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「一郎、帰ったぞ、お前の父さんだぞ」
一郎は哲郎が怖くて仕方なかった。
年の殆どを船上で過ごし、休みの日はあぐらをかいて寝ているだけの父親を、物心に宿らせるには親子の時間が少な過ぎた。
一郎は公子の白く細い足について回り、哲郎に近づく事をしなかった。
「おい、父親が帰ったのに、返事もないのか?」
「イチ、お帰りは?」
公子が促すと一郎は小さく「お帰りなさい」と呟いた。
「小さい声だな」懐かない息子に一言吐くと哲郎は竹革の包みを広げ、中身を野菜がひしめく鍋の中へかき混ぜた。
「肉、好きだろ? ほら、食えよ。お前らも食えよ。さぁ、食え食え」
朝から晩まで、来る日も来る日も船上に揺られる哲郎にとって、鍋奉行として家族に夕飯を振舞うのが、小さく霞む父親の尊厳という見栄を張れる日であり、子供らはそんな父を気遣い、感謝を口にして食べるのであった。
「お肉美味しい」
「卵と絡めると旨い」
「しらたきが入ってる!」
「だろ? うまいだろ? 父さんが働きに出てるからこその贅沢なんだぞ?」
一郎はあまり食が進まなかった。公子が額に手を当てるが熱はない。
体の不調などではなく、この後に待つ時間が、一郎にとって苦痛だった。
哲郎は一郎と風呂に入ることが楽しみであった。父親らしい事をしてやれない分、ささいな時間を共有したかった。
しかし、一郎からしてみれば豪快な哲郎は公子と違い、手加減ができず一郎を手荒く扱ってしまう面があった。
そこに恐怖心を抱いていた一郎は哲郎が帰る日はいつも縮こまってしまうのだった。
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