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10.真木
もう、どれだけここにいるのだろう。
エアコンの風が緩やかに流れている。
寝起きのぼんやりとした頭で室内を見渡す。
朝と晩の感覚が、日を追うごとに鈍くなっていく。
カレンダーも時計もない部屋。
前からなかったのだろうか?それすら、よくわからない。
柔らかいベッドの中で体を丸める。
背中に感じていた温もりはなく、冷えた素肌に薄いタオルケットを纏った。
足も良くなったのだから、いつまでも栄に面倒をかけるわけにはいかない。
もう自宅に帰る、と言おうとした矢先だった。
「俺と、ここで暮らそう」
微笑んだ栄の優しい言葉は、ゆっくりと自分の中に染み込んでいく。
「雨に打たれていたお前と、一緒に濡れていられたのは俺だけだろう?」
そうだ、栄だけだった。
ほの白い膜のように光る雨の中で、一緒につき合ってくれたのは。
どこか昏い、熱のこもった瞳に頷こうとする自分がいた。
「お前が好きなんだ」
ここは居心地がいい。
栄の胸の中で、何も考えずに過ごせばいい。
親鳥の翼の中にいるような安心感が、わずかな思考を奪い取っていく。
「一度、家に帰る」
あの時、なぜ自分はそう言ったのだろう。
⋯⋯帰らなければ、と思った。
帰って。
デスク脇のボードに張り付けてある。
連絡をすると言った。
メモを取ってこなければ。
⋯⋯彼に。
誰に。なにを?
切れ切れな言葉が渦を巻く。
──家に帰ろう。
栄は、週末に一緒に行こうと言った。
待てない。
のろのろと起き上がり、着替えをする。
シャツを脱いだ時に、体中に散らばる小さな痕に気付いた。
栄は行為の最中に痕をつける。まるで所有の証のように。
自分の持ち物はほとんどない。
財布を確認すると、金を使うことすらなかった事に今更ながら驚く。
ベッドを整え、部屋を出た。
自分の分のコーヒーを飲んで、台所の食器を片付ける。
玄関に立てかけてあった傘を、躊躇なく手に取った。
部屋のドアを開けた。
エレベーターで1階まで下り、マンションのエントランスから外に出る。
「え⋯⋯?」
目が眩む。
夏、だ。
「いつ⋯⋯!こんな?」
真っ白な光が体を射る。
何度も目を瞬く。
まぶしい。
突き抜けるような青空がそこにあった。
湧き上がるような入道雲。
ミンミンミン⋯⋯とセミの鳴き声が一際高くなる。
ここに来たときは、梅雨は明けたけれど不安定な天気だったはずだ。
まるで、季節が一気に変わったようだ。
ふらふらと歩きだしたところで、呆然として立ち尽くす。
じりじりと肌に焼けつく日差しに汗がじわじわと噴き出す。
栄は、部屋から出るなとは言わなかった。
時間の感覚がない部屋で、自分で選んでここにいた。
「ま⋯⋯き、さん」
耳が、小さな声を捉えた。
声のした方を振り向くと、スーツ姿の男が、そこにいた。
淡いブルーのワイシャツに紺のスラックス。
半袖にネクタイをきっちり締めている。上着と鞄を持っているのは、仕事の途中なのだろう。
「⋯⋯げん」
少し会わないうちに、痩せただろうか?頬の線がそげた気がする。
ドサッと音がして、玄の足元に、鞄が、続けて上着が落ちる。
「あ、げん、うわ⋯⋯ぎ!」
言い終わらないうちに、駆け寄ってきた玄の力強い腕に抱きしめられた。
熱い息が耳にかかる。早鐘のような鼓動が伝わってくる。
骨が軋んで、息ができない。
「げ⋯ん!げん!!」
必死で、胸を叩くように手を動かす。
げほっ、ごほっごほっ。
息が苦しくて、涙が出る。
「⋯⋯死ぬ、死んじゃうって!!」
抱きしめられていた力が緩んで、急に息が楽になる。
えふっ、ごほっ、ごほっ。
咳き込みながら、前を見た。
「え。⋯げん?」
見上げた玄の目は真っ赤だった。
頬を両手で包まれる。
「ほんもの」
確かめるように、大きな手がぼくの頬を何度も撫でた。
「玄⋯⋯くすぐったい」
凛々しい玄の眉が、へにゃりと下がる。
まつ毛が震え、瞳がぎゅっと閉じられた。
「ずっと、探した⋯⋯」
頭の上から小さな呟きが聞こえる。
「連絡⋯⋯待ってたのに」
「あ⋯⋯ごめ!!スマホ、だめになっちゃったから。連絡できなくて、ごめん」
もう一度、抱きしめられた。
うつむいた玄の頬から零れ落ちるものが、ぼくの頬に幾つも落ちた。
玄は、手を離してくれなかった。
スーツ姿のサラリーマンとデニムにパーカー姿の男が、真昼間から手をつないで歩く。
駅までの道のりは、夏の陽にじりじりと照らされ、焼けつくようだった。
「玄。⋯⋯恥ずかしいよ。手、離して」
「嫌だ」
玄は、きっぱりと言って、つないでいた手を強く握り直した。
「離したら、どこかへ行っちゃうかもしれないから」
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