3の乱

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3の乱

 見事な秋晴れに恵まれた、土曜日の午前十一時。  敦人の熱意、もとい押しの強さに抗えなかった文哉は、水族館デートとやらの真っ最中だった。  気づけば屋上階にあるタッチプールで、浅い水槽へ手を突っこんでいるのだから人生とは真に何が起こるかわからない。 「あああ……っああ、うわあ……っ」  ぐにゃんと手の上に乗ったナマコの感触が、想像とは違ったせいでおかしな声が出る。子どもたちに混ざって遊ぶアラサー男の隣では、敦人が腹を抱えて笑っていた。 「いひっははっ、あっはは……!」 「笑いごとじゃないって、触ってごらんよ、すごいから」 「下ろせばいいのに、文さん手離さないんですもん……!」 「ちょっと癖になってきてるんだよね」  こんなふうにはしゃぐ自分を、今朝目覚めたときは露ほども想像できなかった。  敦人には言っていないが、実はこれが人生初のデートだ。だが緊張していたのは到着するまでで、今やすっかり水族館を満喫している。それもこれも、無邪気な男が楽しむことに全力だからだ。彼とは、ただ通路を歩いているだけでも不思議と楽しい。  ナマコに満足した文哉はそれを水底へ戻し、泳いできた小型のサメの背中を撫でた。 「こういうの、何年ぶりかな……」 「水族館は久しぶりでした?」 「子どものとき以来かもしれないなあ」  微動だにしないヒトデを軽くつつき、水の中から手を出す。「からあげ、煮つけ」と唱えながらエイのヒレを追いかけていた敦人も、時計を見て同じように水から手を上げた。 「兄弟がいると、こういうところも楽しいでしょうね」 「うーん、楽しいけど……二番目の兄に泣かされていた記憶ばかりだよ。お化け屋敷に一人で放りこまれたり……サメの口元に手を持っていかれたりね」 「今は仲良しですか?」 「仲が悪いわけじゃないけど、あまり僕に興味はないね。男兄弟なんて、そんなものだよ」  できれば最初から興味を失っていてほしかったが、打たれ強くなれたことに関しては感謝している。泣かされるたびに長兄が付きっきりで抱きしめてくれたのも、末っ子の役得だったかもしれない。 「そういう敦人は? 君はにぎやかな子だから、一人だとさみしがりそうだ」 「あー、それは……」  話しながら水場へ向かい、並んで手を洗う。  先に終わって手を拭いていると、困り顔の敦人が濡れた手をお化けのように垂らした。 「ハンカチ忘れましたあ……」 「どうぞ、僕が使っちゃったハンカチでよければ」 「ありがとうございます……! さっきの話……俺と、従兄弟の兄ちゃんが一人っ子同士仲良くて、一緒に出掛けることが多かったんで、退屈じゃなかったですね」 「へえ、従兄弟のお兄さ、あっ」 「おわッ……!」  文哉にハンカチを返すため敦人が腕を動かしたとき、小脇に挟んでいたパンフレットが地面へ落ちた。彼はすぐにそれを拾うが、今度はメモが一枚、ヒラリと文哉の足元へ舞う。 「何か落ち……た、え?」  紙を拾った文哉は内容をさっと読み、メモを二度見した。だがすぐに指の間から奪われてしまう。  水族館のイベント情報や付近の飲食店、お勧めのコース料理や景色の見え方などが書かれたそれを、敦人はポケットへねじこんだ。 「あー、これは……その」  うようよと泳ぐ瞳が、やがて文哉へ戻ってくる。心なしか目尻が赤く、なんとか取り繕おうとする姿は本気で照れていた。 「……見えました?」 「まあ。今日のために調べてくれたの?」 「そりゃ……喜んでほしかったんですもん」  赤みが広がった頬を膨らませて顔を逸らすから、柔らかな吐息が文哉の唇を飛び出した。好物を頬張り、無意識に「うまい!」と言うように、口が勝手に本音を紡ぐ。 「僕はとっても楽しいよ」 「え……ホントですか?」 「本当だよ」  パンフレットを見ているにしても、妙に館内や、ショーの時間に詳しいと思っていたが、予習の成果だったらしい。今日まで、あれこれ検索して書きしたためる彼を想像すると、どうしようもなく可愛かった。 「敦人は楽しい?」 「あ、え、めっちゃ楽しいです! また誘っていいですか!?」  まだ今日すら終わっていないのに、気の早い男だ。頬を紅潮させて喜ぶ姿は素直がすぎて、今度は頭が勝手に首肯を返す。 「どうぞ、僕でよければ」 「文さんがいいです。ふふーっ、嬉しい」  よくもまあ、そこまで嬉しそうに破顔できるものだ。感心するほどニヨニヨと容姿を崩す敦人は、今にもスキップを始めそうな様子で「次のとこ行きましょ!」と、文哉を連れて屋上階を後にした。  思いがけず遊び倒し、夕方ごろに水族館を出る。裏手にある海水浴場は暖色のグラデーションに染まっていて、ポストカードの写真に使えそうな景色が広がっていた。海の向こうへ光源が沈みゆき、水面が黒い影を波立たせている。 「タイミングがいいね……」 「何がですか?」  最寄りのバス停へ続く通りの途中は歩行者が多く、海を眺めたくとも立ち止まれない。  文哉は敦人を手招いて海水浴場が見渡せる位置まで南に下る。薄暗さを増した夕陽で視界が満ちた。 「太陽の下弦が地平線に重なってから沈みきるまで、大体二分ほどなんだって」 「へえ……え、超貴重じゃないですか……!」 「そう。意識したことはなかったけど、二十四時間の内たった二分しか見れない景色だと思うと、得した気分になれる」 「……わかります。すっごく」  妙に力のこもった同意が聞こえ、左手が彼の右手とつなぎ合わされる。絡んだ指先が、逃げないで、と懇願しているかのようだった。 「それがどれだけ大切な時間かわかるから、もっと見たいって思うんです。あわよくば、自分だけの二分間だったらいいのになって」  特定の何かを思っているのだろうが、なんの話かはわからない。夕陽をじっと見つめている横顔を盗み見た文哉は、バス停へ続く通りへ視線を投げた。  まだ人通りも多く、空は赤い。通りと海辺と隔てる木々が植えられているとはいえ、男二人が寄り添って手をつないでいる、と気づく人はいるだろう。 「敦人……離そう?」 「嫌ですか?」 「嫌っていうか……人に見られるよ。ゲイだって思われるかもしれない」  文哉に関してはその認識で間違いないが、敦人は違う。異性愛者がそれをレッテル扱いすることもあると、身に染みて知っている。  しかし男は、振り解こうとした手をより強く握ってしまった。 「俺はなんて思われてもいいです」 「君ね……」 「恥ずかしいですか?」  波や車の音、また来ようねと帰路も楽しむ人の声に、かき消されてしまいそうに静かな問いかけだった。  彼の表情には、さみしげな夜が満ちている。 「俺と手をつなぐの、恥ずかしいですか?」  どっと胸に罪悪感が迫る。  何気ない一言で、行動で、誰かを傷つけることもあるのだと、わかっていたはずなのに。 「違う……恥ずかしくないよ。そういう意味じゃない。僕は、いいんだ。ただ……君が嫌な思いを、するんじゃないかって」  丁度二年前の夏の経験を、今でも苦い気持ちごと覚えている。  なじみのゲイバーで知り合ったノンケの男と、人生初の交際が始まった日のことだ。間違って入店したのだと言いつつも文哉の顔が好みだと口説かれ、酒の勢いもあってうっかりのぼせてしまった、惨めな記憶。  セックスに誘われたものの、相手が文哉の身体を見てからは散々だった。数分前まで文哉の口を使って勃起していた性器が萎えた瞬間の惨めさは、思い出したくもない。  挙句、自尊心を守るために「男同士で付き合うなんて恥ずかしい」と捨て台詞を吐かれれば、いくら文哉が打たれ強く育ったとしてもトラウマにくらいなる。もちろん次兄仕込みの嫌味を十倍にして言い返したが。 「だから、無理しなくても……」 「文さん」  敦人は一層身体を寄せ、こつんと頭同士を触れさせる。甘い触れ方、甘い声、それから嗅ぎ慣れない、男のかすかな甘い体臭。  文哉の心臓が壊れそうな音を立てていることを、敦人は知らない。 「今日はちょっと、弱気な文さんですね」 「い、や……僕は、ただ」 「嬉しいです。会社では見れない文さんを俺が独り占めできて」  つないだ手が動き、祈るように指が組まれる。付け根から伝わる脈動が同じくらい早くて、ああ、彼も緊張しているのか、なんて。 「俺は恋人と手をつなぎたい。もし誰かが何か言っても……俺は俺で、そいつはそいつですから、俺の耳には入んないんですよ」  どうしても気になるなら離しますけど、と揺らされた手には、なんの罪もない気がしてくる。 「君は……変な子だね」 「そですか?」 「そうだよ。それに……かっこいいね」  思っていた以上に、芯の通った男だ。可愛い上に格好いいところまで見せられては、胸キュン耐性ゼロの文哉はコロっと落ちてしまいそうで恐ろしい。  それに彼の曇りない笑みは、ある男を思い出させる。元彼とバトルを繰り広げた夜、バーで浴びるように酒を飲む文哉に付き合ってくれたバイト店員だ。  白っぽい金髪も、薄く短い眉も厳ついヤンキーなのに、とびきり優しかったことを覚えている。「俺にしときませんか」と、頭を撫でてくれたことや、「黒髪眼鏡になったら考えてやるよ」と、冗談を返して笑えたことも。  敦人には、あの青年のような温かみと安心感がある。戸惑いが薄れゆくと、手を離す理由も一緒にかすんでいった。 「……つないだままで、いいかのも」 「ふふ、でしょ。もう会うことがないかもしれない人の目より、俺は文さんのこと考えてたいです」  そんな言い方をされると、本当に愛されているような錯覚に陥る。  文哉はタラシこまれそうな自分を律しつつも、敦人の手をちゃんと握り返した。 「よくできました」  男が笑う。目尻にしわを寄せるクシャリとした笑顔は、無防備な胸をキュンとさせた。  それから敦人は週末ごとに文哉をデートへ誘い、付き合い始めてから二カ月と少しが経った。その間に、二人で会社帰りに食事へ行くことも増えた。特に金曜は翌日が休みなため、遅い時間まで過ごすことも多い。  今日も敦人と居酒屋で酒を飲んだ文哉は、沿線沿いの夜道をほろ酔い気分で歩いていた。 「ごめんね、僕だけいつも飲んでて」 「いえいえ、俺は別に酒飲みたいとか、そういうのないんで気にしないでください」 「お酒嫌い?」 「そうじゃないですけど……カッコ悪いとこ見せたくないですもん」  悔しそうに言う横顔がおかしくて、うらうらと指で頬を突いてやる。すると男は自然な動きで文哉の手を握った。 「悪い手は捕まえちゃいますね」 「人に見られるよ」 「前に言いました。どうしても気になるなら離しますって」  すぐに解けそうな力加減で手を揺らす敦人は、文哉に選択を委ねている。その小賢しさが可愛く、叱る気にはならなかった。 「僕も言った気がするよ。僕はいいんだって」 「なら問題ないですね」 「そうだね」  酔っているせいか、手をつないでいるせいか、妙に火照る頬に夜風が気持ちいい。 「ねえ、明日はどうする? どこか行きたいところはある?」  いつも誘ってくれる敦人へ、文哉は上機嫌に切り出してみた。すると男は急に立ち止まり、つないだ手を引く。 「じゃあ……あの、いいですか?」 「うん?」  にじり寄ってくる眠気が欠伸をさせるが、どうにか噛み殺す。涙がにじむと、外灯や、すぐそばの建物を照らす赤紫色のライトが無駄にきらめいた。  そこで――はた、と酔いが若干引いていく。照れくさそうに頬をかく敦人と背景との組み合わせが、あまりに意味深だったからだ。 「明日休みですし……泊まりません?」  三階建てのそこを親指で示す敦人は、冗談を言っているようには見えない。妖しい色の照明で外壁を照らされたその建物は、何を隠そう、ラブホテルだった。  頭が真っ白になるのも仕方ない。文哉は、そこに入ったことが一度もないのだから。 「え、ええと、うーん……」 「駄目ですか……? 俺……彼氏として、そういう意味でも文さんを満足させたいです」 「いや、でも」 「一緒に飯食って遊びに出かけるだけなら、友だちでもできますし……恋人ならではの時間だって、あるべきだと思うんです。だから、文さんが俺のこと、嫌じゃなければ」  ふいに脳裏を過ぎったのは、抱いた責任をとるために交際を迫ってきた敦人の姿だ。  すっかり彼と過ごすのが楽しくて、忘れかけていた。恐らくセックスもデート同様、献身的なオプションサービスなのだろう。期間限定発売のチョコレートのように、季節が変われば自然と消え失せるものだ。 「……なあんだ」 「え?」  聞き返されて慌てて首を振るが、自分の内側に存在している名残惜しさに直面し、文哉は驚いていた。そうして、胸中を過ぎった打算的な思考に笑ってしまう。 「ふふ……、うん、うん、そうだよね」 「文さん?」 「確かに、付き合ってるなら、ホテルくらい行ってもおかしくないか」  いつまでも、敦人の恋人ではいられない。しかし――本当に既成事実を作ってしまえば、もうしばらくの間は彼氏面をしていても許されるのではないだろうか。  この心地よく楽しい時間を手離すのは、酷く惜しい。一秒でも、一分でも延長できるなら、特別大事にしているわけでもない処女を捨てたところで支障はなかった。 「うん、わかった。じゃあ……入ろう」 「は、はい!」 ホッと顔を綻ばせる男の手を握り直し、文哉は自らホテルの中へと歩き出した。
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