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2の乱
ブブブ――と、なじみのあるバイブレーションが聞こえる。携帯のアラームだ。土曜日だというのに、解除し忘れていたらしい。
重いまぶたを開けると、クリーム色のカーテン越しに、昇ってきた太陽が部屋へ朝を知らせている。寝起きにはその爽やかさが明るすぎて、逃げるように壁へと寝返りを打った文哉は上げかけた悲鳴をのみこんだ。
壁際の狭いスペースで無理に正座している男は、真顔でじいっと文哉を見下ろしている。寝癖がついてボサボサになった髪は、まるでたてがみのようだ。
何故、敦人が部屋にいて、同じベッドに双方下着一枚でいるのか――全て思い出した文哉は冷や汗を流す。
「おはよう……」
「……おはようございます」
男の視線が、「これはなんでしょう?」と言いたげにベッド周辺をさ迷う。
丸めたティッシュはそこかしこへ散り、開封済みコンドームのパッケージが枕元に二袋。そして最後に彼が見たのはヘッドボードに置いたゴミ箱だ。その中には乳液を精液に見立てて詰め、口を縛った使用済み風コンドームが捨ててある。
しかしもちろん、彼との間に過ちはない。これらは全て文哉が思いつきで偽装した、なんちゃって朝チュンセットだった。
少し困らせてやるだけのつもりだったが、酒が入って判断力が鈍っていたとはいえ、何故こうもすぐバレる悪戯を仕掛けたのだろう。いくら敦人が酔っていたとしても、男とセックスして覚えていないはずがないし、疑われて当然だ。
ここから、どう弁解するか早急に考えなければいけない。しくじれば作り上げてきた王子の印象は壊れ、円滑な人間関係に影響が出る可能性もある。村八分はもうごめんだ。
なんとしても、この局面を白馬で颯爽と駆けるように切り抜けなければ――と、布団を口元まで引き上げたときだった。
「……高城さんっ!」
布団ごと手を握られ、ポカンと男を見上げる。
頬を紅潮させた敦人は、焦燥に駆られる文哉とは正反対に満面の笑みだった。
「俺と付き合いましょう!」
「……ん?」
脳の処理が追いつかない。ドラマを一話飛ばして視聴しているような感覚だ。
「ごめん、何言ってるの?」
「だって俺……高城さんを襲っちゃったから……」
まさか、この偽装工作を信じたのだろうか? それとも嘘だと見破った上で、何かを仕掛けてきているのだろうか?
後者だとしたら勝負を受けるのもやぶさかでないが、前者なら疑いを知らない彼の今後がわりと本気で心配だ。
敦人はふんす、ふんす、と鼻息荒く顔を近づけてくる。勢いが怖く、「近い」と、思わず肘で肩を突っぱねてしまった。
「あっ、痛いっ、落ち着いてください! 責任とらせてほしいだけなんです!」
「責任……って、覚えてない……?」
「すいません、俺ホント弱くて……」
信じがたいが、彼はビール一杯で一晩分の記憶を捨てている。しかもずさんな偽装を丸っと信じ、露ほども疑っていないときた。
「ええ……こんなことって、ある……?」
「幸せにしますから……!」
文哉は「そういう経験」が人より少ないものの、たった一晩過ごしただけで責任どうこうは真面目すぎだとわかる。嫁に行く当てもなければ、行く気もない男相手に。
今どきめずらしいほど誠実な男だ。悪戯を仕掛けておいて言える立場じゃないが、純粋な若者を弄ぶ気にはなれない。
文哉はそっと敦人の手を外し、距離を取りつつ起き上がった。
「あのね南条く、ッンん!?」
手をついた場所がベッドの端だったらしく、体重を支えるはずの腕がずるりと滑って身体が後ろへ傾いた。
このままでは後頭部から床にご挨拶するしかない。諦めの早い文哉はギュッと目をつむる――が。
「大丈夫ですか……!?」
たくましい腕が、傾いた文哉を難なく抱き留めた。
思わず「どこの世界の王子だよ」と内心ツッコむが、まぶたを開くと視界が肌色オンリーだから多分ここは十八禁の世界だ。
「う、うん……ありがとう、ごめんね……」
「大丈夫ですよ、彼氏ですもん、これくらい!」
いっそ全て放棄して、二度寝を決めこみたい。それでも己への鼓舞に鼓舞を重ね、身体を離した文哉は問題解決へ乗り出した。
「南条くん、申し訳ないけど、君と付き合う気はないよ」
「え? なんでですか?」
心底意味がわからなそうに聞かれ、「なんでがなんで?」とトンチンカンな問いを返したくなる。頭が痛かった。
「あのね、昨日のことは……」
「俺、下手でしたか……!?」
「は!? いや、そうじゃな」
「ごめんなさい。もう絶対怖いことしませんから! もし気持ちが治まらないなら一発殴ってくれていいんで……はい!」
「頬を差し出すのはやめようか!?」
真実を話す暇もない猛攻撃で目が回りそうだ。落ち着いて話を、と思うのに、キュンキュンと鳴きながら目を潤ませる子犬のような表情で顔をのぞきこまれる。
「高城さん、恋人いるんですか……?」
「ぇえ? いない……けど」
「よかったあ。じゃあ、遠慮なく幸せにできますね!」
「しなくていい! 責任とることなんて、何もないから!」
遮られる前に言い切って、男の肩を両手でつかむ。深呼吸すれば、少し気持ちが落ち着いた。
顔を近づけて視線を合わせる。慌てずゆっくり言い聞かせれば、この程度の誤解を解くのは容易い。
「いい? 僕たちは、昨夜、何も、なかったんだ」
万が一、酒の勢いで身体を重ねていたとしても、敦人とそういう関係になる気はない。
年下で、ノンケで、職場が同じ。こじれたときの面倒な要素が満載だ。好みの男は離れたところから眺めて酒のアテにするくらいがちょうどいい。
「何もない……ですか」
「僕が悪いんだ。昨日君が寝たあとに……」
「言わなくていいです!」
「ぅぶっ」
ヘタに隠して恋人になるより、洗いざらい暴露して全て酒のせいにしてしまうほうが現実的だ。正直者ポイントも稼げる。と思っているのに、抱きしめられて中断させられる。
勢いよく裸の胸に顔がぶつかると、男が感極まったように震えているのがわかった。
「いいんです、誤魔化さなくて。なかったことにしないでください……っ」
「ん、ちがっ、ん!?」
「もう高城さんの嫌がることはしません。男同士ですが……身近にゲイがいるので偏見もありませんし、高城さんなら大丈夫です!」
勘違いだ。意味がわからない。何度も言うが、こっちは何も大丈夫じゃない。
言いたいのに、厚い胸筋に阻まれて息をするだけで精一杯だ。ふがふが暴れると腕の力が緩まり、頬を両手で包まれた。
「高城さん! これからよろしくお願いしますね!」
「う……ッ」
満面の笑みを前に、拒絶の言葉を失う。キラキラとありもしないエフィクトがかかっているようなまぶしさだ。
この状況で首を横に振り続けられるほど、文哉は強くない。口の悪さと可愛げのなさで覆い隠した内側には、気弱な本質が存在したままなのだ。
完敗だった。
「うん……よろしくね……」
「はいっ!」
酒と、ちょっとした悪戯心がもたらした予期せぬ恋人は、文哉をぎゅうっと抱きしめた。
スポーツ用品の開発と販売を主に行う会社に勤める文哉は、翌週の月曜日、オフィスではなく喫煙ルームにいた。
デスクへ荷物を置いたところを、同フロアの端に位置するその部屋へと連れ出したのは敦人だ。
「えっと……連れタバ休かな?」
成人男性が五人も入れば満杯になる、手狭な部屋だ。息をするたびツンとした煙草臭が鼻をつく。
中央の集じん脱臭機から少しでも離れるべく、壁に肩を預けて身を縮めたときだった。
「高城さん……」
にゅうっと目の前を横切った男の手が、道を塞ぐように壁を押さえる。反射的に頭を引くと、後頭部には腕の内側がぶつかった。
「え?」
壁に背を張りつかせ、ハッと気づく。これは、この体勢は、いわゆる……。
「壁ドン……?」
「はい、ビンゴです! 初めてやりました!」
「うん、僕も初めてされたよ……」
想像以上の圧迫感と顔の近さだ。目のやり場に困って男の肩を押すが、離れる気配はない。
文哉は敦人に早く身を引かせるため、用件を切り出させることにした。
「それで、どうかしたの?」
「あ、はい! 連絡先教えてください!」
「わかっ……え、それだけ?」
「そですよ?」
身構えた分、拍子抜けする。
言って満足したのか、ぶすくれた様子の男が数歩離れた。
「昨日デートに誘おうと思ったんですけど、高城さんの連絡先知らなくて……」
「デッ、……用があるなら社用にかけてきて大丈夫だよ。休日も手元に置いてあるから」
「嫌ですよ、彼氏に電話すんのに社用携帯って変じゃないですかあ」
「彼、ん、っげほ」
「大丈夫です?」
彼氏、デート、という明確な単語に慣れずむせた。
責任感ゆえの交際にデートオプションがつくなんて、サービス過多にもほどがある。原価計算はできているのだろうか。
「あのね、そのことなんだけど……」
文哉としては理想のイケメンと恋人気分が味わえてプレミアムエブリデイだが、敦人にうまみは一切ない。
土曜にどうにか敦人を帰宅させてから今朝までこの非常事態について考えた文哉は、真面目な彼の道徳観を尊重しつつ交際日数を稼ぎ、円満に破局するのがベストだと判断した。
「そこまで真面目に付き合わなくていいんだよ。休日を僕に使うなんてもったいないし。だから、」
「はーい携帯ちょっと借りまーす」
「っあ、ちょ、聞いてた!?」
敦人は文哉のポケットから、プライベート用の携帯を抜き取る。手際の良さに反応できないでいると、彼はスイスイとそれをいじった。するとすぐ、敦人のポケットからバイブ音が聞こえる。
「これ俺の番号なんで、登録しといてくださいね。あと、携帯にロックかけたほうがいいですよ? 危ないです!」
「え、うん……僕も今そう思った……」
返された携帯を手に、しみじみとつぶやく。続いてメッセージアプリから、「新しい友だちが追加されました」との通知も届いた。釈然としない上に敗北感がとてつもない。
完全にペースを乱されて落胆する文哉の頭には、ふわりと男の手が乗った。
「そろそろ戻らないとですね」
「どうして撫でてるのかな?」
「彼氏ですからっ」
「そう……」
朝から振り回され、始業もまだなのにすっかり疲れてしまった。撫でられて嬉しいのに素直に喜べない複雑な気分だ。
扉へ向かう男を追い、ため息に少々悪態を混ぜる。
「連絡先くらい、オフィスで聞いてくれてよかったんだよ?」
「んもう、わかってないですねえ」
「何、……っ」
敦人が急に振り返ったせいで、逞しい胸に正面衝突してしまう。支えるように背中を抱かれると、鼻先同士がチョンと触れた。
「二人っきりになりたかったんです」
近すぎて、黒い瞳がぼやけて見える。無意識に息を止めると、男は今にも触れそうな唇を微笑ませた。
「そうだ。これからは文さんって呼びますね。俺のことも名前で呼んでください」
「ぁ……ぅ、でも」
「二人のときだけ。……ね?」
耳元に囁きかけられて、湿った吐息が耳朶をくすぐる。ゾクリと背筋に何かが駆け下り、文哉は肩をすくませた。
「南条くん、耳……っ」
「ほらほら。あ、つ、と」
言えたら離してあげる、とでも言うように、背中を抱く手に力がこもる。
重機でコンクリートに穴を開けているような激しい音が、左胸から全身へ響いていた。早く離れないと、開いてはいけない穴が貫通してしまう。
「あ、ああ敦……敦人! これでいい!?」
「はい文さん!」
名前はなじみがなさすぎて猛烈に気恥ずかしい。だというのに、男は声を弾ませて照れも戸惑いもなさそうだ。
「ふふー、名前呼びに慣れすぎて、オフィスで言っちゃったらどうしましょうね~」
「絶対に駄目だよ、大変なことになるから」
「ですよね! みんなの文さんを俺が独り占め……うわあ、袋叩きにされそうです!」
そこじゃない、とツッコむ気力もなく、文哉はこめかみを押さえた。
「あのね南……敦人。男同士だから、あんまり人に言わないように」
ハグをやめた敦人は不思議そうに首を傾げている。キョトンとした表情が可愛いから、是非やめてほしいところだ。
「文さんがバレたくないなら気をつけます」
ツンと悪戯に鼻先を突いた指先が離れていく。それを目で追えば、屈託ない笑みに視線が囚われた。
「けど俺は腹くくってますから。何があっても平気ですよ。いっぱいデートしましょうね!」
器が大きいのか、単に能天気なのか、どちらだろう。どちらにせよ、この真正直な男が満足するまで、文哉は先輩兼、彼氏だ。
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