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2.玄(げん)
「いたっ!」
目の前の彼が眉をしかめる。
細い指先から白く細かい殻がこぼれた。
緩いウエーブがかかった髪と瞳は、色素が薄い。
肌の色も女性なら羨ましがるだろうと思うような白さだ。
「爪の先で剝くからだよ。ゆで卵は指の腹で剝くんだ」
そう言って、皿の上でパリリと卵を剝いてみせる。
殻の中から、白くつるりとした姿が顔を出す。
淡い茶色のまつ毛が震えて、きれいな栗色の瞳が大きくなった。
「⋯⋯すごい!」
「いや、すごくないでしょ。普通でしょ」
にこにこ笑って卵を受け取る姿に、ドキンと胸が鳴る。
ゆで卵を剝けない人がいるなんて⋯⋯。
そして、そんな姿を可愛いと思うなんて、本当にどうかしたんじゃないかと思う。
1カ月前のことだ。
俺は、雨の中、ずぶ濡れでたたずんでいた彼を見た。
誰もが先を急ぐ朝、ただ彼は雨を見ていた。
まるで何か、遠いものを見るように。
彼に降る雨は銀の雫のようで、そこだけ世界が違って見えた。
仕事を終えて帰宅してからも、何とはなしに思い出す。
俺は鞄に、折り畳み傘と新しいハンドタオルを入れた。
翌日は、俺にとって、初めて会社をさぼったという記念日になった。
会社には熱が出たと言うお約束の嘘。
気遣ってくれた上司に心の中で手を合わせる。
次の日、体を労られたのをいいことに、仕事を速攻で終わらせた。
ターミナル駅で降りて、真上にあるデパートに飛び込む。
⋯⋯彼に似合う傘はどれだろう。
ほっそりした姿を思い浮かべながら、目の前の傘を広げた。
「大事な方への贈り物でしょうか?」
笑顔の店員が、控えめに声をかけてきた。
「あ⋯⋯ええっ?」
思わず、変な声を上げてしまう。
「すみません。とても真剣に選んでいらしたので…お手伝いしましょうか?」
大事な方、のフレーズがぐるぐると頭をめぐる。
大事?いや、だって、会ったばかりだし。名前も知らないし。
「軽くてしっかりしていて、あまり暗い色じゃなくて⋯⋯」
気づいたら口から言葉が出ていた。
「わかりました。お選びしますね」
店員はさすがプロで、何本かの傘を見繕ってくれた。
俺はその中で一番軽い傘を選んだ。
翌朝は、いつもより1時間早く家を出た。
普段使っている傘と新しい傘。
2本持って出勤する俺に家族は不思議そうだったから、さりげなくごまかす。
「同僚に借りた傘を酔って失くしたから。そのお詫び」
彼が同じ時間に来るかどうか、わからない。
毎日あの場所にいるのかもわからない。
ちなみに、昨日の朝は自分が早出で時間が合わなかったので確かめられなかった。
雨の中に一人立つ。
今日の雨は強くはないけれど、絶えずパラパラと降り続いている。
明るい灰色の空はどこまでも続いていて、そういえば空を見たのなんて久しぶりだと気づいた。
会社に入って、時間に追われて。毎日、ただ仕事を覚えるのに必死で。
⋯⋯彼だ。
立ち続けて30分経った頃、パラパラと降る雨の中を歩いてくる姿が見えた。
白いサマーニットに淡いブルーのジャケット。雨に濡れて色の変わった細身のデニム。
こちらを見て、大きく見開かれる瞳。
俺は、ぺこりと頭を下げた。
「あ⋯⋯おはよ」
やわらかな微笑みに心が揺れる。
「これ、使ってください」
驚いた彼が何か言いかけたけれど。
「風邪をひいたら、お姉さんが悲しむでしょう!」
そう言って、彼の手に傘を無理やり握らせた。
答えも聞かずに、すぐに階段を駆け上がる。
後ろを振り返る事なんか出来なかった。
息が荒い。動悸がする。
こんなにも緊張したことなんか、今までなかったから。
傘の中にLINEのアドレスを張り付けた。
彼は気づくだろうか。
⋯⋯捨てられてしまうだろうか。
こんな陳腐な方法じゃなくて、ちゃんと本人から連絡先を聞けばよかった。
彼からLINEに連絡が来たのは、早めの梅雨が明けてきっかり1週間がたった時。
それまでの時間は、俺の人生の中でもかなり長かったと思う。
気がつけば、LINEをちらちらと見てしまう毎日だった
仕事中にスマホを見ることなんて、今までなかったのに。
「彼女、いるの?」と、こっそり先輩に囁かれて慌てる始末。
◇◆
ゆで卵をぱくりと口にする彼は、どこか幼い子どものようだ。
「卵、剥いたことなかったの?」
「⋯⋯剥いてくれる人がいて」
少し恥ずかしそうにうつむいて言う。
「今まで、ずっと誰かに剝いてもらってたってこと?」
コクリと頷く。
これからは、俺が剝いてもいいけど。
思わず、そう言いそうになった。
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