1.真木(まき)

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1.真木(まき)

   彼女は雨が好きだった。  どんなに傘を勧めても。  にっこり笑って濡れていくような人だった。  ◇◆  どこまでも厚い雲が空を覆っている。  天からは絶え間なく雨が地上に落ち続けて、まるで白い膜のようだ。  ぼんやりと空に視線を投げる。  駅の改札口に向かう上り階段から5メートル。  一心に駅に向かう人々から外れた場所で、ぼくは立ち続ける。  足を包んだデニムは、雨に濡れて色が変わっている。  ひとしきり降られたら家に帰ろう。  もう少しだけ。  この雨だけが、天の彼女に続いている気がするから。 「これ、よかったら使ってください」  振り向くと、綺麗にたたまれた折り畳み傘。  大ぶりな傘を差し、凛々しい眉の彼は真新しいスーツを身に着けている。  新入社員なのかな。  朝から、こんな濡れ鼠に声をかけるなんて、親切な男もいたもんだ。 「ありがとう。でも、大丈夫」  お礼を言って片手をあげる。  一瞬だけ笑顔を向けて、雨の雫を頬に受ける。  君は早く会社に行かないと、遅刻しちゃうよ。  口に出さずにそう思いながら。 「ちょっ!あんた、昨日もずぶ濡れだったじゃん!!」  ぐい、と腕を引かれて。  あっと言う間に、ぼくは彼の傘の下にいた。 「え⋯⋯。ええっ!」  ぼくの腕を取って、彼はずんずん歩き出す。  雨の吹き込まないアーケード下。  店はまだ開いていないから、歩く人もろくにいない。  鞄から出した真新しいハンドタオルで、いきなり髪を拭かれた。  混乱した頭でぼくは彼に言った。 「君こそ、もう会社に行った方がいいよ」  イケメンから、ものすごい目で睨まれた。 「新入社員のくせして、さぼっていいの?」  駅のカフェでモーニング。  窓際の二人席に座ったから、ガラス越しに忙しなく行き交う人々の姿が見える。  冷えた身体に熱いコーヒーがしみていく。 「くちびる⋯⋯、色が戻った」 「え?⋯⋯ああ」  彼も温まったのか、ほんのり頬が赤い。 「なんで、毎日濡れてるの?」  心を射抜くような真直ぐな瞳。  言わなくてもいいのに、なんだか無性に話してしまいたくなる。  この目には嘘をつけない気がした。 「姉の供養」  去年の6月。  雨で視界が悪かったと運転手は言った。  傘もさしてないから、人がいるとは思わなかった──と。  カツン。  ソーサーに軽くぶつかる小さな音。  カップを置く彼の手が震える。 「ごめ⋯⋯」 「気にしなくていい」  そんな顔させたいわけじゃないんだ。  優しい人だね。ありがとう。 「無理やり傘を持たせればよかったな、と思う日もある。  派手な傘を差してたら、車に()かれることもなかったかもって。  でも、雨に濡れていくのが好きな人だったから。⋯⋯仕方ないよね」  ──真木(まき)、おいで。雨が降ってきたよ。  ──ねえさん、雨がふってきたら、みんな、おうちの中にはいるんだよ。  ──あら、そんなこと誰が決めたの?  楽しそうに笑って、駆け出す人。  いつまでも子どもみたいな人だった。  前を見たら、何か言いたげな彼の顔。  きっと、優しい人に囲まれて、大切に育てられてきたんだね。  皴一つないワイシャツときちんとプレスされたスーツを見ればわかる。  もう少ししたら、大丈夫。 「心配してくれて、ありがとう。雨が降る間だけだから⋯⋯」  もうすぐ梅雨が明ける。  夏が来るまで⋯⋯少しだけ、待っていてほしい。  あれから、ぼくは、毎朝傘をさしている。 「風邪をひいたらお姉さんが悲しむでしょう」って。  新品の傘を、いきなり彼にプレゼントされたから。  彼と一緒にコーヒーを飲んだ日から、2日後。  同じ時間に駅に向かうと、彼は出会った場所に立っていた。  ぼくと目が合うと、ぺこりと頭を下げてくる。 「あ⋯⋯おはよ」 「これ、使ってください」  ぼくの手に傘を無理やり握らせて、答えも聞かずに階段を上っていく。  いや、そんなこと気にする人じゃなかったよ。  土砂降りの雨の中でダンス踊るような人だったんだよ。  彼の真剣な顔を見たら、そんなことは言えなかった。  新品の傘はブランド品だった。  傘を開いたら、ひらりと落ちてきたメモ。  几帳面な字のラインアドレス。  捨てようと思ったのに捨てられない。  パソコンデスクの脇のボードに張り付けた。  そうだなあ。  梅雨が明けたら連絡してみようか。  姉のことも伝えよう。  土砂降りの雨でダンスする姉弟の話を聞いて。  君は、どんな顔をするだろうか。  駅のカフェで傘の御礼にコーヒーをおごって。  彼の名前を聞こう。
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