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5の乱
三人で手分けして仕事を片付けたあと、文哉は約束通り敦人とともに帰宅した。
風呂をすませて部屋へ戻ると、テレビを見ていた敦人の手招きに迎えられる。
自宅へ泊めるのは数度目だが、彼はすっかりリラックスした様子でベッドに背を預けていた。持ちこんだ就寝用のTシャツとジャージに身を包み、抱いていたクッションを用済みとばかりにシーツの上へ放る。
「文さん文さん、早く来て」
「はいはい」
呼ばれるまま傍へ膝をつくと、敦人は我が物顔で文哉を膝の間へ座らせた。後ろから腹の前で手を組み、肩に頭を乗せて幸せそうなため息をこぼしている。
「あー、文さん温かい、眠くなる……」
最初はこの体勢が照れくさかったが、少し慣れてきた。肩に懐く頭を撫で、まったりと流れる時間の穏やかさを味わう。
「寝るならベッドに入りなよ? 風邪引いちゃうから」
「ん……ね、文さん……」
うなじに、ぬるく柔らかな何かが押しつけられた。
文哉は驚いて、ぼんやりと半分閉じていたまぶたを見開く。
「敦人?」
「俺……」
心なしか荒い息が、スウェットの襟元からのぞく肌を湿らせた。髪の生え際をたどるような口づけが、ゾクリと背をわななかせる。
「あ……っちょ、待って、くすぐったい」
「ヤバいです……欲しい、触っていい?」
「んっ!?」
大人しかった男の手が、思惑をにじませて服の下へ忍びこむ。
このままではマズい。文哉は性的な空気を察し、慌てて敦人の膝から離れた。
「わ、わかった、でも待って」
「嫌ですか?」
身体を反転し、不安そうな顔の敦人をベッドへ上がらせる。欲情を宿した両手は、手をつなぐことで拘束するしかなかった。
「嫌じゃないよ。だけど触られるのは得意じゃないって前も言ったし、ね」
「怖くなったら途中でやめますから……」
切なげな訴えから目を逸らす。
あのまま身体を触られたら、乳房がないことも、股間に男の性器がついていることも、事実として敦人に知覚させてしまう。
それだけは、どうしても避けたかった。
「そんなことしなくても、すぐ挿るよ。実はさっき、お風呂で準備したんだ」
「そうじゃなく、……ンッ、ぅ」
男の膝に乗り上げて、唇をキスで塞いだ。
人でなしは微笑んで、思いやりによく似た身勝手を叩きつける。
「敦人は気持ちいいことだけ考えて」
まだ少し湿った髪を撫でると、眼鏡の奥の悲しげな瞳が伏せられた。
「……はい」
「いい子だね」
見なければ、触れなければ、小賢しい内面も、男の身体もまだ誤魔化せる。真実や不安を仮面の下に隠して取り繕う罪悪感は、とうに麻痺していた。
今はまだ恋人でいたい。そのためには、どうしたらいいか――そんなことばかり、文哉は考えている。
日に日に増していく後ろめたさに蓋をして過ごすある日、文哉は一人でなじみのゲイバーを訪れていた。
家と会社からは離れているが、こぢんまりとしたアットホームな店だ。知人に会う可能性の低さもあって、この店では仮面を丸めて捨てることができる。
「そ。したらそいつ、俺のこと抱いたと思いこんだんだよ……責任とるって言い出して、今付き合ってんの」
「嘘でしょ。純粋で可愛いノンケくんに、なんて悪戯を仕掛けたのかしら!」
マスターの槙が、泣き真似をしながらしなを作る。カフェでアボカドの乗ったサラダ飯を作っていそうなイケメンだが、ひげ面のオネエキャラは常連たちのアイドルだ。
「あたしに聞かせる前に、早いとこ白状して謝ってきなさいな」
「俺もそう思う……マジで悪いことしたなって……すげえいいやつなんだよ。誠実だし、めちゃくちゃ優しいし、俺じゃ全然釣り合ってねえの」
「それはどうかしら。文ちゃんはいい子よ? 口は悪いし、飲みすぎるとちょっと変なことしちゃうけど、そうやって人のために心を痛められるじゃないの」
優しいリップサービスにどっぷり浸かりたいが、そんなはずがない。都合の悪いことを隠したまま、甘い汁を吸おうとしている不誠実な男なのだから。
これをいい子だと言うのなら、世の中にはいい子があふれていて素晴らしい天国になっているはずだ。
「槙さん、あんがとな。でももう限界は感じてんだ。可哀想すぎんじゃん?」
「馬鹿な子ね……ふふ、じゃあ文ちゃん、その子と別れてあたしと付き合いましょうか。本性も全部知っているから、きっと気楽よ」
付き合いの長い槙には、それこそ何度もこうして情けない話を聞かせてきた。だけど彼への好意は恋に変化しないし、そもそも槙に溺愛している恋人がいるのは周知の事実だ。
そうやって冗談で気持ちを和ませてくれるから、ここに通うのをやめられない。あれから一度も見かけないヤンキー店員もだが、この店には菩薩スキルの高い店員が集まる何かがあるのかもしれない。
「そうだなあ……悪くねえな。槙さんに可愛がってもらうのも」
「ええ、任せて? 文ちゃんはベジミックス男子だから、とんと甘やかしてあげる」
「ベジミックスう?」
「しっくりこない? いろんな色や味があるけど、結局は野菜っていう。あたし、恋人を甘めのグラッセに仕上げるのは得意なの」
馬鹿にされている気はするが、ベジミックス男子という音が気に入り、笑ってしまう。
苦いスープの上澄みを二人して混ぜるような会話は馬鹿馬鹿しくて、重苦しい気持ちの密度を下げてくれた気がした。
グラスに半分ほど残っていた水割りを飲み干したとき、カウンター奥のキッチンスペースを目隠ししている暖簾が揺れた。そこからヌッと姿を現した男を横目に確認した文哉は、声もなく悲鳴を上げる。
文哉の視線を目で追った槙が、不思議そうに首を傾げた。
「あら、どうしたの。声かけられるからって、表に出るのは嫌うのに」
出てきた男は、無言で文哉の前へ立つ。顔にかかる髪をカチューシャですっきりと上げ、槙と同じ黒シャツにエプロンをつけた男――敦人は、いつものように微笑んだ。
「暇だし、たまには常連さんに挨拶しようと思って」
状況が理解できなくて、瞬きをする余裕もない。かろうじて絞り出した文哉の声は不安にまみれて、か細かった。
「あ、……ぁ、えっと……」
「ふふ、ノンケにしとくのが惜しいくらいイケメンでしょ。あたしの従兄弟なの」
「い……従兄弟……?」
「普段は会社員なんだけどね、たまに手伝ってもらってるの」
槙に肩を叩かれた敦人が、「痛いよ、槙兄」と苦笑している。それから流し見るように視線が文哉へ戻ってくるから、くらりとめまいが起きそうだった。
「さっきの、ホントですか?」
「さ、……っき、って」
ど、と冷や汗が噴き出す。必死で手繰り寄せた記憶には、槙へ敦人の話をしたことしかない。付き合い始めた経緯を、実名を伏せてこと細かに説明した。ズルいとわかっていても、誰かに吐き出したかったから。
もう終わらせる気だった。真実を話す気だった。だがしかし、こんな形で又聞きさせるつもりではなかった。
「ご、……ごめん」
いくつもの衝撃を一度に受け、喉が詰まったような感覚に襲われる。文哉は震える手で財布から取り出した札を数枚、カウンターへ置いた。
「今日は帰る」
「えっ、ちょっとどうしたの? 真っ青よ?」
槙の心配そうな声を後目に、逃げるように店を飛び出した。少々強く鳴ったドアベルの音を振り切りたくて、バーの入ったビルの階段を駆け下りる。
ビル前の路地へ出たとき、頭上から再度ベル音が聞こえた。嫌な予感がして見上げると、路地に面した階段の踊り場から敦人が身を乗り出している。
「文さん!」
文哉は情けない悲鳴をこぼし、弾かれたように足を動かした。
「っ……」
「待って!」
カンカンと軽快な音を立てて階段を降りる敦人から、必死で距離を取る。しかし飲酒後に全力疾走できるはずもなく、思うようにスピードが出ない。
怖くなって振り返ると、エプロンを外した敦人が長い脚をフルに活用して追ってきている。真剣な顔つきが怖い。
距離は想像より近く――文哉が前を向き直したとき、くんッとスーツの裾をつかんで引かれてしまった。
「ぅあっ」
「待ってって、言ってるじゃないですか……!」
「わっ、わ、……!?」
上半身だけ後ろへ傾く身体を、敦人が抱き留める。まるで子どもが玩具の人形をキャッチするように軽々と腰を捉えられ、文哉はそのまま人気のない通路へ連れこまれていた。
「す、ストップ、敦人、……敦人!」
逃走は失敗だ。どうあがいても逃げ切れる自信がない。大した距離を走ったわけでもないのに息を荒げる文哉は、腹を抱く男の手をタップした。
「も、わかった、逃げないから……離して」
「……はい」
敦人は素直に腕を離し、文哉を向かい合わせに反転させる。室外機と空のビールケースが積まれたどこぞの店の裏は暗く、男の顔がはっきり見えなかった。
「文さん、さっきのこと……説明してください」
文哉は逃げることで、恋人関係の延長を期待していたわけじゃない。槙との会話を聞かれていた以上、二人の関係に未来はないのだ。
ただ少し、心の準備ができていなくて、駄目な大人だっただけで。
「……そのままの意味だよ」
「そのまま、じゃわかりません」
「言わなくてもわかるよね……? わざわざ言葉にしたくないんだ。ズルいかもしれないけど……許して、敦人……」
「……っ許せるわけないでしょう!?」
肩をつかんだ手に塀へ押しつけられ、痛みで息をのんだ。相変わらず、男の表情はよく見えない。
やはり壁ドンの圧迫感は酷い。大きな男に迫られる本能的な不安と恐怖、それから好きな男に無体を働かれる悲しさが、文哉の平常心を根こそぎ奪っていった。
「っ痛いじゃないか!」
「許してって、意味わかんないでしょ!? 今までのことはなんだったんですか! 今日の昼も普通に飯食って、また明日って言ったくせに……!」
「そ……っ、こっちだって言い出せなかったんだよ!」
「なんでです!? なんだって言えばよかったじゃないですか! そのための恋人じゃないんですか!?」
鋭い怒声の中身を理解すると、すん、と興奮が落ち着いた。謝るべき立場のくせに、居直るなんてとことん最低だ。
「そうだね……僕が原因だって、忘れるところだった」
思えば彼のくれる愛情は、キレイな宝箱の中に似ている。一番上等なふかふかの柔らかい布に据えられ、毎分毎秒「綺麗だね」と囁かれているようだった。
そんな夢も、そろそろ覚めどきらしい。
偽の宝物だったことを、今度こそ伝えないといけない。
「嘘をついて、ごめん」
「なんか……嫌です、その謝り方。それ仲直りのためのごめんじゃないですよね」
当然だ。今さらどんな顔をして言えるというのだろう。
――本気で好きになったから、捨てないでくれ、だなんて。
「敦人の時間を無駄遣いさせて、ごめん。最低な僕に優しくさせてごめん。全部なかったことにしよう」
「……は? ……どういう意味です?」
低く唸る声に、ビクっと肩が揺れた。
すると敦人の手に力がこもり、肩が鈍い痛みを覚える。しかし文哉に、それをとがめる権利はない。
「僕と付き合ってたことは、早く忘れたほうがいい。そのほうがお互い、にっ、んぅ」
両頬を片手で挟んで上向かされ、キスをされていた。覆うように唇がかぶさり、口内をグチャグチャに舌で荒らされて、声どころか息も吐けない。
男の手首をつかんで剥がそうとするが、虚しくなるほどビクともしなかった。
「んっ、ん……っん、ぅ」
「は、っ文さ、文さんっ」
押し返しても叩いても離れないどころか、大きな身体が壁へと文哉を力任せに押さえつけてくる。前にも後ろにも動けず唇を塞がれた文哉は、スラックス越しに性器を揉まれて青褪めた。
「ちょっ待って敦人、あ、敦……ひっ!?」
「……なんで反応しないの? ねえ、文さん、ねえ!」
グニグニと刺激されたところで、加減は強く、怖くて性的快感を得る余裕はない。怒っている人間に急所を握られているという状況は、原因が自分であったとしても抵抗せずにいられなかった。
「や、……めろ、って!」
振り上げた拳を、敦人の脇腹目掛けて打ちつける。男は殴打された箇所を押さえ、フラりと後ずさった。
「……ッ」
文哉は濡れた唇を袖で拭い、塀に背を添わせながら敦人と距離を取る。
項垂れたまま動けない敦人に「待って」と引き留められるが、一刻も早くこの場から、彼から離れたかった。
「い、今まで、ありがとう、最後がこんなでごめん……殴ったとこ、ちゃんと冷やしてね」
きびすを返し、一目散に駆け出す。
最初に悪戯を仕掛けたあの夜から、こうなることは決まっていたのかもしれない。もしも、ときが巻き戻るのなら、文哉は――性懲りもなく、同じ悪戯を仕掛けるだろう。
だって、幸せだった。失うとしても、求めてしまうほどに。
一晩中、後悔と懺悔に苛まれていた文哉はよく眠れず、いつもより三十分早くオフィスが入ったビルへ到着してしまった。他の階の会社員もまだ出社時間ではないようで、エントランスには人気がない。
エレベーターへ向かう間も、寝不足の頭の中をめぐるのは敦人のことばかりだ。
もっと上手に真実を告げられなかっただろうか。気のいい男を、あんなふうに怒らせたのは文哉だ。それなのに最後は殴りつけ、痛がる敦人を置き去りにしてしまった。
自分自身でもフォローできないほど見事なろくでなしっぷりだ。敦人を可愛がっている槙にだって合わせる顔がない。世間は狭いというが、その格言をこれほど実感したのは初めてだった。
「……ん?」
はた、と何かが引っかかった。
敦人が以前話してくれた「従兄弟の兄」は、槙のことだろう。お互いに一人っ子だと言っていたから確かなはずだ。その槙は、敦人に店を手伝ってもらっていると言っていた。
「学生のとき……バーでバイト……」
酔っぱらった敦人を部屋に泊めた夜の発言を、よく覚えている。バーでバイトをすれば酒に強くなれると信じているような口ぶりが、おかしかったから。
だったら在学中も、槙の店で働いていたと考えるのが自然じゃないだろうか。時期は早めに見積もっても過去四年の内だ。そして文哉が槙の店に通い始めたのは、今の会社に入った約五年前だった。
つまり――互いを認知する前に、文哉と敦人はあのバーで同じ時間を過ごしていた可能性が高い。あくまで予測だが、敦人は以前から文哉を知っていたんじゃないだろうか。そう考えると、同性同士であるのに臆せず交際を迫ってきたことや、入社当初から妙に懐いてきたことが説明しやすくなる。
「い、いやでも、ノンケだって槙さんが……」
「高城さん」
「ッ!?」
どっぷりと考察していたところに、声をかけられて肩が跳ねる。
振り返ると、背後には暗い顔をした敦人がいて、エレベーターを指差していた。
「乗らないんですか」
「あ、うん、乗るよ。ありがとう……」
ボタンを押して、口を開いたエレベーターの扉を敦人が押さえる。気まずいが、ここで階段を選べば心証は最悪だ。密室に二人きりだが、仕方なく乗りこむ。
「ぁ、えーと、今日は早いんだね」
「あんま……寝れなくて」
「そう……」
操作盤の前にいる敦人をチラチラを見ていると、男がぎこちなく振り向いた。明らかに泣き腫らした真っ赤な目を見てしまい、無視できない。
「泣いたの……?」
「いえ……あの」
薄く微笑むから、それが余計に痛々しい。
「昨日……怖い思いさせて、ごめんなさい。あんな酷いこと二度としません。怪我とか、なかったですか?」
「ないけど……君こそ脇腹、大丈夫?」
「大丈夫です。本当にすみません」
「謝るのは僕のほうだから……」
「あっ、あの、じゃあっ」
ポーン、と電子音が鳴り、エレベーターが目的の階へ到着する。扉が開くものの、文哉も、敦人も、降りようとはしなかった。
「今夜、時間をくれませんか」
「開」ボタンを押したままの敦人は、真剣だった。いつでも逃げていいですよ、と道を作られているのに、文哉は一歩も動けない。
そうすれば完全に、彼との仲は修復しないことを感じ取っていたからだ。
「……どうして?」
「話がしたいんです。もしも……二人きりが怖ければ、槙兄も一緒で、いいんで」
その条件は非常に不本意なのだろう。敦人は自分で言って傷ついた顔をしている。
「それか、俺の手足縛ってくれてもいいです」
「っ何言ってるの!?」
「文さんが安心できるなら、俺は何されても大丈夫です。お願いします……このままは、嫌です」
人のいる場所でもいい、なんならテレビ電話でも構わない――そう付け足して深々と頭を下げられ、たじろぐ。文哉がうなずくことを願ってすがる姿はあまりに健気だ。
断るなんてできるはずがない。
「うん……わかった。僕もこのままは嫌だ」
真面目な敦人が微笑ましい。
元より断る気もない文哉は、男の頭をそっと上げさせた。
「けど槙さんの同席も、縛ったりもしないよ。大丈夫、怖くないから」
「ありがとうございます……!」
「ほら、行こう。エレベーターは閉めないと」
気まずいながらに敦人を促し、よそよそしい距離を挟んでエレベーターを降りる。オフィスへ向かう間、会話は一切なかったが、昨夜別れたときよりは心が穏やかだった。
今夜はきっと落ち着いて、恋人としての敦人にさよならを言えるだろう。
一番そばにはいられないとしても、せめて笑顔で挨拶ができる距離にいられるなら、文哉の恋には上等な末路だと思えた。
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