248人が本棚に入れています
本棚に追加
12.栄
真木がいない。
真木がいない。
⋯⋯まきが、いない。
自分の中から何かが抜け落ちていく。
◆◇
帰宅した部屋に人の気配はなかった。
ベッドメイキングがされ、台所の食器も洗われている。
家に帰ると言っていた。
真木の家に行ってみるべきだろうか?
電話が鳴る。
表示を見て、出るのを止めた。
何度も鳴り続けるのが腹立たしい。
「俺だ」
「栄?ようやく出た。ねえ、あの子、いるの?」
「⋯⋯⋯⋯」
沈黙の意味がどう伝わったのか。
「王子様は迎えに来た?」
「⋯⋯どういうことだ?」
「浜辺にいた王子様がたまたま店に来たから、お姫様の居所を教えただけ」
体中の血が沸騰する。目の前にいたら殴りつけていたかもしれない。
迎えに来た?
あの男が、真木を?
通話を即座に切って、部屋を出る。
むっとするような夏の空気と闇の中を、真木の家へと車を走らせた。
「栄?」
マンションのドアを開けて真木の姿が見えた時、安堵する自分がいた。
どこかで真木が消えてしまうんじゃないかと思っていた。
後ろで一纏めにした茶色の髪がふわりと揺れる。
片づけをしていたのか、腕まくりをしている。額には汗がにじんでいた。
「黙って出てきて、ごめんね」
「真木」
帰ろう。今すぐに。
細い腕を取って、そう言おうとした。
真木の栗色の瞳に、一瞬、強い光が宿った。
「栄⋯⋯。ぼくは、行かない」
「真木⋯⋯」
「入って」
真木に促されて、廊下を歩き、リビングに入る。
部屋は開け放たれ、夜風が通っている。
あちこち掃除したのだろう。床は磨かれ、干されたタオルがベランダにかかっていた。
部屋の中にいるのは、真木一人だ。
男の影がないことを確認する自分に嫌気が差す。
「栄、夕飯、まだでしょう?」
「ああ」
「簡単なものだけど作ったんだ。一緒に食べよう」
真木がテーブルに並べたのは、サラダとゆで卵とおにぎりだった。
「これ、全部真木が?」
「うん。いつも栄に作ってもらってたから、久しぶりすぎて何買っていいのかもよくわからなかった」
少しだけ形が崩れたおにぎりは、ちょうどいい塩加減だった。
サラダには不揃いのキュウリ、丁寧に千切られたレタス。
不器用なのに几帳面な真木らしいな、と思いながら口に運ぶ。
真木の苦手なトマトも入っている。
「トマト、嫌なんじゃなかったのか?」
「⋯⋯うん。栄はいつも入れないでくれたけど、ちょっと食べてみようかなって」
そう言いながら、真木はゆで卵をつるりと剝いた。
以前は俺が剝いていたのに。
自分の中に、ふっと苛立たしさと焦りのようなものが渦を巻く。
「はい」
「え?」
「栄の分。いつも剝いてくれてたから」
真木の細い指先から渡される卵の白さが眩しくうつる。
「真木。俺は⋯⋯」
嫌なわけじゃなかった。
卵を剥くことも。お前の世話も。
むしろ、全部俺がやりたかった。
真木の人差し指が軽く唇に触れて、俺の言葉を阻んだ。
「ちゃんと、食べてからね」
嗜なめるように言うその顔が好きだ。めちゃくちゃにキスがしたい。
ゆで卵は、見事な半熟だった。
食後のお茶を飲みながら、俺は言葉を探していた。
昼間の熱気は去って、少しだけ冷えた空気が静かな空間に満ちている。
部屋で自分の帰りを待っていた真木と、目の前にいる真木は違う。
わずかな時間のはっきりした違いが、じりじりと胸を焼く。
甘い言葉で。
優しく縛って。
ずっと離さない。
そう決めていたのに。
「さかえ」
隣に座った真木が、穏やかに俺を見ていた。
「今までありがとう。感謝してる」
真木の頬に手を伸ばす。
自分の手がわずかに震えているのがわかった。
真木がそっと、俺の手に自分の手を重ねた。
「栄が嫌なわけじゃない。ぼくは、栄に救われたんだ。あの日、栄が声をかけてくれなければ、どうなっていたかわからない」
真木は、ゆっくり静かに言った。
「でも、これは⋯⋯恋じゃない」
たまらなかった。
真木が俺から離れていく。
腕を思わず引き寄せて抱きしめた。
細い肩がびくりと震える。
「お前が俺を好きじゃなくてもいい。お前さえいてくれたら」
側にいてくれさえしたら。
「栄。栄といたら、ぼくは一人で立てなくなる。栄の優しさに縋って、どこへも行けなくなる」
──雨の日々の中に、ずっと囚われていたように。
小さく呟く声に胸を突かれて、力を緩めた。
真木の瞳の中には、ただ静かな決意だけがあった。
真木に縋っていたのは俺だった。
拾ったつもりが、いつのまにか絆され、夢中になっていた。
「また、連絡してもいいか?」
車の窓を開けて、見送りに来た真木に聞く。
悪戯っ子のような目をして真木は言った。
「スマホ、まだないよ」
「⋯⋯待ってるから」
真木は頷いて、にこりと笑った。
最初のコメントを投稿しよう!