プロローグ

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プロローグ

「はい、まいど。ブレンド四百四十円ね」  氷川衛は緩慢な動きで客におつりを渡した。ドアベルを鳴らして客が店を出ると、衛は盛大なため息をついた。 「はぁぁ、どうなってんだ……こいつは……」  衛のダダ漏れな心の声を聞きつけた店主の涼生(りょう)は、思い切りその足を踏んづけた。あまりの痛さに衛が苦悶の声をあげる。 「いたたた……勘弁して下さい、お兄……」 「りょう! 涼生さんだよ。いつになったら覚えるんだい、このバカ」  衛は今、この流行らない古くさい裏道の喫茶店店主、水元涼生の元で暮らしている。ちょっと前まで存在すら知らなかった彼は今時、和装を貫いていて、気風がいいが気むずかしいところがある。それ故か、こうして名前で呼ばないと激怒するのだ。 「穂乃香……どこに行ったんだ……早く帰って来てくれ……」  衛のはじめての彼女、穂乃香が失踪したのは一月前。それまで衛は料理とお菓子作りが趣味なことを除けばごく平凡な大学生二年で、この青春を謳歌していた。  だがある日、授業から疲れて帰ってくると、一緒に住んでいる穂乃香が居なかった。深夜になっても帰宅せず、衛は慌てて事故かと思い警察に駆け込んだのだ。 「あんた、穂乃香の彼氏なんだって? 俺ァ、穂乃香の兄貴だ。連絡ありがとう」  それが衛と涼生の初対面だった。平凡な衛に対して、涼生はとても目立つ男だった。年の頃は二十代後半か……背が高く、長い髪を後ろに束ねた和服の着流し姿。ぶっきらぼうな口調を除けば、モデルでもしてそうな男だった。 「ど、どうも……」 「ふーん」  衛は涼生の値踏みするような目つきに萎縮した。 「……穂乃香はそのうち帰ってくるよ」 「ぼ、僕もそう思います」  何とも見えぬ威圧感のある涼生を前に、衛はなんとかそう答えたのだった。  それからが大変だった。授業とバイトに行きながら、少しでも時間があれば穂乃香を探して回る日々。仕送り無しの苦学生であった衛にとってそれは生半可な事ではなかった。寝不足と心労で衛の目元には深いクマが刻まれた。 「氷川くん、大変だと思うけど困るんだよね」  睡眠不足から来る仕事のミスが重なったある日、バイト先のレストランオーナーにそう言われた。失踪当初は心配をしてくれた周囲の目が、だんだん女に逃げられた哀れな男を見る目に変わっているのを衛はその時知った。違う、まったく自分には思い当たることは無い。 「すみません……」  以後、気を付けますと続けるつもりが……相当疲れていたのだろう。衛はいつの間にかこんな事を口にしていた。 「……僕、辞めます……」  こうして衛はバイトを辞めた。蓄えは少々あったが、穂乃香と二人で暮らしていたアパートの家賃が払えるだろうかと呆然としていた所にやって来たのは涼生だったのだ。 「あんた、うちに来なよ。穂乃香が迷惑かけてごめんな。そうだ、うちでバイトもすりゃあいい」  普通なら、はいそうですかと付いて行かないだろう。逃げてしまった女なんて忘れて学生ならしっかり勉学に励めよと言うだろう。  しかし、全てを見抜いているような涼生の姿が印象的だったのと、なにより衛は疲れ切っていたのだ。 「分かりました」  これはボロボロの自分に神様が出した助け船なのかもしれないと、衛はその提案に乗ったのだ。そうして二人で暮らしていた三鷹のアパートを出て、ここ東京、深川にやってきた。下町と呼ばれるこの街は賑わいと静かさを同時に持った街だ。この喫茶店『たつ屋』は二階が居住スペースになっていて、衛はその一室に今、居候している。同居人は穂乃香の兄、涼生、そして妹の小学生の女の子、瑞葉。 「しっかし客がこない店だな」  自分の所で働け、と言った割に涼生の経営する喫茶店『たつ屋』には閑古鳥が鳴いていた。衛は毎日ほんの少しの常連の飲むブレンドくらいしか出ない状況に業を煮やしていた。  まず、立地が悪い。ここは表通りの裏筋で人通りも少ない。そして、メニューも平凡だ。あと、店名もださい。なんだ、たつ屋って。  おまけに客寄せになりそうな和服美男子の涼生はちょっとしか店に出て来ない。  つまりどうみても、この店は繁盛しそうにないし、衛の手伝いも必要とは思えないのだ。 「衛くん、クッキーちょうだい?」  学校帰りの涼生と穂乃香の妹、瑞葉がおやつにクッキーをねだりに来る時だけが、今の衛の幸せな一時なのだ。 「うん、おいしーい」  まるでハムスターのように頬を膨らませてクッキーをほおばる瑞葉を見ながら、衛はまたため息を吐いた。 「ああー、ヒマだ……」  衛もただヒマを持てあましていた訳じゃ無い。趣味でもあり、元キッチン担当の料理の腕前を発揮しようと最初こそ頑張ったのだが、肝心の客が来ないんじゃしかたが無い。あげくに涼生には材料を無駄にするなとしかられて、それからは毎日黙々とあんまり売れないお持ち帰り用のクッキー作りに従事している。 「穂乃香……はぁ」  そうして、衛は時折衝動的に失踪した彼女の名を呼ぶ妖しい男に成り下がっていた。  思えば、穂乃香との出会いからして不思議だった。あれは桜の花の咲く頃だ。バイト終わりにぶらぶら缶チューハイを飲みながら、夜桜見物だと公園の水辺を眺めていたら、急に声をかけて来たのだ。 「桜、綺麗ですよね」  その時は逆に心配してしまった。彼女は清楚な美人さんで、こっちは酔っ払いの男。そんな無防備で大丈夫かと。 「え、でも貴方は大丈夫ですよね」  穂乃香は説教気味に語る衛に対してそう言ってのけた。衛は、まぁとにかく気を付けなさいと言い残して逃げるように去った。それだけで二人はもう会うことは無いと思っていた。しかし、数日後に穂乃香は衛の働いている店に客としてやって来たのだ。 「これは運命だと思うの」  そう無邪気に穂乃香は言った。衛もその時はそれを素直に信じて、告白をした。二個の年の差も気にならなかった。それからすごく自然に同棲を決めて、二人では少々せまいアパートで一緒に暮らし始めた。なにもかも順調だった。……穂乃香が居なくなるまでは。 「衛くん、もう一個いい?」 「だーめ、夕飯食べられなくなるだろ」 「じゃあ、おゆうはんクッキーにしてー」 「ダメー」  最近は衛の作るクッキーがブームみたいで、ぶくぶく太らないかが心配だ。本当の家族みたいに懐いてくれるのは嬉しいけれど、そうなったら穂乃香が帰って来たらしかられる。 「……はーあ」  宿題をしに、瑞葉が上の階に行ってしまうと衛はまたヒマと格闘しなければならない。そう思うとため息がまたこぼれた。 「そんなにヒマなら、俺の仕事を手伝うかい?」 「……なにか、仕事してるんですか涼生さん」  涼生があくびをかみ殺している衛を見かねたのか、声をかけて来た。衛は他に仕事があったんならこんな店閉めてしまえばいいのに、と思った。 「ほら、そこに看板が出てるだろ」 「この汚い木ぎれがどうしたんです……『よろず相談事引き受けます』なんだこれ」  喫茶店の軒下に散々雨風に晒された木の板があった。 「相談事? カウンセラーかなにかっすか」 「まぁ言ってみればなんでも屋だ。これからお客がくるから、あんたは横で聞いてりゃいい」  そんな人の相談事を素人の自分が聞いていいものなのか、衛は戸惑ったが……この家では涼生の言う事は絶対。このひと月で学んだ事である。 「さ、お客だよ」  衛が涼生についていくとそこにはお客が居た。多分お客である。信じたくはないが。 「にゃー」 「……猫!?」  そこには白と黒の猫が二匹、涼生と衛を待ち構えるようにして座っていた。 「涼生さん……」 「さ、仕事だよ。じっくり話を聞いてやろうじゃないか」  そう言われても猫である。どっからどう見ても猫だ。衛は盛大に首を傾げた。
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