともほとんどなくなった。
「須賀谷…今夜」
珍しく悪魔が本から顔を上げる。
「今夜何か?」
「…いや、なんでもない」
「そうですか」
「少し出かける」
「でしたら私もお供しましょう。どこに用があるんですか」
「あー…」
はぐらかすくらいなら出かけるなどと言わなければよかったのでは、と思いながら追及する。ついに人間を食べたくなったか。もしかするとこの悪魔は長い間食事を取らなくても平気なタイプなだけかもしれない。
それにしても「坊ちゃんは一人で夜出歩くような年齢ではないと思いますが」馴染み始めた使用人口調には今でも我ながら笑ってしまいそうだ。
「…友達と会う。迎えに来てもらえるから、頼むから来ないでほしい」
もごもごと年相応の恥ずかしげな様子で言葉を紡ぐ姿に私は大嘘の笑みをこぼした。
「仕方ありませんね。ですが、門限は守ってください。そういえば私と出会った日以来お一人でお出かけは一度もしていませんでしたね」
黙ってついていけばいいだけのことだ。人を喰うか、もしくは八百万会に呼ばれている可能性もある。あの”穴”の迎えでいくのだろうか。それだと正確に追えるか多少心配だがまあなんとかなるだろう。
悪魔の心の声に耳を澄ます。こんなこと同じ天使たちなら耳が汚れると言ってひどく潔癖な表情をするに違いない。しかしそれも今となってはどうでもいい。この任を受けた時点で既に俺は堕天した。こんなことを言ってはなんだが、堕天したときから不思議と楽な気持ちもあった。
そうと決まるまで認めてこなかったが、天使でありながらどこかで“天使としての在り方”が肌に合わなかった。
『…まずいな。そろそろ食事をとらないと。黙って出ていけばよかったか。でもこいつ最初の使用人より僕の動きに敏感な気がするんだよな…』
少年の呟きが頭に入ってくる。ああ、ついにこの時が来た。すました悪魔の本性を見るときが。それを見つけてどうしろ、という指示は受けていない。無責任にもただ見守るようにとしか言われていない。人間が喰われる様さえもただ“見守れ”というのだろうか。
それについては何度も自問してきたが、直面してみた時の良心に従うことにしている。人間を逃しても見殺しにしてもきっとどちらも間違いではないのだ。俺はこの悪魔を殺せとは一度も言われていない。
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