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雨の闇と、畳に移る日差しの陰翳礼賛。鬱屈とした雨の中で、人は過去へ想いを馳せる。思い出は、悠久の時を刻み、壁掛けの古時計だけが永遠を知る。紫陽花の雫が、煌めく太陽に照らされ始めると、人はなぜ闇を求めるのだろうと気がつく。さあ、恐ろしい日本の紙芝居が始まるよ。
夕陽の照らす、屋敷にたたずんで、恐ろしい鬼を想う。死者を弔い、闇へ帰す手は、血で汚れている、けれど、なぜだか、優しい日差しに照らされている、安らい花を思い出す。人の行いは、功徳と業でできている。気を付けたまえ―――、後ろを。足を捕られるよ。一寸先は、闇。
苦しくて苦しくて、がむしゃらに駆けていた。暑い夏の日。道路には陽炎が立ち、遠くには蜃気楼が揺らめていた。ぽたぽたと、顎から苦渋のような汗が伝う。下駄のまま、ひたすら駆けて、ぜいぜいと、喘息のような症状を起こして、地面に這いつくばった。
ゆら…ゆら…
はっと我に返って気が付くと、目の前には木漏れ日が、煌めいていた。
その動いている影が、やけにこわい。
やめろ、見たくない。僕は、それを見たくない。
南無猩々―――――
人でないものを信じるな
お前は取り憑かれているのだ。
なにを…考えて居るのかね?
君は…嘘つきだ。
猩々の目のような、赤い目が闇で光って入る。猩々が、何か囁いて嗤った。御前は、此処に居ても善いよ、と、そう言っているのか。悠長に牡蛎氷かきごおりを口の中に放り込むが、気分は優れない。夢の中で在るような、不思議な脳亡いの景色。この、牡蛎氷を食べていたのは何時の事だったか、分からない。童に戻った時の様に亞奴あどけない、けれど、悪夢の様である。今日は独りで、街道沿いのか牡蛎氷屋に来ていたのだ。灰色のカーテンが揺らめている。冷氷はいつまで経っても減らない。焦燥感だけが、感覚を支配する。暗がりには鬼が蹲って此方を見ている。鬼はしゃべる。
おかしくなってもいいぞ、お前はもともとおかしかったではないか。
なにをためらうことがある、一思いに…やってしまえ。と、心にささやきかけてくる。
カンカンと錫杖を鳴らした僧侶がカキ氷屋に来ていて、そんな僕を見下ろしている。南無阿弥陀仏、南無猩々、お前は、殺したのだ、友人を、親を、妹を。もう助からない、助けられない。お前は、人を殺したのだ―――――。
幻聴か、幻覚か、嘘であることが分かっていたのに殺していた、のは事実であったと思った。太陽が西から昇って沈むような、嘘であった。憎かった、恨んでいた。彼らに叱られるとき、惨めで、悔しかった。
夏だから、夏だけれど、夏なのに、…されど、けれど、苦しくて、刹那の。
後悔先に立たず、とは言ったものである。
わんわんと蝉が鳴いている。山の神社の中で、は、と我に返った。いつの間にか、ここまで駆けてきていたのか。草いきれが体中についている。無我夢中でこんなところに走ってきたのか…自分は、劇や映画が好きだったが、ここまで、入り込むとは思っていなかった。すべて嘘だ、母親を殺したのも、妹を殺したのも。
けれど
だけど
さんざん、悔しんだ後は、たしかに、母親を手にかけたような気がして、柔らかい首筋の肉を思い出す。
太陽は西に傾きかけていて、また、木漏れ日がこわくなってきた。なぜか、人を殺すイメエジが頭にこびりついて離れなかった。優しい家族に囲まれているのに、自分だけが、妙に性格がおかしかった。そんなとき、脳亡いには、真っ黒な影になった自分が、巨大な鬼になって、血まみれの鉈を片手に、母親たちを怯えさせている記憶が思い浮かんだ。いつからこの記憶があったのか分からない。母親の顔も、自分の母親ではないのに、確かに母親だと己は認識している。家もまるで、古い時代の、見知らぬ家なのだ。
もしかしたら、自分に似た、自分…影法師が、母親を殺したのではないか。
家では、母親が、夕餉の支度をしていた。やっぱり、嘘であった。汗を落としに風呂に入る。明日は、国民の休日で、律儀な父親が、日の丸を玄関に掲げてあるのが、風呂場の窓から見える。穏やかな風景。何事もなかったのだ。そう、なにも。ただ、夏を繰り返すたびに、夢の中で、近しい人々を、殺して埋める夢だけが、増えていった。
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