1の乱

1/1
846人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ

1の乱

 慌ただしくも充実した平日を乗りきり、ようやく迎えた金曜の十九時過ぎ。  たまには、と上司に誘われてしぶしぶ参加した飲み会の席で、高城文哉は人の頭が想像以上に重いことを実感していた。  文哉の肩に頭を乗せている後輩は大きな身体を丸め、さっきからいやに上機嫌な様子で笑っている。 「んへへ……高城さあん、楽しいです~」 「それはよかったね」  一杯目のビールを半分も減らしていないのに、南条敦人はすっかり出来上がっている。黒髪眼鏡の真面目な印象とは裏腹に、人懐っこく甘え上手な男が今は輪をかけてふわんふわんだ。  まさかここまで酒に弱く、絡み癖があるとは思いもよらない。飲み会が始まって十五分ほど経ったころに右腕をホールドされたときは、驚いて飛び上がりそうだったほどだ。  いつか触ってみたかった男の艶やかな黒髪が頬に触れている。ずれた黒縁眼鏡からのぞく上目遣いは、あざとくて非常に可愛い。アラサーゲイで童貞処女の文哉には、刺激が強すぎるシチュエーションだった。 「高城さんはあ、なんでそんな可愛いんです? 可愛いの星から来たんですか?」 「正真正銘、日本生まれの日本育ちだよ。そんなことより、お水もらおうか?」 「いい匂いします……匂いが可愛い……」  信じられないことに、この暴投かつ壁打ちな会話は三度目だ。  無遠慮に首元を嗅がれ、口から脱走しそうな心臓に定位置へ戻れと指示を出す。ユーカリの木になって、コアラをくっつけているのだと思いこんでやり過ごすしかない。  戦地で命がけの戦いを繰り広げているような心地で微笑みの鉄仮面を顔に貼りつけている文哉の向かいの席へ、手洗いから戻った同期が腰を下ろす。 「まあだ高城にくっついてんのか、南条」  男は汗をかいたグラスを掴み、ビールを飲み干してニヤついた。 「あっちの女子たちが拗ねてたぞ。イケメンとイチャつきたいのに、イケメン同士がイチャついてるって」 「そうだよね、南条くんはとっても格好いいから、お近づきになりたい子も多いだろうし……移動していいからね」  あわよくば女性に釣られて離れてくれないかと、平和を求めてすかさず口を挟む。  しかしムッとした敦人は納得いかなそうに顔を近づけてきた。あらぬところがぶつかりそうで右を向けない。頬に男の息がかかる。 「違いますよっ。みんながお近づきになりたいのは高城さんですからね。移動しませんよ、こんな無自覚な人、放っておけません!」 「あはは、ありがとうね。でも少し落ち着こうか、お酒がまわっちゃうから」 「落ち着いてます、超冷静ですよ、クールだってよく言われるんです!」  清々しくキッパリと嘘を吐いた敦人は、箸でつまみあげた漬物を文哉の口元へ運ぶ。  これも何度目かの行動で、拒絶が奥ゆかしい遠慮に変換されることをすでに学んだ文哉は黙って食べた。 「ありがとう」 「どういたしまして! 食べたいものは言ってくださいねっ。なんでも取りますからね。お腹空いちゃいますもんね!」  甲斐甲斐しい後輩の献身に聞こえるが、利き手の自由を奪っている自覚はないのだろうか。密着されて「あ~ん」までされ、ドキドキを通り越して苛立ちが募る。  何も言えず微笑むだけの文哉は、笑い転げている同僚へ「嫁に小遣いカットされちまえ」と八つ当たりの念を飛ばした。 「そんなに笑わなくていいと思うよ」 「ははっ、だってすげえぞ? 高城王子がやーっと飲み会来たのに、両隣キープしてんのが酔っぱらった後輩と壁なんだもんよ」  王子とは、定着している文哉の愛称だ。  サラサラの茶髪と童顔寄りの容貌に物腰の柔らかさが合わさり、女子社員を中心に入社当初からそう呼ばれている。  正直、薄ら寒いとは思っているが拒絶したことはない。何故なら王子のように振る舞うことも、微笑みの仮面をかぶることも、文哉が自ら選んだ処世術だからだ。 「面と向かってそう呼ばれるのは、ちょっと恥ずかしいんだけどな」  文哉が照れくさそうな顔を作って苦笑したとき、敦人が突然口を開く。 「あのですねえ」  彼は相変わらず文哉の腕を大事そうに抱き、彼氏に甘える彼女みたいな体勢で人差し指をピンと立てた。 「俺としては、高城さんは姫だと思うんです」  漫画のように「ぶふぅっ」と噴き出した同僚が、再び笑いの波にさらわれる。  文哉は人生初の姫扱いにキュンとした自分を誤魔化すため、手酌でビールをあおった。  だが、おかしな空気に敦人は気づかない。 「高城さんは確かに、パーフェクトオブプリンスです」 「南条くん、オブはいらないよ」 「でも俺は守ってあげたいなあと思うわけです。へへっ、わかりますよね?」 「ごめんね、僕の理解力が足りていないみたいだ」 「戸惑ってる高城さんも可愛いですね! ちょーっとだけ、撫でてみていいですか?」  両手を上げて「是非!」と言うわけにもいかず、泣く泣く「気持ちだけもらうね」と辞退する。  男は不満そうにしながらも、上げかけていた手を戻した。 「んふふー、照れてる高城さんが見れたから、よしとします」 「南条よお、可愛い可愛いって、王子に向かって失礼だぞ?」  何故か説教くさく割りこんだ同僚だが、面白がっているのは明白だ。それに気づかない素直な敦人は「可愛いは褒め言葉です!」と余計な対抗を始める。 「たまにですけど、欠伸をかみ殺してるのも可愛いし、自販機の前で何を買うか悩んで微動だにしないのも可愛いんです!」 「どこ見てんだ仕事しろ!」 「してますよう、三時の休憩みたいなもんですっ!」 「高城はオヤツか!?」 「むしろ主食ですねっ」  意味不明な応酬が繰り広げられる隣で、文哉は黙ってビールを飲み続ける。絶対に関わってはいけない二十四時だ。炭水化物扱いされたときに、ベストな切り返しなんて用意できていない。  抱かれた腕に、ぎゅうっと力がこめられる。さっきからほんの少し酸素が薄く感じるのは、熱を出した日みたいに脈拍が早いからだ。 「だって俺には、可愛く見えるんですもん。高城さんが一番、可愛いんですもん」  拗ねたような、いじけた声が、居酒屋の騒々しさに紛れる。しかしすぐそばでそれを聞いていた文哉は、ある種の限界を感じていた。  そうだ、もう駄目だ。黒髪眼鏡という好みど真ん中の男から放たれる「可愛い」は、どうしようもなく胸を高鳴らせる。  願わくばもっと言ってほしい。そして腕ではなく、身体を強く抱きしめてくれたら――などと、身のほど知らずな妄想をしたせいだろうか。  文哉は自宅へ連れこんだ敦人を自分のベッドへ寝かせるという、とんでもない状況に陥っていた。 「南条くん、起き上がれる……?」 「うんんー……ふんんー……んぬぅ」  敦人は奇妙な声で唸った挙句、とろんと眠そうな眼を閉じた。飲み会がお開きになるころには文哉の膝で寝入っていたのだから仕方ない。  酔い潰した責任をとるべきは、面白がって酒を飲ませた同僚だ。しかし家庭のある同僚に後輩を押しつけるなんて、王子様な高城文哉はしない。もちろん、ホテルに一人で敦人を放置なんて非道な行いもだ。  こうした優しさの積み重ねこそ、頼られ、慕われる王子につながっていくのだから。  などと言い訳がましい思考をめぐらせながら、男の火照った頬を撫でる。これくらいは役得で許されるべきだ。据え膳美味しくいただきたいのは山々だが、彼は食品サンプルでしかないとわかっている。 「このまま寝かせたほうがいいかな……」  水を飲ませたいが、無理ならせめてスーツだけでも脱がせなければ……と思っていると、眼鏡の奥にオニキスみたいに黒々とした瞳がのぞいた。  いつもヘラリと笑っているからわかりにくいが、こうして見ると敦人の容姿が整っていて華やかなことを実感する。  よくテレビで見かける男性アイドルグループの、中央辺りで歌っている子と並べても劣らないだろう。  まじまじ見つめていると、ぼんやりしていたオニキスが文哉へ焦点を合わせた。 「ホンット可愛いですね……」 「思ったより元気そうでよかったよ。お水持ってくるから起きててね」  ニヤけそうなのを堪え、水のボトルを取って部屋へ戻る。その間、彼は手広なワンルームを寝ぼけ眼で見回していた。 「高城さんの部屋って感じ……」 「ごめんね、あまり片づいてなくて」 「めーっちゃ綺麗ですよ……っていうか、すみません。押しかけちゃって……」  水を飲むと少し頭がスッキリしたのか、敦人は今に至る経緯を思い出したらしい。 「気にしないで。僕こそ、隣にいたのに止めなくてごめん」 「そんなそんな! 俺が勝手に飲みすぎちゃっただけですから!」  敦人が飲み切ったのは、グラス一杯のビールだけだ。「いつもは二杯までいけるんです」と、必死に弁解している。 「も、恥ずかしい……学生んとき、バーでバイトしてたのに全然強くなれなくて……」  ツッコミ待ちのボケかと思ったが、様子を見る限り本気で言っている。  可愛いの星から来たのは間違いなく敦人だ。 「そっか。でもそれは体質だし、飲まなくてもみんな怒ったりしないよ?」 「わかってるんですけど、高城さんが……」 「僕?」  各ハラスメントが取り沙汰されるご時世で、酒を強要するなんて社会的自殺行為をした覚えはない。  小首を傾げると、敦人が子どものように唇をとがらせた。 「滅多に来ないから……一緒に飲んだらもっと仲良くなれるかなあ、と思っちゃって。かっこ悪いとこ見せちゃいましたけど」  心配せずとも、敦人の全方位イケメンフィルターと可愛い効果はしっかり発揮されている。罪な男を前に、文哉はデレそうな顔を引き締めるのが精一杯だ。 「お酒なんてなくても、普段から仲良くできてると思うんだけどな」 「そうなんですけど、そうじゃなくって」  言葉を探すように自身の唇へ触れた敦人が、ポンと手を打つ。 「高城さん、俺を可愛がってください!」 「……うん?」 「俺、高城さんに一番構われたいです。できれば特別扱いしてほしいです!」  目を眇めたくなる快活さだ。  だが敦人は一体、文哉の何にここまで懐いているのだろう。  文哉は本来、気弱で泣き虫だ。だが、おとなしい少年はある人物によって素直さにバグを生じさせ、思春期にはすっかりひねくれていた。学校生活という監獄でルート選択をしくじり、村八分に遭うという悲惨な追い打ちもついている。  根が素直なせいで歯に衣着せぬ物言いをすると、顔面の高い完成度も相まって人一倍嫌味に思えるらしい。しかも文哉は素直じゃなく、弁明の一つもしないまま「いけ好かないヤツ」のレッテルを貼られてしまった。  その後、王子を演じるようになって孤独な環境は改善したが、ボロが出ることを恐れて人とは深く関わらないようにしている。誰にでも平等に接する文哉は人に好かれるほうだが、こうも熱心にファンがつくことはなかったのだ。 「……、ありがとう。それじゃあ今日はもう寝よう。シャワーは危ないから、朝にしようね」  正常な思考力を失っている酔っ払いは「はあい」と、右手を上げる。話題を流したことには気づいていなさそうだ。 「いい子。ちょっとごめんね」  首元できっちり絞められたネクタイに指をかけ、それを解いてやる。「しわになるからスーツも脱いで」と声をかけると、敦人は嬉しそうに従い、何故か下着一枚になった。 「高城さん手慣れてますねえ。お兄ちゃんですか?」 「いや、僕は末っ子なんだ。兄が二人いるよ」 「どんなお兄さんですか?」 「どんな、かあ……」  敦人の脱いだ服を回収し、ハンガーにかけていく。自身のスーツも吊るし終えると、鎧を脱いだように身体が軽かった。  転ぶ敦人に背を向け、ベッドへ腰かける。 「一番上の兄は、とても優しいよ。頭もよくて器用で、昔から尊敬してるんだ」 「なんだか高城さんみたいですね。二番目のお兄さんは?」 「悪魔かな。……内緒にしてね? いじめられてしまうから」  何を隠そう、文哉をひねくれさせたのは意地悪な次兄だ。彼に対抗するため、生意気な性格を作り上げたと言っても過言ではない。  そしてそんな次兄を一声でたしなめることができ、誰にでも好かれる長兄に憧れて、王子キャラは彼を模していた。 「もうずいぶん会ってないなあ……」 「ね、高城さん」  妙に声が近く、ハッとする。間髪入れず、抱きかかえるように腕が肩へまわされた。 「っぇ、南条く、ん!?」  慌てるも、敦人がベッドへ転がってしまう。抱きかかえられた文哉も当然横たわる羽目になり、たくましい腕の中で固まった。 「あ、の」 「いじめられて泣いちゃったの? 小さい高城さん」 「ふっ……」  耳の縁へ触れた唇が、こしょこしょと低いかすれ声で囁く。ほのかに香るアルコールの匂いで肌がざわついて火照り、心臓は遠足前夜の幼稚園児以上にはしゃいでいた。 「ッな、何……っ?」 「俺がいたら絶対守ってあげたのに。いろんな怖いものをやっつけて、甘やかして……」  甘ったるく微睡んだ声で言い、男は後頭部の辺りで熱いため息を吐く。 「俺の前でだけ肩の力抜いて、愚痴とか、なーんでも言ってくれたら、嬉しいのになあ……俺はどんな高城さんも、大……」  続きが聞こえなくて、腕の中で無理やり振り向く。  すると敦人は、目を伏せて眠りの旅へ出かけてしまっていた。 「寝んのかよ……」  すうすうと心地よさそうに文哉を抱き枕にする男の寝顔は、どことなくあどけない。こちらの心境なんてまるで知らず、能天気もいいところだ。  脱力した腕の下から這い出て、文哉はベッド横に立ち尽くす。  めくれた布団を肩までかけ、眼鏡を避難させてやると、「ふへ」と敦人が笑った。理解不能で、身勝手で――可愛すぎて腹が立つ。 「ったく……ノンケのくせに、ゲイに抱きつくんじゃねえよ。食うぞ馬鹿」  そんな度胸はないが、こっそり言うだけならタダだ。  彼が入社して約半年、いつも見ていたから、この好意に裏がないことは知っている。少々過激だが、憧れられることは純粋に嬉しい。  だから文哉は、己の自制心が暴走しないよう警戒せざるを得ない。懐かれて勘違いして、恋をするなんてごめんだ。  ただ、頭ではわかっているのに、抱きしめられることも慣れていないせいで左胸の奥の挙動がおかしかった。 「あーもう……バクバクうるせ……」  緊張と気恥ずかしさと、高鳴りとが混ざって――ぐわん、と思考がぶれる。  宴席で気を張っていたのもあって、いつも以上に杯を重ね、気が大きくなっていたのだろう。 「そういや……一番、構われたいんだっけ」  脳裏に、素面ならストップのかかる悪戯がよぎった。  いつもは王子の微笑みを象る形のいい唇が、にんまりと悪巧みの角度を作る。それが意地悪な次兄によく似ていることを、文哉本人は知るよしもない。 「いいよ、特別扱いしてやろうじゃん」  早速悪戯を仕掛け、下着一枚になってベッドへ潜りこむと、文哉は敦人の腕の中へ招き入れられた。 「んん~……」  向かい合わせに頭を抱えられると、頬に男の胸板が当たる。不思議と彼の肌は甘く香り、吸いこむと喉が渇くような興奮を覚えた。  だが裸で抱き合うことへの欲情は、好奇心や期待に負けている。 「……おやすみ、南条くん」  これは文哉の隠れた純情を弄んだ罰だ。  敦人の焦り顔を思い浮かべるだけで、今夜はいい夢が見れる気がした。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!