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いきなり水の中だなんて。泳ぎは得意じゃないのに。
驚いた私は目と口をぎゅっと閉じ、息を止めた。
「楓、大丈夫だ。わたしの側にいれば呼吸はできる。だから目を開けて」
混乱する私をなだめるように、信さんは優しく耳元でささやいた。
ゆっくり目を開けると、そこは確かに水の中だった。けれど不思議なことに、苦しくない。息もできる。目がやや慣れてくると、私と信さんの周りは透明の球体のようなもので守られていた。水の冷たさも感じない。
「信さん、これは……」
「楓にわかりやすく言えば、わたしが造り出した結界というところかな。水を通して力を発揮できるのでね。ここに連れてきたのは、楓に見てほしかったからだ、わたしが生まれた理由を、楓がわたしとの記憶を失った理由を。わたしのことを信じてくれるなら、見えてくるはずだよ。心を落ち着けて見てごらん」
彼を信じる……? 信さんの正体はよくわからないけど、悪い人じゃないことはよくわかっている。照れ屋で、少し見栄っぱりで、でも優しい人。再会したばかりだけど、信さんに惹かれ始めてる。
大丈夫、私は信じられる、彼のことを。信さんの言う通りにしてみよう。
水の中で、目を凝らして見てみる。私達を守る透明の球体の表面が、きらりと光った。光の中に、少しずつ何かが見えてくる。それはちょうど映画のスクリーンのように、見たことのない映像を映し出していく。
映像の中に、ひとりの女性が現れた。簡素な着物を着た女性で、豊かな黒髪を後ろでひとつにまとめている。それはテレビの時代劇に出てくる、素朴な村娘のような姿だった。
「信さん、見える、見えるわ。着物を着た女性よ。この人は誰?」
顔をあげると、信さんの顔がすぐそこにあった。懐かしむように、少し悲しげな表情で着物の女性を見ている。
「この女は、わたしの母親だ。母は普通の人間だったのだよ」
彼の声はわずかに、かすれていた。
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