4の乱

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4の乱

 少ない空室の中から適当に選んだ部屋へ入ると、天蓋もなければ、壁に拘束用器具もないし、風呂の壁も透けていなかった。AVで見るような部屋とは違い、一見ビジネスホテルとそう変わらなくて安心する。  しかしさすがに、全く緊張しないとは言えない。外にいるときは平然と彼の手を引けたのに、打った足の痛みが遅れてやってくるように、文哉は今さら怖気づいていた。 「あー、……と。本当に、するんだよね?」  スーツを脱ぐ男へ、往生際悪く問いかける。この期に及んで撤回する気はないが、何か話していないと落ち着かない。  そんな心境を知らない敦人は、文哉の手を大事そうに両手で包む。 「手、冷たいです。俺のこと怖い?」 「そうじゃないよ。君は怖くない。ただ……ええと、僕は男だし、大丈夫かなあ、とね」 「ふふ、何言ってるんですか、可愛いですね。俺たち一回シてますよ?」 「あ、あー、そうなんだけど……」  まごつく文哉が恥ずかしがっていると思ったのか、敦人はぐずる子どもをあやすように、背を抱き寄せてトントンと叩く。  温かい。さっきの店でついたのだろう、炭火の匂いがしておいしそうだ。 「大丈夫、リラックスしてくださいね」  男の肩越しに、キングサイズのベッドが見える。枕元のコンドームがいかにも「さあ、セックスなさって!」と言っているようで居た堪れない。緊張に羞恥が混じると心細くて、敦人の背広をつかむと後頭部を撫でられた。 「文さん、キスしましょっか。嫌だったら突き飛ばしていいんで」 「え、っう、ん」  首の裏を支えられ、唇が重なる。  突き飛ばせる程度の好意しかないなら、死んでもラブホなんて入らないというのに、キスは遠慮がちだった。押しつけられる感触を大人しく受け止めていると、敦人は安心したように少し顔を離して表情を確認する。 「気持ち悪くないですか? もっと……してもいい?」 「僕は大丈夫……ッん」  ついばむように触れたり離れたりを繰り返し、やがて唇を舌でノックされる。怖々と開けば熱くぬめった舌が口内へ忍ばされ、ゾクゾクと下半身によからぬ感覚が走り抜けた。 「ん、んぅっ……待って」 「ん?」  顔を背けるとキスは解けたが、男は離れる気配なく頬やこめかみ、耳元へリップ音を立てながら口づけてくる。ふっくらとした唇の感触がくっついたり離れたりするのが驚くほど気持ちよく、下着の中で自身が膨らんでいくのがわかった。  まだ何もしていないのに、キスだけで勃起するのはおかしい気がする。現に、敦人のスラックスは盛り上がっていない。 「待って敦人、変なんだ」 「何も変じゃないです。文さんは気持ちいいことだけ考えてて……俺、ちゃんとできるように、勉強してましたから」  文哉を思いやるその言葉が耳から身体の中へ侵入してくると、責任感、という三文字に変換された。  たった一度犯した間違いのために、ここまで尽くさせる必要はあるだろうか。いや――ないはずだ。  何故なら、全て、嘘なのだから。 「ごめん、敦人」  男の身体を押し返し、うつむいたまま目を閉じる。「既成事実を作ってしまえ」というエゴまみれの下心が、膨らみゆく同情心に気圧され始めていた。 「文さん……?」  みるみる内に成長しきった罪悪感を目の当たりにしたら、もう目は逸らせない。真面目で心優しいだけなのに、男の身体に触れて抱かなければいけない敦人が哀れだった。  それでも己の欲を捨てきれないのだから、文哉は人でなしなのだろう。 「シャワー……浴びてきて、いいかな」  これまで、うまく取り繕って生きてきたのだから、今夜だってうまくやれるはずだ。  そう信じ、黙りこんだ文哉の反応を従順に待っていた男を見上げた。 「男同士だから、準備しなきゃいけないし」 「え、大丈夫ですよ、俺がしますっ」 「遠慮しておくよ。いい子で待ってて」 「待っ、文さん」 「覗いたら怒るからね?」  作り慣れた微笑みを浮かべ、押し切られる前に身を翻してバスルームへこもる。壁が透けていなくて本当によかった。 「うっし……一丁やるか」  勢いよくシャワーを出し、設置されているローションボトルを手に喉を鳴らす。快楽は得られなかったが、アナルを使った自慰なら何度か挑戦したことがあった。  少々時間はかかったものの、文哉はどうにか準備を終えて部屋へ戻る。 「待たせてごめんね」  ベッドに腰かけてテレビを見ていた敦人がこちらを向いた。 「いえ! ……あれ? 脱衣所にバスローブなかったです?」 「あったけど、なんとなく気恥ずかしくて」  あんな、いつはだけるかわからないものを羽織るわけにはいかない。さすがにスラックスは脱いだが、下着もワイシャツもしっかり着こんできた。これで顔と脚以外、男の身体をさらさずにすむだろう。 「そうでしたか。ところで準備、手伝わなくて大丈夫でした……?」 「もちろん」  経験値のほぼない文哉は、さっきのようにキス一つでペースを崩される前にと先手必勝を仕掛けた。 「敦人」  前触れなく押し倒すと、リモコンを片手に握ったままの男が目を丸くする。 「文さん?」 「僕から触ってもいいかな」 「いい、ですけど……先に俺もシャワーを」 「このままでいい。じっとしててほしいんだ。あんまり……触られたり、好き勝手されるのは、得意じゃなくて」  ニコニコ笑顔の似合う敦人の顔が、心配そうに歪む。 「どうしてですか?」 「昔、ちょっとね……駄目?」  こう言えば、優しい敦人は無理に押し倒してきたりしない。  思惑通り、リモコンを手離した敦人は降参するように両手を頭のそばへ投げ出した。 「了解です。けど、俺に触るの平気です?」 「大丈夫だよ」  こちとらガチゲイだからな、と言うわけにもいかないので、敦人の脚の間でベルトとボタンを外す。下着ごとスラックスをずらせば、物静かな性器があらわになった。  思わず大きさに驚くが、ぐっと堪えて手を添える。柔らかい感触はなじみ深いものの、手に乗せると質量に腰が引けそうになった。  意を決して口を近づけると、慌てて敦人が身体を起こす。 「あの、もしフェラしてくれようとしてるなら、手だけでいいですからね……!」 「平気だよ。たまには先輩らしくリードさせて」 「あ、ちょ、っ、ん」  フェラチオの経験ならある。厳密にはイラマチオ一回だが、未経験でないことは確かだ。  舌先でチロチロと舐めていれば芯が通り始め、敦人は若々しい角度で太さ、長さを増していく。幹を先端から根本へ向かって濡らし、浮いた血管をなぞった。 「ん……すご、文さんの舌、熱い……」  かすかなため息が聞こえる。これが気持ちいいようだ。文哉はホッとして、思い切って口の中へと先端を含んだ。 「ふぅ、んぐっ」 「ちょ、いきなり無理でしょ……! 出して、ペッて……おえってなるからっ」 「んん、んや」  思った以上に口を開かなければ含めないというのに、男の性器はまだ膨張する。みっちりと口の中を満たされると息苦しいが、文哉はどうにか頭を前後させ、なめらかな感触の先端に舌を往復させた。 「っ……ん、文さん」  じんわりとにじんだ先走りが、感じていることを教えてくれる。青い雄の香りごとそれを飲み下し、喉を圧されてえずくのを堪えた。  根本から口淫している部分までの間は、手で扱く。垂れた唾液が男を伝い、だんだんといかがわしい音が響き始めた。  そろそろ射精するだろうか、と上目遣いに見れば、敦人は両手で枕をしっかりと握りしめている。眉を寄せた表情はつらそうで、めくれたシャツからのぞく腹筋もビクビクと波打ち、耐えているのが見てとれた。 「ん、……はぁ、敦人、つらい?」 「や……そ、ですね。口ん中突いちゃいそうで、ちょっと、ヤバくて」  つまり、物足りないということだろうか。 「わかった……」 「……? 文さん?」  文哉は濡れた唇を拭い、そそり立つ肉棒にスキンをかぶせる。それから敦人の分厚い腰をまたぎ、尻側の下着を脚の付け根までずり下げた。 「動かないでね」 「待って文さん、何して……ッ」  言いつけ通り、敦人は手をさ迷わせるものの文哉を制止しない。  従順な姿に可愛げを感じた文哉は、腰を上げて後孔に敦人の先端をあてがった。 「さっき、ちゃんと、慣らしてきたから……っ入ると思、う」  中に仕込んだローションと、スキンのぬめりを借りて腰を下ろす。ヌゥッと襞が目一杯広がると鈍痛に襲われるが、どうにか大きな傘の下までくわえこむことができた。 「う、ぅ……ッ」 「す、ストップ、ストップ! 駄目だってっ、挿れなくっていいですから……!」  止めなければと動く手がオロオロしている。  敦人に余計なことを考えさせたくなくて、文哉は強がって笑ってみせた。 「大丈夫だよ、も、ちょっと奥……ん、ふっ」  一番太い部分が入ったのだから、後は容易い。そう思っていたが、太さにも長さにも苦しめられる。  何度かプラグを挿入してみたことはあるが、これほどの圧迫感でもなければ、痛みもなかった。こめかみに汗が流れる。 「敦人、は、平気……?」  拳が白くなるほど、枕を握りしめている男へ声をかける。敦人は奥歯をきしませながら息を詰めた。 「せ、まい、です」 「なら、よかった」 「よくない……文さん、痛いでしょ、お互い出すだけに、しません?」 「平気……いつも、いろんなとこ、連れてってくれるから、僕も何かしたかったんだ」  固い腹に手を置いて、腰を上下させながら少しでも奥まで飲みこもうと躍起になる。だが、さすがに全ては無理だった。 「でも……ここが、限界かな。もう、おっきく、て……ッン、あ、なんで」  狭い肉筒を押し拡げるように、敦人の性器がまた膨らむ。全体の三分の二ほどしか挿入できてない上に大きくされては、呼吸が浅くなるほど苦しかった。 「……ッすいません、けど、やっぱ俺に任せてほし、な……っ?」  長い息を吐き出した男が、文哉の太ももに触れかけた手を握りしめる。 「これじゃ痛いだろうし、俺、文さんの服すら脱がしてないんです、だから……っ」 「駄目。いい子にしてるんだよ?」  手を伸ばし、敦人の頭を撫でる。艶のある黒髪に触れた指先が唯一、気持ちいい。  熱に浮かされた瞳には、上手に笑う文哉が映っていることを願った。 「僕に、君の気持ちいい顔を見せて」  こんなことで許されるとは、露ほども思っていない。罪滅ぼしというには、おこがましいこともわかっている。  だが幸福感をくれる敦人へ返せるものが、今は快楽くらいしかなかった。  夏と秋の曖昧な境目に交際が始まってから、季節は冬へと移ろった。すっかり木枯らしが吹きすさび、コートにマフラー、手袋などがないと外を歩けない。  駅へと続く通りの車道沿いには、イルミネーションのコードをこれでもかと巻かれた街路樹が並んでいる。見入ってしまい、歩みが遅くなっていたらしい。帰路を急ぐあまり、足さばきが早送りかのような人たちに、どんどん追い越されていく。 「高城!」  駆け足で隣にやってきたのは同僚だ。 「お疲れ。今日は一人か?」 「そうだよ。どうして?」 「前にも増して南条がべったりだろ。毎日一緒のイメージあるから、ついな」  言うほど毎日ではないはずだが、「前にも増してべったり」の部分に関しては同意する。  敦人は特別文哉に優しいし、懐いているのを隠さない。それが先々週セックスをしてから顕著であるのも、わかっていた。 「まあ、たまにはね。南条くんいなかったし」 「それだけどさ、なんかチーム内で不備があったみたいで、残業だってよ」 「そうだったんだ……」 「予定ないなら顔出してやれば? 南条、お前がいるだけで張り切って仕事しそうじゃん。高城さんにカッコいいとこ見せたいです! とかなんとか」  会社の人間にここまで言われるほどべったりで、果たして敦人はいいのだろうか。  同僚を見送った文哉は来た道を引き返す。文哉がいるだけで張り切れるだろう、と言われて嬉しくないはずがないし、顔くらい、いくらでも見せてやりたくなる。  途中コンビニに寄ってからオフィスへ戻ると、一部だけ電気がついていた。その下では敦人と、先輩社員一人だけがパソコンに向かっている。  まず文哉に気づいたのは、こちらにデスクが向いている社員だ。 「あれ? 高城じゃん」 「え!? あ、高城さん……!」  振り返った敦人が、嬉しそうに声を弾ませる。先ほど買ったコーヒーをそれぞれ手渡すと、先輩は缶を片手に煙草休憩へ向かった。  二人きりになった途端、敦人は無邪気に尻尾を振る。 「ビックリしましたっ。忘れ物ですか?」 「残業だって聞いたから。どうして二人しかいないの?」 「先輩方は別件です。俺たちしか残れる人間いなくって……」 「災難だったね」 「ふふ、ぜーんぜん。文さんが来てくれたんでラッキーです! ご褒美の先払いです!」  隣に立つ文哉の腹辺りへ、敦人がぼすんと顔を埋める。黒い頭を腕に抱いて撫でてやると、笑う息が不規則に腹を温めた。 「うはは、眼鏡刺さったあ」 「え、大丈夫?」 「大丈夫です。……文さんは? 身体、もうしんどくない?」  上目遣いの敦人が何を心配しているのか、悟った文哉は苦笑する。 「まだ言ってる。二週間も前だよ、したの」 「そうですけど、あんな無茶するから……」  甘えるように両手を伸ばした敦人が、「こっち来て」と屈むことをねだる。 従えば、頭を引き寄せられて唇同士が触れた。乾燥した唇をペロリと舐められると、くすぐったくて笑ってしまう。 「駄目だよ、会社だから」 「わかってます……」  名残惜しそうに離れていくから、文哉の中にももう少し触れていたい気持ちが込み上げる。可愛いなあ、可愛いなあ、そう囁いて、気が済むまでキスしてやりたい。  けれど駄目だと言った手前、諦めて手触りのいい髪を撫でるに留めた。 「文さん、俺の頭よく触ってます。もっと触ってほしいです」  いいよ、と言う代わりに、髪の中へ指を差し入れる。額から後頭部へと地肌を撫でてやれば敦人が恍惚と目を細めるから、いつまでもこうしていたくなった。 「ねえ、僕に手伝えることはある? 一人でも多いほうが早く終わると思うんだ」 「いいんですか……!? じゃあ入力と計算お願いします! 中に指示書は入ってるんで」 「了解」  渡された書類とUSBを手に、自分のデスクへきびすを返す。  しかし何かに引き留められて振り向くと、敦人の指先が遠慮がちにスーツの裾を握っていた。 「あと……終わったら、文さん家泊まりに行きたいです。……駄目です?」  いじらしいおねだりは、身体が震えそうなくらいに可愛い。  明日は土曜日。彼は恋人。不安げな上目遣い――断る理由は一つもなかった。 「もちろん、いいよ。早く終わらせよう」 「ふふ、はい! 大好き、文さん」  嬉しいはずのその一言で、文哉は人知れず息を詰める。それでも平然と敦人の頭を撫でてやり、デスクへ向かった。  参った、降参だ。そう言って両手を高々と上げたくなる。最近は気づけば敦人のことを考えているし、顔を見るだけで張り切れるのは文哉のほうだ。  だが敦人が憧れ、一心に慕うのは、好青年の仮面をかぶった嘘の文哉であって、打算的でひねくれた本当の文哉じゃない。  好意を向けられるたびにえぐれる胸中には今や、軽い気持ちで真面目な後輩を弄んでしまった後悔がよどんでいた。  文哉は明るい太陽へと真夏の花が伸びていくように、雪の中に灯る暖色で心が安らぐように、抗えない引力で敦人に惹きつけられている。  これを恋と呼ぶことを、もう自覚していた。
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