龍穴

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龍穴

「ねぇ衛くんこれなら飼ってもいいでしょ」 「今度はなんだ」  今日も元気に瑞葉と白玉が帰って来た。瑞葉はなにやら上を切ったペットボトルの器を持っている。 「これ、蓮君が田舎で取って来たんだって」 「なんだ、タニシか……?」  うごうごと蠢いている巻き貝を衛はつまんだ。 「うん、きれいな水に入れて煮干しをあげるんだって」 「そうか、ちゃんと面倒みろよ」 「やったー!」  衛が心良く許可を出すと瑞葉は両手を挙げてよろこんだ。 『煮干しを食べるんですか、このちいさいのが』  白玉はふんふんと匂いを嗅ぎながらなんだか微妙な顔をしている。そんな白玉に衛は猫用の減塩煮干しをあげた。 『ありがとう。うんおいしい。瑞葉ちゃんもいかがですか』 「えー、瑞葉はいいや」  そんな訳で水元家にペットが増えた。水槽を買ってきて、中に砂と水草をいれてやればなんとなく愛着も湧く物である。 「名前は決めたのか?」 「うん、タニさん」 「そっかタニさん、よろしくな」  新しい家族に挨拶をして、二人は床についた。もう秋だというのに寝苦しい日々が続いている。衛は図書館から借りた本を広げていた。 『……衛さん……』  その時、どこからか声がした。衛はあわててキョロキョロと辺りを見渡したが当然誰も居ない。 「穂乃香の声がした気がした……」  もう長いこと穂乃香には出会えていない。また幻聴が聞こえたのかと衛はタオルケットを被った。 「昨日、お姉ちゃんの夢をみたの」 「そっか、俺も見た気がするよ」  その日の朝、衛と瑞葉は歯を磨きながらそんな話をした。その時はそれで終わる話だと二人とも思ったのだが……。その翌日の朝。 「またお姉ちゃんが呼んでた……」 「瑞葉……」  瑞葉は浮かない顔だ。衛も二日も続けて穂乃香の声を聞くなんて普通じゃないと思い始めていた。 「どうしたんだい、シケた顔して」 「ああ、涼生さん」  衛は涼生に事情を話した。すると、涼生はスタスタと衛と瑞葉の部屋に入った。 「ふーん、ここ二日で物を増やしたかい?」 「いえ、このタニシくらいで……」 「これか……ちょっと預かるけどいいかい」 「ええ」  衛は涼生にタニシの水槽を預けた。 「タニさん、どっかおかしいのかな?」 「どうだろう、とにかく学校に行っておいで」 「あっ、いっけない! 遅刻する!」 『瑞葉ちゃん走りましょう!』  家から駆けだして行く、瑞葉と白玉を見届けて衛はクッキーを焼きはじめた。 「今日はバタバタしてましたね」 「ああ、藍。ちょっと変な事があってな」 「へぇ?」 「穂乃香の……声が聞こえるんだ。夜中に」  衛は藍に経緯を説明した。その目の前にいる藍こそ『変な事』そのものであるのだが。 「声ですか……うーん、私たちが始めに自由になったのは声でしたね」 「声か……」 「そうです、それから手足を動かせるようになって、最後には人間の姿になれるようになりました。だから、穂乃香も最初は声から帰って来ているのかもしれません」 「ほー……」  藍の話に、衛は聞き入った。そういう理屈ならば、穂乃香の帰還もそう遠くはないのだろうか。 「ただいまーっ! 涼生さん何か分かった!?」 「こらっ、まず手を洗いなさい」  瑞葉は学校から帰ってくるなり二階にあがる。その後ろを衛は慌てて追いかけた。  涼生はテーブルの上に乗せたタニシを前に少しだけ自信なさげに答えた。 「そうだねぇ……その声が聞こえたっていう夜になってみないと分からないんだが、もしかしたら蜃気楼の一種だと思うんだ」 「蜃気楼ってあの気温の変化で見えるってやつですか」 「昔の人はでかいハマグリが見せているって考えたんだよ」 「でも、これタニシですよ?」  衛がそういうと、涼生もそうなんだよねと首を傾げた。とにかく夜になるまで様子を見ようという事で三人は夕食を済ませた。そして固唾を飲んでタニシを見守る。 『衛さん……瑞葉……お兄ちゃん』 「お姉ちゃんの声だ! タニさんからお姉ちゃんの声がする!」  瑞葉が驚きの声を上げた。確かに瑞葉の言う通り、タニシから微かに穂乃香の声が聞こえている。 『その声は、瑞葉?』 「そうだよお姉ちゃん!!」  瑞葉は涙ぐみながら水槽にすがりついた。ちゃぷんとしぶきをあげる水槽を抑えながら衛は瑞葉を止めた。 「瑞葉、お姉ちゃんはタニシじゃないぞ」 『ふふ、やっと声が聞けたわ衛さん。確かに私はタニシじゃないわ。これはちょっと借りているだけ』 「やっぱり蜃気楼の一種か」 『お兄ちゃん……そう、丁度良い貝が無かったから姿を見せるのは無理なの』 「なるほどね」  涼生と穂乃香のやりとりはあっさりとしたものだった。家を出ていった妹と兄のやりとりなんてこんなものなのかもしれないが。 「穂乃香、聞きたい事があるんだ……」  一方の衛は穂乃香の声を聞けた嬉しさと現実的な問題に板挟みになっていた。そのモヤモヤとした感情を極力見せないように気をつけながら衛は言葉を続けた。 「僕の前から姿を消したのはどうしてだ? 今、どこにいる」 『衛さん……』  穂乃香が息を飲むのが、微かな声の中でも分かる。衛は穂乃香を愛する一人の男としては怒鳴りつけてでも戻ってこいと言いたかったが、あくまで冷静を装った。 『……私がどこにいるかは、ごめんなさい、まだ言えないの。たとえ知ってもたどり着くのは難しいと思うわ』 「穂乃香……」 『私、今回は警告に来たの……』  息を飲む三人の前に穂乃香から告げられたのは、衝撃の言葉だった。 『お願い逃げて』  穂乃香のその言葉に三人とも顔を見合わせた。 「逃げてって……どういう事だい」  ずっと黙って様子を見ていた涼生がようやっと穂乃香に問いかける。 『東京から逃げて。出来るだけ遠く』 「東京からってなにかあるのかい」 『これから大変な事が起こるの。危ないからみんなに逃げて欲しいけど……こんな事誰も信じないでしょ』 「大変な事……」  穂乃香の言葉を聞いて、涼生は思案した。 「それはあの東方朔が関係しているのかい?」 『……! お兄ちゃん、それをどこで』 「どこもなにも本人がやってきて厄災が起こると宣言していったよ。あいつは瑞葉を狙って襲ってきたんだ」 『瑞葉を……?』  穂乃香が息を飲む気配がした。衛はしびれを切らして穂乃香に呼びかけた。 「なぁ、穂乃香。内緒事は無しにしよう。今までの事を話してくれよ」 『衛さん……』 「お姉ちゃん、瑞葉も友達がいるの。梨花ちゃんに蓮君に知佳ちゃんに白玉に……。だから自分だけにげるなんてできないよ」 『そう……』  衛と瑞葉と涼生は固唾を飲んで穂乃香の次の言葉を待った。しばらくの無言の後に、穂乃香はこう語りはじめた。 『まず……私が居なくなったのは、今度の厄災を止める為だったの』 「そうだったのか。何か言ってくれたら良かったのに」 『ある日、龍神様が私の所に来て言ったのよ。家族を守りたかったら自分の所に来て救世の手伝いをして欲しいって……私、衛さんに信じて貰えるか、どう説明していいか分からなくて……ごめんなさい衛さん』 「うん……」  衛は穂乃香に言われてから、今なら龍神だのなんだのと言われてもなんとも思わないが、あの時言われてたら理解できたかどうか分からないな、と思った。 「ちょっと待っておくれ、俺は龍神様から何も聞いて無いよ」 『龍神様は新しい巫女の最初の仕事だと言っていたわ……』 「まったく、俺も舐められたもんだね」  涼生は穂乃香の話にふてくされたように鼻を鳴らした。 『お兄ちゃん、私が龍神様にやらせて下さいってお願いしたの。私、その時感謝したのよ。龍神の愛し子である事で手ずから家族を守る事が出来るって』 「それで俺の所にはがきを寄越したのかい……何かと思ったよ」 『ええ、衛さんはさびしがりだし瑞葉は甘えん坊だから。お兄ちゃんならなんとかしてくれると思って』 「おかげで毎日賑やかだ」  衛はそれで涼生が家までやってきたのか、と気づいた。穂乃香の居なくなった経緯はこれで分かった。 「それで……穂乃香は今どうしているんだ?」 『龍神のお使いで六道を巡って人やあやかしを助けているの』 「六道?」  聞き慣れない言葉に首を傾げる衛に、涼生は補足説明をした。 「衆生……人々が輪廻転生する六つの世界のことだよ」 「……はぁ」 「もっと砕けて言うとあの世で龍神の代わりに仕事をしてるってことさ」 「なるほど!」  これで東方朔の言った穂乃香は地獄にいるという意味が分かった。あいつめややこしい言い方をしやがって、と衛は思った。 「そっ、それで帰ってこられるのか、そのりくなんとかから」 『ええ、龍神様は私がお手伝いをしている間に厄災を抑えてくれるって約束をしてくれたの』 「それじゃあ、もう帰って来てもいいんじゃないか?」  衛がそう言うと、穂乃香は口を閉ざししばらくして絞り出すように声を出した。 『それが……龍神様が抑えている災厄をこじあけようとしてくる奴らが現れて……』 「それが東方朔って事か」 『ええ……もう間に合わないかもしれない。だからあなた達だけでも逃げてくれればと……』 「穂乃香……災厄って具体的にはなんだい」 『大きな台風よ。龍神様はその身を渦に投じて……』  衛がさらに問いかけるが、穂乃香の声は段々ブツブツと途切れるようになりやがて沈黙した。 「穂乃香……」 「この話が本当なら、東京はひどい事になるね」 「涼生さん」  瑞葉はもう声を発さなくなったタニシにお姉ちゃん、お姉ちゃんと呼びかけている。 「瑞葉、お姉ちゃんは頑張ってるそうだ。俺達も……頑張らなきゃ」 「衛くん?」 「そうだね、衛はこういう時は妙に度胸があるね」 「涼生さん」  瑞葉を抱きかかえる衛の隣に立ったのは涼生だ。 「勝手に隠居あつかいされて、困ったもんだ。衛、覚悟はいいかい」 「はい」 「瑞葉、お姉ちゃんのお手伝いに行くよ。お友達も助けなきゃね」 「うん、分かった! 瑞葉頑張る!」  元気に挨拶した瑞葉を涼生は見届けると、彼女のその手首に填めた腕輪を取った。 「衛、あんたはこれも填めておきな。いいね、足手まといになるんじゃないよ」 「はい!」  そうして三人は夜の商店街を抜けて、先へ急いだ。涼生の行く先は深川不動尊の境内、その片隅にある深川龍神だ。 「こんな所に龍神様が……」 「気づかなかったかい? 昔からあるんだよ」  涼生は鞄から四つの水晶玉を取りだして、泉の端に置いた。 「さぁ、龍神様の元に行って。悪さをするあやかしを成敗してやろうじゃないか。瑞葉。龍神様の真言を唱えるよ」 「うん」 「おんめいぎゃしゃにえいそわか」 「おんめいぎゃしゃにえいそわか」  衛は二人の真言を唱える声を聞きながら、やがて自分達が明るい光に包まれてるのを感じた。あまりの明るさに皆が目を瞑り、その後目を開くとそこはまったく別の空間だった。 「ここは……洞窟!?」  衛が気がつくと、そこには暗く湿った洞窟が広がっていた。 「衛、瑞葉。はぐれるんじゃないよ。しっかり俺についておいで」  そう言って、涼生は洞窟の奥へと歩を進めるのであった。 「ここは……?」  衛と瑞葉は辺りを見渡した。 「ここは龍神のすみか……龍穴と言うところさ」  暗闇をものともせずに涼生は歩を進めた。衛と瑞葉は慌てて後を追った。すると、その先にほんのりと光が見えてくる。 「二人とも、ちょっと待ちな」  光に向かって歩いていた三人だったが、涼生から制止の声がかかった。 「見てみな」  二人が岩陰から涼生が指し示す方向を覗くと、そこにはおぞましい光景が広がっていた。化け狸に化け猫に一つ目にろくろ首。様々なあやかしが黒い煙を吐きながら列をなして練り歩いている。これぞ、百鬼夜行である。 「あのあやかし達、なんだか様子がおかしいよ」  瑞葉が不思議そうに首をかしげた。確かによろず屋に依頼をしてくるあやかしとここに居るあやかしとは雰囲気がまるで違った。 「これがあやかしのもう一つの顔だよ。苦しみと厄災を振りまく……人間とは道理もなにも違うもの達さ」 「でもなにか苦しそう……」 「ああ、この先は龍神様のおわす所だ。百鬼夜行を組んで向かうべき所じゃない」  涼生は用心深く、自分の指輪を抜き取ると列に投げ込んだ。カッと光が放たれ、あやかしどもが列を乱す。 「さあ、今のうちに奥へ! 龍神様の居場所をふさぐよ」  三人は一斉に走り出した。 「うわぁ、追いかけてくるよぉ!」  三人で必死に走って行くと、やがて赤い巨大な門が現れた。 「はぁはぁ……」 「あー歳だね」  ぜいぜいと息を上がらせて涼生は札を門の周りに設置する。 「さあ、ここで向かえ討つよ」 「ええ、俺たちどうしたらいいんですか!?」 「あんた達はあやかしをとっ捕まえておくれ」 「ひええ」  衛と瑞葉は悲鳴をあげたがあやかしどもは待ってはくれない。門の周りの結界に阻まれつつ、その場にたむろしている。 「おんめいぎゃしゃにえいそわか」  涼生が真言を唱えると、その目の前に水球が生まれてあやかしをはじき飛ばした。 「ここは現世と幽世の狭間だからね、龍神の加護も今までと違うはずだよ。瑞葉お前もやってごらん」 「う、うん……おんめいぎゃしゃにえいそわか……」  涼生の言う通り、瑞葉の目の前にも水球が出来た。 「おお……」 「え、どうしよう衛くん」 「んーとだな……」  衛はちょっと迷った末に水の玉をむんずと掴んだ。 「俺はピッチャーじゃなかったんだけどな!」  と、それをあやかしにぶん投げる。涼生のようにはじき飛ばすまでは行かないがあやかしは怯えたように距離を取る。 「よーし、瑞葉どんどん作れ」 「うん!」  こうして三人の抗戦が始まった。黒い煙を吐いているあやかし達が押されて下がって行く。 「よし!」  衛が思わずガッツポーズをした時だった。あの耳障りな地の底に響く声が三人に降り注いだ。 『小賢しいやつらだ! また現れたか。……お望みどおり殺してやろうか』 「……東方朔!!」  あやかし達の上空に黒い旋風を身に纏いながら登場したのは東方朔だった。 「ようやっとおでましかい」  怯むことなく煽るように涼生は東方朔を怒鳴りつけた。東方朔の黄色く濁った目がぎらりと涼生達を捕らえる。 『……ふん。さあ配下のあやかしどもよ! そこの人間を食い散らかせ!』  東方朔の檄にあやかし達は再び前進した。 「ったくなんだって龍神のすみかを荒らすんだい!」  涼生が先程よりも大きな水球であやかし達を吹き飛ばした。……すると、瑞葉の足下に一匹勢いで転がってきた。 「ひゃっ」 『……助けてください』  それはよくみればまだ子狸だった。子狸は震えながら三人に懇願する。 『父ちゃんも母ちゃんもあいつに飲み込まれておかしくなってしまったんです……助けてください!』 「ちびちゃん、それ本当?」 『あい。元はみんな気の良いやつらなんです』  子狸は目に涙を浮かべながらそう言った。狸は人を化かすというが今回は違うようだ。 「……衛くん」  瑞葉がどうしようと衛を見つめる。衛はいくら百鬼夜行を叩いてもどうにもならないと考えた。 「瑞葉、さっきの玉を出してくれ」 「はいっ」  衛は瑞葉の水球を受け取ると、東方朔に向けて思いっきりぶん投げた。すると見事にやつのはげ頭にヒットした。 『……ふざけた事を』 「おい、そこのオンボロジジイ! こんなあやかしを操ってどうしようっていうんだ」 『……嵐を起こすのさ』 「は?」 『龍神が抑えている弩級の嵐を起こして首都を壊滅させる! ……どれだけ負の力が溢れることだろう。その力があればわしは神仏をもおそれぬ存在になれる!』  そう言って東方朔は高笑いをした。 「……どこまでも自分勝手だね。だからお前は何千年生きようがひとりぼっちなんだよ」  涼生は捨て台詞と共に特大の水の玉を東方朔にぶつけた。 『現世と違うのは何もお前だけでは無いぞ!』  東方朔は一払いで涼生の攻撃を躱し、代わりに枯れ葉のような腕を涼生に伸ばした。 「うっ」  巨大化した片腕に涼生の手が捕らえられる。衛は瑞葉の水球をあわてて東方朔にぶつけた。 『今更聞かぬわ、そのようなもの』  東方朔の勝ち誇った声が洞窟内に響いた。 「……っく」  黒い風を起こしながら、東方朔は涼生の腕をひねりあげた。木の根のように伸びるもう一方の手は衛と瑞葉に向かって伸ばされている。 『これで最後だ』  東方朔がそうガサガサとした声で言うと、一斉に伸びた腕が二人を襲う。衛は身を挺して瑞葉の上に多い被さった。もう駄目だと衛と瑞葉が覚悟した瞬間。赤い龍穴の扉がバンと勢い良く開いた。 『……な!?』  驚き、目をむいた東方朔に襲いかかったのは虹色の膜であった。 『なんだこれは……!?』  その膜は投網のように東方朔に多い被さるとぐるぐると包み込み、彼は球体に閉じ込められた。 『くっ……龍神め……ああああ!』  東方朔は膜を破ろうと足掻いたが、破れた端から球体は回復していく。東方朔は醜く顔を歪めてわめいているがその声もやがてふさがれた。東方朔はただ黒い塵のようになって球体に封じられた。 『痴れ者め……』  その時、地に響くような、しかし温かい声が響いた。衛と瑞葉は体を硬直させたが、涼生はふらふらと声のする方へと歩を進ませた。 「涼生さん!」 「大丈夫、これは龍神様の声だよ。さあ衛、瑞葉行こう。失礼の無いようにね」 「は……はい」  そう言って涼生の後ろをついて来ていた衛と瑞葉は息を飲んだ。洞穴の奥は大きく開けていて、その中心には光の奔流があった。 『……涼生、久しいな』  神々しい、穏やかな声が洞窟に響く。衛と瑞葉は圧倒されて声を失っていた。 「龍神様、妹が世話になりました」 『いや、こちらこそそちの妹御は龍の使いとして立派に勤めてくれた。礼を言う。そなたは小さき愛し子の世話があると思うてな。悪く思うな』  光の塊は良く見ると虹色に輝く大きな龍であった。温かい声が三人に降り注ぐ。 『すまなんだ、巨大な嵐を抑えるのに力を使い過ぎて、あのようなものを近づけてしまった。愛し子達、あと少し力を貸して貰えるだろうか』 「もちろんです」  衛は龍神の目の前に立った。不思議な色をした目がじっと衛の姿を映している。 『お前が穂乃香の伴侶か……なるほどな邪気のない人間だ』 「穂乃香はそこにいるんですか」 『ああ。穂乃香、伴侶の元に戻るといい』  龍神がそう頷くと青い薄衣を纏った穂乃香が光の中から現れた。 「衛さん……」 「穂乃香」  衛は駆け寄ってきた穂乃香を抱きしめた。そして今度こそ本物だと全身で確かめる。衛はあの日、穂乃香が居なくなった日の驚き、探し回った日の絶望感を思い出し、彼女を強く強く抱きしめた。 「こほん、衛。子供の前だよ」  涼生の声に衛はハッとなったが、それでも穂乃香の手を離す事はなかった。 「お姉ちゃん……」 「瑞葉、いらっしゃい」  穂乃香がやさしく瑞葉に手を差し出すと、瑞葉は抱きついた。 「お姉ちゃんっ、瑞葉頑張ったよ! ちゃんとお留守番した!」 「うん、えらいね瑞葉」  瑞葉はしゃくり上げながら穂乃香の手を握り、穂乃香はただただ頷いた。 『愛し子達よ、結界を張るのを手伝っておくれ。そして残りのあやかしどもを連れて現世に帰るといい』 「かしこまりました」  涼生はうやうやしく龍神の声に応えると、手を合わせた。 「瑞葉、穂乃香。龍神の祝詞を唱えるよ。私に続いておいで」 「はいお兄ちゃん」 「はい!」 「高天原に坐し坐して(たかあまはらにましまして)天と地に御働きを(みはたらき)現し給う龍王は大宇宙根元の御祖の御使いにして(みおやのみつかいにして)一切を産み一切を育て萬物(よろずのもの)を御支配あらせ給う」  三人が龍神を中心に祝詞を捧げた。洞窟内にこだまするその声は神秘的な響きを持って、やがて細い渦を発生させる。 「これが幽世ってやつか……」  衛は息を飲んでその様子を眺めていた。やがてその渦が文様を描き、龍の体に溶け込んでいくのを衛はただただ見守っていた。 『ご苦労であった……最悪の災厄はこれで免れるであろう……息災でな』 「龍神様もありがとうございました。私の願いを聞いてくださいまして」 『いいや、六道を巡る旅は人の身には辛かったであろう。よくやった』  穂乃香はしばし龍神を見つめると、衛達三人の元に歩んできた。 「……さあ帰りましょう」 「ああ、待ってたよ。穂乃香」 「瑞葉もずっと待ってた」  親子はしっかりと手を繋ぎ、先を行く涼生の後を追っていった。その後ろ姿を龍神の虹色の瞳はずっと眺めていた。 『ありがとうございました。父ちゃんも母ちゃんも元に戻りました!』  赤い扉の向こうに出ると、先程の子狸が駆け寄ってきた。 「たぬちゃん、よかったね!」  瑞葉は泣いて赤くなった目をこすりながら狸の手をとった。みれば、あやかし達は先程のような禍々しい雰囲気はなりを潜め、戸惑っているようだった。そんなあやかし達に穂乃香はやさしく声をかけた。 「東方朔は封じられました。皆さんはもう自由ですよ」  それに続いて、涼生が勢い良く啖呵を切る。 「さぁ、今日だけはよろず屋『たつ屋』の無料出血大サービスだ。あんたたちを現世まで送ってやるからね!」  こうして衛達四人の人間と、あやかし達は列をなして現世へと向かって歩き始めた。 「……お姉ちゃん、もう黙って消えないでね」  瑞葉はべったりと姉に甘えながら、来た時と同じ光の中に飛び込んだのだった。  衛が目を開けると、そこは深川龍神の泉の前だった。 「帰ってきた……」  衛はふと不安になって隣を確認した。 「衛さん、どうしたの?」  そこにはさっきまでと同じく穂乃香がいるのを見て、衛はほっと胸をなで下ろした。 「衛くん、お姉ちゃん! すごい雨だよ!」  瑞葉が空を指さして叫ぶ。瑞葉の言う通り、屋根の外は土砂降りの大雨だった。 「これはダッシュでいくしかないな」  四人は走って家まで向かった。しかしゲリラ豪雨のような大雨でびしょびしょに濡れてしまった。 「わぁー。みんな風呂入って」  衛は女性陣を風呂に追いやると、バスタオルでわしゃわしゃと髪を拭いて乾いた服に着替えた。そしてふとテレビを付ける。 『五時の天気予報です……急速に北上をしていた台風○号は、急速に勢いを衰えさせ関東一帯は大雨となっております……お出かけの際には傘をお持ちください』  ちょうどやっていた天気予報ではそんな事を言っていた。これは龍神の抑えていた嵐の余波なのだろうか、と衛は考えた。 「これでめでたしめでたし……ってか」  衛は店のオーブンの電源をつけた。そして小麦粉を計り、クッキーを仕込み始める。 「ああ! 衛くん、クッキー作るの?」 「ああ。みんなお腹空いたろ」  瑞葉がめざとくひょっこりと顔を出した。そこに穂乃香が追いかけてくる。 「瑞葉、まだ髪乾かしてないでしょ! ……あら」 「どうした穂乃香」 「衛さんがそこに立っているのってなんだか変な感じがするわ」 「……そうか? ああそうか」  衛は一瞬ぽかんとしたが、ここに立つようになったのも穂乃香の居ない数ヶ月間の出来事だったのだ、と思い直した。 「どうだ、立派な喫茶店の店員だろ」 「やだぁ……、でもそうね亡くなった父もそうしてクッキーを作ってた」 「そっか」  衛はクッキングシートに並べたたクッキーをオーブンに投入した。その音を聞きつけたのか、藍と翡翠がやってきた。 「こんな時間にどうしたんですか」 「あら、この子達は……?」 「穂乃香、こいつらは居候の付喪神の藍と翡翠」  衛は二人を穂乃香に紹介する。 「もしかして、この人衛さんの奥さん?」  藍が驚いた顔をして穂乃香を見る。そしてくっくっと笑い始めた。 「奥さんっていうか彼女。……なんか可笑しいか?」 「いえ、涼生さんの妹さんとは思えなくて……」 「悪かったね、藍」  そこに顔を出したのは涼生だ。 「あんまり生意気言うと真っ二つにしてしまうよ」 「ああ、勘弁してください」  藍と翡翠はこりゃかなわんと逃げ出した。衛はその様子を見て呆れながら、ため息をついてクッキーを引き上げた。  焼きたて黄金色のほかほかのオートミールとレーズン入りの入り朝食クッキー。大きくて分厚くて食いでもある。 「瑞葉―! 穂乃香ー! 涼生さんー! 朝ご飯ですよー!」  衛は大声で家族達を呼ぶ。その脇でコーヒーメーカーの電源を入れる。 「わぁ、朝なのにクッキーだー」 「今日は特別! さあ召し上がれ!」 「頂きます」  皆、お腹が減っていたのかさっそくかぶりついた。 「あふふふふ。おいしー」  瑞葉が満面の笑みでもぐもぐしている。 「うーん、クッキーは美味しいし、お姉ちゃんもいるし、涼生さんもいるし……いーな。なんかこれいいな」 「そっか。瑞葉、そういうのを幸せっていうんだ」 「幸せかー。うん、瑞葉、幸せ!」  無邪気な瑞葉の言葉に、大人達はほっこりしながらクッキーをたいらげた。 「ああ、瑞葉。テーブルで寝ちゃだめよ」  穂乃香は疲れたのかそのお姉ちゃん眠ってしまった瑞葉を二階に連れて行った。 「涼生さん、今までありがとうございました」 「……妹のした事を兄が責任持つのはあたり前の事だよ」 「それで、これからの事なんですけど」  衛は勇気を出して切り出した。ここに住まわして貰ったのは涼生の好意からで、穂乃香が戻って来た以上、ケジメを付けなくてはならない。 「……俺、どっかでバイト見つけて、それで……」  衛がそこまで言いかけた所だった。ドンドン、とシャッターが叩かれる。 「……誰ですか」 「あのう、『たつ屋』さんはここでしょうか」  衛はシャッターを開けた。するとそこに居たのはボロを纏った男であった。但し、足が四本ある。 「私は雷獣、先程の雷で落っこちてしまいどうにも戻れなくなったみたいなんです」 「涼生さん」  衛がこまった顔で涼生を振り返ると、涼生は薄く笑ってこう言った。 「衛、まだしばらく手伝いがいるかもしれないねぇ……」 「そ、そんな……」  衛が涼生を見つめると、涼生ははじけるように笑い出した。つられて衛も笑ってしまう。そしてどこかホッとしていたのは涼生には秘密である。  そしてお客の雷獣だけが、事情が分からずキョロキョロと二人の様子を眺めていた。
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