桃プリン

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 「ただいま」  小さく呟きながら、六畳一間のアパートに戻る。  今日は朝からずっと細かい霧にような雨が降り続いていて、傘を差していてもコートや靴がしっとりと濡れている。  窓と同じ高さの薄い棚の上で、丸くなって外を眺めていたマーゴが振り向いた。  部屋に持ち込まれた湿った雨の匂いに反応したのだろうか。珍しく、出迎えるように足に擦り寄ってくる。  「ご機嫌だね。マーゴ」  僕は彼女の黒くて滑らかな躰を抱き上げた。  喉を鳴らす延長のような、少し掠れた細く長い鳴き声でマーゴが応える。  マーゴはこんな穏やかな雨の日が、好きだ。  自分が濡れるのは嫌だから、けして外には出ないけれど。  こんな雨の日は、さっきのように外ばかり眺めている。外に出られなくて恨めしいのではない。この静かでしっとりとした空気を楽しんでいる。  猫の言葉はわからなくとも、僕にはそれが解る。  だって、彼女を取り巻く柔らかい桃色の「気」が、今日はまるでビロードのように滑らかに揺蕩っているから。  僕には、生き物の「気」が見える。  それが俗にいうオーラとかいうやつなのかどうかは知らない。ただ、生き物はみな「気」を纏っている。そして、あらゆる動物の中でいちばん「気」が強いのが人間で、いちばん無防備に、無遠慮に「気」をまき散らしているのも人間だ。自分たちには見えも感じもしないのだから、それは仕方のないことなのかもしれないけれど。  僕にとっては、人混みに身を置くことは拷問に等しい。  通勤電車にも乗れない。人の大勢集まるところには行けない。だから、もう二十歳を超えたけれど、学生でも、社会人でもなく、無職。  僕は、生きてゆくために必要なお金を稼ぐために、ときどき、競馬場へ行く。  重賞レースのない土曜日の午前中は人も少ないし、競馬場は広くて緑も多いから辛くない。  馬場で馬を見て、馬券を買う。正確には馬の「気」を見て。  百発百中とはいかないけれど、間近でみた馬の「気」の強さとか、雰囲気で、分かる。複勝やワイドならほぼ外すことは無かった。  今のところ、競馬の配当金で人ひとりと猫1匹、生きていけるだけの収入は得られていた。  今日も何週かに一度のお仕事(?)の日で、今日は小雨が降っているせいか、人も少なくて、植物たちの「気」も優しい。同じ生き物でも、植物の「気」は動物とは全然違う。動物の「気」は個体ごとに違うけど、植物は群として全体に混じり合い漂っていて、空気に近い。  人間は嫌がるみたいだけど、こんな暖かい湿り気のある日は植物たちが気持ち良さそうだから僕も嬉しい。  だから、少し気分が良かったから、少し勇気を出して、図書館に行くことに決めた――。  アパートから歩いて5分程のところにある、大学の図書館。  その裕福な私立大学の図書館は、広くて設備も整っているし試験前以外は人も少ない。開館時間も長くて、土日も開いている。公立の図書館よりもずっと人が少なくて広々としているから、人の少ない時間帯を選んで、時々ここへきていた。  図書館独特の静かな空気と、少し埃っぽいような本の匂いと、インクの匂い。何万冊という本が読み放題なのだ。いつまでいても飽きることはなかった。  僕はここの学生ではない。本当なら部外者は入ってはいけないのだろうが、特にチェックもしていないし、勝手に入って本を読んでいてもバレて追い出されることはなかった。  首から学生証を下げて歩かなきゃいけないわけじゃないから、同じくらいの年ごろの僕が混ざっていたって誰も疑わない。  だから――。  この大学の社会学部の3回生、舘野 陸(たての りく)。彼は、僕がここの学生だと思い込んでいた。  最初にきっかけを作ってしまったのは、僕だった。  読むのはたいてい、自然科学分野の本。いつものように四類の書架の辺りで背表紙を眺めていた僕は、そのとき通路を横切った人影に、思わず振り返っていた。ほんの一瞬目の端をかすめた「気」。  (マーゴと同じ、桃色――?)  姿までは見ていないけれど、すぐそばを横切った、柔らくて痛くない「気」。微風のように穏やかに流れる桃色。  人間の「気」は、それぞれ色も強さも透明度も質感も千差万別だが、一つだけ共通していることがある。それは、多かれ少なかれ僕を「侵す」ということ。  乗り物に酔うように、きつい異臭に気分が悪くなるように、強い気に当てられると、酔うのだ。ひどい時は、たくさんの虫が肌の上を這いまわるようなぞっとする感触さえ感じるときがある。  そこまで強くて不快な「気」を放つ人間は稀だけど、たくさんの人が集まる場所はそれだけで、息苦しい。  犬や猫のなどの動物は、身体の大きさに比例して放つ「気」も小さいし、薄い。そして野生に近ければ近いほど「気」もシンプルで棘が無くなっていく。  それなら、人間以外の動物の「気」なら全く平気なのかいうと、そうではなかった。  不快というほどではなくとも、気になる。街ですれ違う分にはなんともないが、同じスペースで一緒に長時間過ごすのは、落ち着かない。  動物がそばにいると、視界に入っていなくとも、そこにある「気」の存在感が気になってダメなのだ。  マーゴだけが、特別だった。  彼女の「気」は、確かにそこに存在してるのに、微塵も僕の肌を刺さない。周りの空気に溶け込んで、何の違和感も感じない。不思議な質感の、桃色。その日の機嫌や体調によって微妙に変化するけれど、基本的には熟れた白桃の白い部分と赤い部分が混ざり合ったような、ピーチスキンカラー。  そんな「気」は、彼女の他に今まで見たことがなかった。    無意識に身体が動いて、その「気」を追って通路に出ていた。  通り過ぎた方向に目をやると、赤や黄や、目に痛い「気」のなかで――高校生や大学生くらいの年頃の人間の「気」って、色からして攻撃的だ――1人、軽やかな「気」を纏った背の高い後ろ姿。  (男の子なのに、この「気」?)  なんだか意外で、僕はしばらくぼうっとその後ろ姿を見つめていた。  視線を感じたのか、その「気」がふわりと揺れて、彼が振り向いた。今風の、長めでフワフワした金に近い茶髪がなんだかタテガミっぽくて、目鼻立ちのくっきりした野性的な顔に似合ってる。ライオンとか、トラとか、そんなイメージ。  「気」と外見は、必ずしも一致しない。  いつもにこにこと笑顔を湛えた優しそうな人が、どす黒い、吐き気を催すような「気」を撒き散らしていたり、明るくて何の悩みも無さそうな人が、蒼く暗い海の底のような冷たい「気」を纏っていたりする。――そのギャップにどうしても馴染めなくて、僕はいまだに人間と向き合うのが怖い。  ぼんやりと、金色のタテガミを縁どる優しいピンク色の「気」を眺めていた僕を、彼は不思議そうに見つめていた。  ようやく我に返り、僕は慌てて書棚の影に隠れた。  きっと変に思われているに違いない。またやってしまった――。気を付けなくちゃ。ドキドキしている胸を押さえて思う。  僕はなるべく人間の「気」をみないように見ないように気を付けている。  だけど、「気」と外見のギャップがあまりにも大きかったり、気分が悪くなるほど強烈で不快な「気」を発している人がいると、怖いのに、いや、怖いから目が離せなくなる時がある。  そういう人に限って、優しげな笑顔で戸惑ったような笑みを浮かべ、「何か?」と訊いてきたりする。ぞっとするようなその「気」をざわめかせて。  彼の「気」は、そういう人間たちの「気」とは正反対だったけれど…。  俯いた視線を掠める、さっきの暖かい「気」――。  目を上げると、彼が通路側からひょいと顔を覗かせて、書棚に凭れかかっている僕を見ていた。あからさまに、びくりと肩を震わせた僕を見て、彼が少し笑った。  「大丈夫?」  僕は固まったまま、とりあえず顔だけ縦に動かした。ごめんなさい。僕が悪うございました。もう見たりしないから、放っておいて下さい。――心の中でそう唱えながら、その場を離れようと足に力を入れるけど、動かない。  「何か、俺に用があったんじゃないの?」  怒ったふうではなく、親しい友達に言うみたいに普通に話しかけられた。  口調はぶっきらぼうだし、顏は怖いけど、「気」は淡々と優しい。こんな心地いい「気」って、初めてだ――。  「何回生?」  黙ったままぼうっと彼を見上げている僕に、聞いてくる。  「陸~! 後輩にガンつけてんじゃねーよ!」  後ろの方で、ゲラゲラ笑いながら言う友達を振り返って、  「っせーよ。んなんじゃねーから、先行っててくれ」  図書館の中なのを慮ってか、一応小声で言いながら、最後の方はしっしと追い払うような仕草をして見せる。  どうしよう。すぐには立ち去ってくれなさそうな雰囲気。  悪意は感じないし、外見は怖いけど「気」は全然痛くない。きっとイイ人なんだろうけど――。  「あ、もしかして――、しゃべれない?」  そう云いながら、手話らしき仕草をした。この大学は福祉学科もあるし、バリアフリーを謳い文句にしてるから、障害を持つ学生も多く在籍してる。この際、そういう振りをしてしまおうか。  「しゃべれるけど…」  そう思いながらも、つい声を出してしまった。彼の大きな手の動きはとても雄弁で、暖かい「気」がふわっと舞った。  「手話…、出来るんだ」  そう続けた僕に、  「え? ああ、ちょっとだけな。俺、福祉学科だから。お前は?」  だから、僕はここの学生じゃないんだってば。――とは言えずに、黙り込む。そんな僕に、彼はしょうがないな、という風に笑って頭をかく。  「別に絡んでるつもりはないんだけど…。ま、いいや。またな」  そう云って、急にあっさりと身を翻す。  恐る恐る書架から顔を覗かせ、彼の後ろ姿を見送る僕に、彼が後ろ手に小さく手を振った。僕はそのまま、彼の揺れる金髪が見えなくなるまで見送っていた。
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