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ヴンダーカンマーにて
大富豪の伯父が死んだ。老衰だった。
僕は伯父の部屋にいた。四〇ヤード程の広い部屋だ。そこはヴンダーカンマー、『不思議の部屋』と呼ばれる一室だった。
部屋の中はサンダルウッドの香りがする。床には魔法陣が幾重にも描かれている。アンモナイトの化石、イッカクの角、象牙細工、ミニチュアの陶磁器、魔術の文献、東洋の武具、医学用の道具、天球儀や地球儀、絡繰り人形、職人の工芸品、骨董品…。
まるで世界を凝縮したようだ。
人は皆平等に価値があるというのは嘘だ。
僕にはわかる。一撫でで降りてくるからだ。
数字が小さい人は大抵明るく、富に恵まれ、または皆に愛されて、順風満帆な生活を送っている。さもなければ何らかの優れたところがある。数字が大きい人はその逆だ。
その数字を誰がつけたのかは知らない。しかし僕らの世界で順位をつけるものがあるとしたら、それは紛れもなく神だ。だから、この世界での順位は僕に聞けば簡単に答えられる。この手が教えてくれるのだ。
手袋を外して鸚鵡の籠に手をやる。真鍮の細工が凝らされた年代物だ。吸血鬼鸚鵡という胸の赤い、漆黒の羽に包まれた鳥が止まり木からこちらをじっと見ている。
これはガラクタだ。
順位はこうだ。
三千三百十八那由多六千百七十二万七千八百五十五阿僧祇八十八億九千七十五万九百八十三恒河沙七千五百四十六万三千七百四十六極四十九億三千九百三十一万九千二百五十五載…あと残り百桁ある。
神の順位は絶対だ。現在はそうでなかったり、傍目にはそう見えなかったりしても運命はいずれ明らかになる。不可変の順列だ。
僕は望まれて生まれてきた、と自分で思う。
ほんの少年のころは触ることで知る数字の意味が分からなかった。教会に通うようになって初めて数字の若い人達を見た。地位が高くなればなるほど数字は若く、少なくなっていく。
聖書を何度も読み返した。神の意志を知り、現実と照合するにつれ、疑念は確信に変わっていった。僕は神の意向を読み取る者。神の物差しだ。
折しも宗教戦争の時代だった。僕らカトリック達はポルトガルやスペインの航海に、使命感溢れる宣教師を乗り込ませた。行く先々の植民地で布教活動を行わせるためだ。
各所に遣わせる宣教師を選出するのが僕の仕事だ。新大陸で、原住民の住む島々で、極東で。僕の一撫でにより選出した宣教師たちは類稀な成果を上げていた。当然だ。特別神に愛された生え抜きの集団だったのだから。神に選ばれし者達は世界の半分を改宗してしまう勢いだ。
僕が今日、ここへ来たのは他でもなく、聖遺物を手に入れるためだった。聖遺物とは聖人等の遺骸や遺品だ。遺体の一部や、まるで変哲のない物のこともある。聖遺物は僕らの崇敬の対象だ。世界中に航海に行く宣教師に待たせるために、聖遺物が必要だった。聖遺物は聖人の墓から強奪されたり内密に売買されたりして世界中に散っている。伯父は富豪仲間の交流のために聖遺物を利用していた一人だ。
この物の大洪水で真の聖遺物を探し当てることができる者は僕しかいない。
Ecce homo!
吸血鬼鸚鵡が「その人を見よ」とラテン語で鳴いた。
振り返ると生物学者がいた。
「手袋君」
生物学者は大航海時代の寵児として名を馳せた。希少な種を採取しては本国に持ち帰り、政府からの報奨金で荒稼ぎしている。こういう人物は触る価値もない。努力を尽くした割に冴えない位で生涯を終える輩にすぎない。神への畏怖が欠落しているためだ。
「十字架でも探しに来たのかな」
「いえ、聖遺物を探しに」
車いすの鉱物学者も一緒だった。一度、車いすから倒れそうになったところを持ち上げ、彼に触れたことがある。数字はかなり若かった。それ以来、僕は彼を尊敬している。
形見分けに呼ばれたのは僕ら三人だった。
生物学者は伯父の旧友で、鉱物学者は伯父の恩師だった。そして僕は唯一の甥だ。
生物学者は世界でも珍しい模様の翼を探しに。鉱物学者は新大陸でホピ族が守るという地下資源の地図を探しに来ていた。
僕らは形見分けを始めた。
僕が辺りのがらくたを触って確かめている間、生物学者と鉱物学者は希少な木の空洞に鉱物が生成された「宝」を見つける。その所有権を争っているうち、物の山が崩れて生物学者の頭上に紙魚だらけの羊皮紙と古書が落ちてくる。低い順位の者らしい有り様に、僕は一人ほくそ笑む。
珊瑚や石英でできた装飾品、九千四百二十五那由多七千六百三十三万二千四百五十五阿僧祇六十六億三千五十二万二百十六恒河沙…。
マニエリスムを代表する画家の奇想を描いた絵画、千三百五十七那由多八千百四十二万二千四百十七阿僧祇五十一億三千四十九万六百十一恒河沙…。
漸新世の動物の標本、八千六百三十七那由多九千五百四十二万八千五百三十一阿僧祇二十九億千八十六万五百二十二恒河沙…。
巨大なパウア貝、七千四百十八那由多二千九百六十六万三千五百十七阿僧祇九十九億九千九百万九十四恒河沙…。
聖遺物は見つからない。
幼いころから伯父とは打ち解けた仲だった。考えたくないことだが、伯父は僕の能力を知っていたのだろうか。今思うとそう考えられる。でなければ、物の海でどうやって聖遺物がそれとわかる?
伯父が死の床で僕に宛てて書いた手紙には「君の望むものがあると思う。少し変わっているからそれとは判らないだろうが」とあった。
メイドが水晶ケーキを持ってきた。生物学者との争いに負けた鉱物学者は一心不乱に探し物をしている。
しばらくすると彼のいる山の一角から歓声が聞こえた。探していた地図が見つかったのだ。鉱物学者は、君たちにも見せてあげよう、とこちらへ向かって来る。
その時、彼の乗っていた車椅子が近くにあった吸血鬼鸚鵡の入った鳥籠を倒した。吸血鸚鵡が開いた籠から逃げ出す。
吸血鬼鸚鵡が羽ばたいて、赤い目玉模様の羽が、窓からさす光に透けた。
巨大なジャイロスコープで休んでいる吸血鬼鸚鵡を捕まえたのは僕だった。
柔らかい羽根を抱くと脳内で数字が閃く。
五千六百七十二。
僕はため息をつく。
Ecce homo!
「『その人を見よ』、君だったのか」
生物学者が鸚鵡を取り上げる。僕は言う。
「僕もそれが欲しい」
「断る」
「君の不幸を祈ろうか」
「神などいない」
生物学者の拳が僕の鼻を曲げる。一瞬の出来事だったが、余りの痛みにうずくまる。
おそらく伯父も僕と同じだったのだろう。何らかの形で神の物差しとして生を受けたのだ。彼も神の寵愛を受けているものを判別できた。僕と違ったことは、吸血鬼鸚鵡を自分のものにしておいたことだ。
僕は自分を時代の澱のようなものだと思う。幾万もの人々の願いが僕だ。自分に価値はあるのか。自分は神に愛されているのか。人はそれを知りたいと強く思う。
僕ならそれを教えられる。神の力を通して。
だからだ。だから、諦めるわけにはいかない。
僕は物をかき分けてサーベルを柄から抜き出す。生物学者は吸血鬼鸚鵡を放ち、そばにあった東洋の武具を逆手に持つ。
メイドが皿を下げに来る。僕と生物学者は持っていたものを元に戻し、なんでもない風を装う。机の上に手袋が放ってあることに気づく。それを取ろうとして偶然、彼女と手が触れる。
「失礼」
Ecce homo!
足取りを崩して壁にぶつかった僕を、鉱物学者と生物学者が振り返る。
僕はバラバラに散った自分をかき集め、こけつまろびつメイドの後を追う。
今まで出会ったことはないのだ。こんなに少なく、完璧に小さい数字には今まで一度も。
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