夕べの思い出

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懐かしさに囚われる。仄かに薄暗い闇の中で、人は過去を繰り返し思い出す。 闇とは、永遠を司る。永久の記憶の中で、人は秋のようなものを見ているのだろう… 夕暮れ時になった。放り上げた帽子が、路地裏に落ちて、所在なさげに夕日に照らされている。 祭りの夜。金魚は水の中で、繰り返し泡(あぶく)を吐いている。懐かしい生き物は、過去を見ているのだ。逆さの世界。未来へ進むものは過去へ、老人は若人へ、繰り返し、時計は逆さに回る。その中で、人は、自分の運命を知るだろう、過酷な現実を知るだろう。非情の世界…それが、泡世の世界。 使わなくなった柱時計を、赤い糸で、ぐるぐる巻きにした。時計とは、己である。時間から逃れられないように、時をめちゃくちゃに告げるから、こういう風に縛るしかなかったのだ。外では祭りの準備で、ぼんぼり提灯が夕暮れの薄暗いなか、蝋燭の火で暖かい光を田んぼに照らしている。 神社へ来た。暖かな灯篭の光が、人々の顔を穏やかに照らす。その中では、僕は独りぼっちではないのだ。病は少し良好だ。あの麻酔の匂いのする病院の中の安寧には、まだまだ近寄らなくていい。カラーボールが水の中で渦を巻いている。りんご飴がランプの下でてらてらと赤い舌のように光っている。雪洞をいっぱいぶらさげた神輿が境内に入ってくる。蚊がまた寄ってきた。境内の中に飾られた、翁やオカメのお面を眺めている僕の、特別な血を狙っているのだ。 また、背が縮んだように思う。懐かしさに囚われていると、どんどん、子供に逆さ還りするのだ。家の時計は、逆さに刻を打つ。時折、提灯を片手におかしな怪しい僧侶の男が家にやってきて、魂を貰いにきた、と告げる。母親は僕をおしいれに隠す。男は、六文を差し出して、南無阿弥陀仏、と唱えながら、お札を家に置いてゆく。黒猫の影が大きく伸びる。カラスの目が赤く光る。路地裏には、赤い顔の鬼の面が落ちている。どれもこれも、時計の秒針が、さかさまに回っているからなのだ。 近くの川では、人魂が青白く光りながら、雨の夜、茫と輝いている。疳の虫の激しい妹が、今日も自分の寝床で泣いている。母親はでてこない。雨の夜は、母親が、鬼の面を仏壇に飾って、懸命に僕がこの家を出ていかないように祈っているのだ。 晴れた夏の日は、坂を駆けあがる。戦争で逝ってしまった父親の背中が見える気がして。亡くなった祖母の乳母車が見える気がして。開け放たれた居間の誰もいないちゃぶ台の上には、氷の入ったグラスが置かれていて、わずかに乳臭い匂いがする。戸棚の中には、抜けた歯がひとつだけ置かれている。入道雲を追いかけても追いかけても、あの高みには追い付けない。向日葵が、畑の中で燦燦と太陽に焼かれている。 戦争が終わって、しばらく経つが、僕の日常は変わらない。この大地の下には、大勢の日本人の死体が眠っている。灰の様になった遺体が折り重なって地平線を埋め尽くすように積もっているさまを想像して、なぜだか、安らかな気持ちになる。もうすぐ、8月15日だ。 夜になって熱が出た。母親は、鬼の面を隠して、氷嚢を僕の額に乗せる。明日は病院に行きましょう。お前の具合が悪いように思うのです。僕は、嫌だといった。母親はあの恐ろしい先生に、帰ってこれないような施術をさせる気だ。頭を開いて、なにか機械を埋め込むつもりだ。布団の中で、帰ってこない父親を想って、母親のいないところで泣いた。背はまた縮んだような気がする。時計の針が、逆さに時を刻んでいる。母親は壊れたと言っているが、嘘だ。あれは、僕の体を赤子に戻そうとしている。 その日は、朝から無言電話が止まなかった。なんだか、変な匂いが外から家の中に入ってきた。家の犬がワンワンと吠えている。…午後三時を過ぎたころだろうか。急に、空が真っ暗になって、昼間だというのに、夜になった。無言電話はやまない。ちゃぶ台のうえに、三葉虫の化石が置いてあった。なんていうことだろう…。これは、赤子になった人間の姿によく似ている。母親は、こんなものを僕に見せつけて、お前もこうなるんですよ、と苦しめるつもりなのか。思えば、母親には、なにもしてやれなかった。子供の自分のわがままをずっと押し付けていた。すいません、ごめんなさい、おかあさん—————――――、 悔やんでも、悔やんでも、僕は駄目な息子です…。 空がまた明るくなった。皆既日食だったのだ。世界が終わったのかと思った。冷蔵庫から取り出した、アイスソーダを飲みながら、僕はまだ生きていていいのかなと、思った。時計の針は秒針を、いつも通りの時計回りに、刻むようになっていた。
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