12.栄

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12.栄

   真木がいない。  真木がいない。  ⋯⋯まきが、いない。  自分の中から何かが抜け落ちていく。  ◆◇  帰宅した部屋に人の気配はなかった。  ベッドメイキングがされ、台所の食器も洗われている。  家に帰ると言っていた。  真木の家に行ってみるべきだろうか?  電話が鳴る。  表示を見て、出るのを止めた。  何度も鳴り続けるのが腹立たしい。 「俺だ」 「栄?ようやく出た。ねえ、あの子、いるの?」 「⋯⋯⋯⋯」  沈黙の意味がどう伝わったのか。 「王子様は迎えに来た?」 「⋯⋯どういうことだ?」 「浜辺にいた王子様がたまたま店に来たから、お姫様の居所を教えただけ」  体中の血が沸騰する。目の前にいたら殴りつけていたかもしれない。  迎えに来た?  あの男が、真木を?  通話を即座に切って、部屋を出る。  むっとするような夏の空気と闇の中を、真木の家へと車を走らせた。 「栄?」  マンションのドアを開けて真木の姿が見えた時、安堵する自分がいた。  どこかで真木が消えてしまうんじゃないかと思っていた。  後ろで一纏(ひとまと)めにした茶色の髪がふわりと揺れる。  片づけをしていたのか、腕まくりをしている。額には汗がにじんでいた。 「黙って出てきて、ごめんね」 「真木」  帰ろう。今すぐに。  細い腕を取って、そう言おうとした。  真木の栗色の瞳に、一瞬、強い光が宿った。 「栄⋯⋯。ぼくは、行かない」 「真木⋯⋯」 「入って」  真木に促されて、廊下を歩き、リビングに入る。  部屋は開け放たれ、夜風が通っている。  あちこち掃除したのだろう。床は磨かれ、干されたタオルがベランダにかかっていた。   部屋の中にいるのは、真木一人だ。   男の影がないことを確認する自分に嫌気が差す。 「栄、夕飯、まだでしょう?」 「ああ」 「簡単なものだけど作ったんだ。一緒に食べよう」  真木がテーブルに並べたのは、サラダとゆで卵とおにぎりだった。 「これ、全部真木が?」 「うん。いつも栄に作ってもらってたから、久しぶりすぎて何買っていいのかもよくわからなかった」  少しだけ形が崩れたおにぎりは、ちょうどいい塩加減だった。  サラダには不揃いのキュウリ、丁寧に千切られたレタス。  不器用なのに几帳面な真木らしいな、と思いながら口に運ぶ。  真木の苦手なトマトも入っている。 「トマト、嫌なんじゃなかったのか?」 「⋯⋯うん。栄はいつも入れないでくれたけど、ちょっと食べてみようかなって」  そう言いながら、真木はゆで卵をつるりと剝いた。  以前は俺が剝いていたのに。  自分の中に、ふっと苛立たしさと焦りのようなものが渦を巻く。 「はい」 「え?」 「栄の分。いつも剝いてくれてたから」  真木の細い指先から渡される卵の白さが眩しくうつる。 「真木。俺は⋯⋯」  嫌なわけじゃなかった。  卵を剥くことも。お前の世話も。  むしろ、全部俺がやりたかった。  真木の人差し指が軽く唇に触れて、俺の言葉を阻んだ。 「ちゃんと、食べてからね」  (たし)なめるように言うその顔が好きだ。めちゃくちゃにキスがしたい。  ゆで卵は、見事な半熟だった。  食後のお茶を飲みながら、俺は言葉を探していた。  昼間の熱気は去って、少しだけ冷えた空気が静かな空間に満ちている。  部屋で自分の帰りを待っていた真木と、目の前にいる真木は違う。  わずかな時間のはっきりした違いが、じりじりと胸を焼く。  甘い言葉で。  優しく縛って。  ずっと離さない。  そう決めていたのに。 「さかえ」  隣に座った真木が、穏やかに俺を見ていた。 「今までありがとう。感謝してる」  真木の頬に手を伸ばす。  自分の手がわずかに震えているのがわかった。  真木がそっと、俺の手に自分の手を重ねた。 「栄が嫌なわけじゃない。ぼくは、栄に救われたんだ。あの日、栄が声をかけてくれなければ、どうなっていたかわからない」  真木は、ゆっくり静かに言った。 「でも、これは⋯⋯恋じゃない」  たまらなかった。  真木が俺から離れていく。  腕を思わず引き寄せて抱きしめた。  細い肩がびくりと震える。 「お前が俺を好きじゃなくてもいい。お前さえいてくれたら」  側にいてくれさえしたら。 「栄。栄といたら、ぼくは一人で立てなくなる。栄の優しさに(すが)って、どこへも行けなくなる」  ──雨の日々の中に、ずっと囚われていたように。  小さく呟く声に胸を突かれて、力を緩めた。  真木の瞳の中には、ただ静かな決意だけがあった。  真木に縋っていたのは俺だった。  拾ったつもりが、いつのまにか(ほだ)され、夢中になっていた。 「また、連絡してもいいか?」  車の窓を開けて、見送りに来た真木に聞く。  悪戯っ子のような目をして真木は言った。 「スマホ、まだないよ」 「⋯⋯待ってるから」  真木は頷いて、にこりと笑った。  
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