夜釣り

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 私には少し変わった趣味がある。  父と兄の影響からか、幼い頃から私はそれが好きだった。  母は女の子らしい遊びをしてほしかったみたいだが、休みの日になると決まって父と兄が出かけるのに私はついていった。母と家で裁縫をするのは、手先が器用ではない私には苦痛でしかなかったから、選択肢がなかったというのも一因ではある。  ギラギラする真夏の太陽の元、足場の悪いテトラポットから海面に向かって竿を振るう。そう、私の変わった趣味は、釣りのことだ。  同性からはあまり理解してもらえないが、大人になっても釣りに行く習慣は抜けず、社会人になった私はとうとう休みの大半を女性らしくないこの趣味に費やしていた。  週末金曜日、九時を過ぎた頃家を出て、いつものポイントまで五時間車を走らせる。  片道五時間もかけるなんてばからしいと常人は言うだろう。しかし、兄が教えてくれた、絶対に大物が釣れるゴールデンポイントには、そのくらいの時間をかける価値があるのだ。  そもそも釣りには時間がかかるものであり、半日以上かけて移動するのもざらだから、五時間で到着できるポイントというのは十分近いといっていい。    長い間高速を使わずに下道を走り続けた私は、ようやっとポイント近くの駐車場に到着し、必要な道具をもって足場の悪い海岸沿いの岩場を歩きだすこととなった。  仕事の疲れや車の運転の疲労なんて、これから夜釣りができるというワクワクから脳が出すアドレナリンで何も感じない。一睡もしていないのに、大物を釣り上げるという興奮で目はギラギラしていて、眠れる気もしなかった。  よくランナーズハイとかいうものがあるが、この感覚はそれに近いのではないかと思う。  そのくらい、釣りをする私は日ごろの疲れなど一切感じない無敵人間だった。  ヘッドライトを付け、足元を照らす。  一歩ずつしっかりと足場を確認しながら、私は兄が教えてくれたスポットまで一人もくもくと歩いた。  学生のころまでは、夜釣りより日中に釣りをすることが多かったが、社会人になった私はもっぱら釣りは夜に限ると、馬鹿の一つ覚えのようにそれしかしなくなっていた。  真っ暗な海を左手に仰ぎながら進むのは、最初こそなかなか恐いものだったが、随分前にその恐怖にもなれてしまった。  ザパンという岩に波が打ち寄せる音と、足場を確認しながら一歩ずつ踏みしめて進む自身の足音だけを聞きながら、一心にポイントまでの道を歩む。  暗い道を照らすのは月あかりとヘッドライトだけだ。下手をしたら足を滑らせて真っ暗な海にダイブすることになる。  いくらアドレナリンが出ていようが、ライフジャケットを着ていようが、人がなかなか来ないスポットで海におっこちたらあえなく天国行きだ。  釣りはすきだが、釣りで死ぬのは御免である。    危険がつきものであるこの夜釣り、実は一度だけ友人を誘ったことがあった。しかし、暗い海が怖かったのか二度と行かないといわれてしまった。  後日理由を聞いてみると「あそこには自殺者がくるから」とよくわからない返答をしたもんだから、あいつは二度と誘ってやらないと心に誓った。しかし……夜の海が怖いのに無理はないと思う自分もいる。  確かに、私が釣りをするポイントには自殺目的で訪れるものもいるようで、何年かに一度遺体があがり、新聞に小さく載っているを見た事があるし知っている。  でも、だからといって大物が釣れるとわかっているポイントをみすみす代えるやつがいるだろうか。  答えは否である。 「ついたぁー」  間の抜けた声で独り言を吐き出して、背負っていた道具をその場におろす。やっと、ゴールデンポイントまでたどり着いた。  手早く道具を準備した私は、高まる鼓動を抑えつつ竿を振るう。  ひゅっという風を切る音とともにあっという間におもりにしたがって魚に変わるエサが真っ黒な海に吸い込まれていった。  あとは何度か同じ工程を繰り返して、魚がかかるのを待つだけだ。  何時間か魚を待つだけの時を過ごしたが、いつもなら釣れるゴールデンポイントから大物が釣れることはなかった。  仕方なく「場所をかえるか」とため息交じりにその場を離れようとしたとき、後ろから視線を感じて私は振り返った。  ヘッドライトで照らされた先には、どこにでもいるような小太りのおじさんがいた。  このあたりでよくみかける釣り人だ。何度か見たことがあるから間違いない。  使い古した灰色のキャップに、赤いライフジャケットに、釣り道具。私がよくみるおじさんの服装だった。  おじさんとは一度も話したことはないが、誰も来ないような穴場で出会う釣り人同士には、何とも言えない仲間意識が生まれるもので、私はおじさんに少なからず悪い印象は抱いていなかった。おじさんも私のことをきっと認識していたのだろう。私を見つけて視線を送ってしまったに違いない。  おじさんは私を見て会釈することも多く、私がおじさんがいるのを確認して頭を下げると、おじさんもつられるようにして頭をさげてくれた。 「いつもこのあたりで釣ってる人ですよね?」  思い切って声をかけると、おじさんは驚いたのか「え? あぁ」とあいまいに返してくる。私はかまわず続けた。 「今日あんまりよくないですよ。これからここで釣るなら様子見て場所かえたほうがいいかもしれません」  釣り場所が同じ仲間として、せめて時間を無駄にしないように、善意からの「呼びかけ」である。 「そうかい。ありがとうね」 「つれたらいいですね」  いいながら私は道具を背負って歩き出す。 「お嬢さんもたくさんつれるといいね」  そういっておじさんはしわくちゃな顔にさらに深くしわをつくるようににっこり笑った。そして手に持っていた懐中電灯をかちりとつけて私の足元を照らしてくれる。 「足場に気を付けてね。滑って海に落ちたら、もう浮かんでこられないから」 「気を付けます」 「君、来週もくるのかい?」 「どうでしょう? 風邪ひかない限りはきたいと思ってますよ」  なんてことのない他人同士の会話を終わらせて、私は別のポイントを探すためにおじさんに背を向け歩き出した。  その日はこれといった釣果をあげられず、正直がっかりしてしまった。  釣果をあげられなくても帰りの運転はあるもので、脳が出してくれていたアドレナリンがきれた私はどっと疲れを感じて、夜が白々と明ける中、車中で一眠りしてから家に帰ることになった。  次の週末になり、私は先週の屈辱を晴らすため、あのポイントへ足を運んでいた。  相変わらず脳が出す謎の力によって睡眠をとっていないはずの目は、深夜二時を回ってもギラギラしている。  ただその日は、あいにくの雨だった。雨の日によく釣れる魚もいるからこれはこれでいいのだが、装備を雨用に変えなければならないのと、足元が滑って危ないから、正直雨の日の、特に夜釣りはそこまで好きではなかった。  でも、何となく今日はいかなければならないような気がして、私はまた五時間かけてゴールデンポイントまでやってきていた。  何時間か雨の中釣りをすると、いいサイズのシーバスが一匹とキスが何匹か、アジなんて十匹以上つれる大釣果を上げることができた。雨の日の釣りもいいな、なんて、さっきまで抱いていたマイナスの感情が嘘みたいに思えた。  あまりに手持ちが多くなったから、これ以上釣るのはよくないと思い、私は自分があげた戦果が詰まったクーラーボックスを持ち、引き返そうとする。  しかし、やっぱりこの日も視線を感じて私は振り返った。  雨の日にも関わらず、そこには先週初めて会話をしたおじさんが立っていた。 「おじさん、雨の日もくるんですか」  驚いて私は挨拶もせずに声をかけてしまう。 「……そら、こういう日に釣りやすい魚もいるでしょう?」  なんて、おじさんは当然のように返してきた。  確かにおじさんのいうことにも一理あるから、私は少しの間黙ってしまった。おじさんはゆっくりと私の隣まで歩いてきて、その場に座り込む。 「おじさん」  私は名前を知らない彼をそう呼んで、私の大切なクーラーボックスを差し出した。 「これもって帰ってよ」  そういうと、おじさんはあっけにとられたように目を見開いてぽかんと口を開ける。私はでも、気にしなかった。 「つれなかったんだよね? 今日」  彼にいってボックスを押し付ける。彼は戸惑ったように「あ、いや」なんていった後、「ありがとう。でも悪いよ」と私の釣果を押し返してきた。  それでも私は引く気はなかった。 「いやいや、ほんと持って帰ってよ。ここおいておくから。全部おじさんにあげる。もって帰って食べて。ね?」  そういって、私はクーラーボックスを彼の隣に置き、その場を去った。  それから何日か経って、私が釣りをしていたあたりで死体があがったという記事を見かけた。  きっと、あのおじさんだろうと思った。  おじさんははじめからそうするつもりだったんだ。  だってあの日のおじさん、  竿、もってなかったから。
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