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塵芥(じんあい)
ひとことォーひとことォー
吾(われ)は悪事(あくじ)も一言(ひとこと)、善事(ぜんじ)も一言、言い離(はな)つ神。
葛城(かつらぎ)の一言(ひとこと)主(ぬし)の大神(おおかみ)なり。
一言主については、古くは古事記、日本書紀に記載がある。
曰く、雄略天皇のが葛城へ狩猟に行った際に現れ、一緒に狩りを楽しんだという。
「吾(われ)は悪事(あくじ)も一言(ひとこと)、善事(ぜんじ)も一言、言い離(はな)つ神」との言葉から「言霊(ことだま)」の神、託宣の神という性質を持ち信仰を集めている。
1.
埼京線は荒川を超えて赤羽を過ぎたあたりで、やっと人が立てる乗り物になる。
それまでは、ぎゅうぎゅうと持ちつ持たれつ、寄られ寄りかかられ、重心を分散させながら音楽を聴いて思考を殺しているしかない。
下手に自我を持つと周囲に腹が立つ。やれ息が臭い、鞄が当たる。無駄に考えるのは得策でない。
浮間舟渡あたりから吊り革に掴まり、ようやく窓の外に目がいくようになった。
朱と橙の夕陽が差し込む。
席に座った乗客は大半が寝て、残りが携帯をいじっている。
濁ったゼリーの中にいるようだ。
今、ここに乗り合わせた誰よりも、俺の人間的価値は低い。
田舎から十八で越して来たときは家賃しか目に入っていなかったので、駅から家まで遠いという欠点に気がつかなかった。帰り道はほぼ街灯もひとけも無く、薄暗い住宅街を男の足で二十分歩くことになる。しんと静まり返り、音も無い。
ぼんやりと、今日の面接の出来を思った。
部屋に集められた四人の学生は、俺も含めだいたい同じくらいの学歴だった。面接官が分かりやすいようにしたのだろう、非常に意図が明確なグループ分けだ。
学生に対し正面に三十代ぐらいの若手社員が並び、ありふれた質問を繰り返す。
自己PRをしてください。志望動機をお願いします。
サークルで幹部をしていました。バイトでリーダーを任されました。御社の未来志向に惹かれました。フラットな社風に魅力を感じました。
二十二、二十三の何も考えずに過ごしてきた大学生に、特化した経験があるはずがない。あるはずがないから、試験勉強のように就職本を読み、ストーリーを作る。よく知りもしない人材会社の面接対策だって受ける。
それら全てをこなして学生が軒並み平凡に成り下がっていることを、企業もたぶん分かっている。分かっていながら、同じ質問をする。
なにもかもが茶番劇だ。
面接官はひよこの雌雄判別をしているだけだ。卵を産まない方をベルトコンベヤーに乗せてミンチにする。
俺がこんなことを感じながら面接を受けていることを、今日会った社員は分かっていたのかも知れない。
「きみは何が出来るの」
突然、他の学生にされなかった質問を受けた。
咄嗟にカッとなって、目の前が赤く染まるようだった。
見て分かるだろう。俺はこんな風だ。
平凡な顔をして、黒いスーツを着て、当たり障りのないネクタイで溶け込んでいる。
何もないように過ごしてきた。これからもきっとそうだ。
お前だってそうだろう、そのスーツを脱いで会社を出て、何が出来る。
出来るわけがないじゃないか。何も出来やしない。
正直な答えが一気に頭を巡り、喉元まで出かかる。
しかし一拍置いて、適当なスラスラと嘘が口をついた。まだ実力はないが、ポテンシャルに期待してほしいと言った。就職本にそう書いてあったからだ。
途端に面接官は興味を失った顔をして、分かりました、と答えた。
おそらく、俺はミンチゆきのベルトコンベヤーに乗せられた。
まだ家に着くまではしばらく歩かなければならない。
そこの曲がり角から通り魔が出て俺を刺してくれる妄想が、最近のお気に入りだ。
アパートが見えてくると、外階段に知った人影を見つけた。
「お疲れぃ。ライン送ったの見てないのかよぉ」
同じ大学の佐伯だった。手にスーパーのビニール袋を提げている。
ポケットに入った携帯を見ると、確かに連絡が来ていた。
チューハイ買ってきたから宅飲み、そっちに向かうと書いてある。
「既読付いてないのに来たのか。俺がバイトだったらどうするつもりだったんだよ」
「就活中なんだから、どうせろくにバイト入ってないっしょ」
それはそうだが。佐伯のこういう行動的なところはいつも驚く。
「まぁまぁ、いいだろ。今日俺も面接だったんだよ。ちょっと飲みたくてさ」
佐伯がにやりと笑った。
学生用のワンルームにそこそこ背のある男が二人座ると、余計に狭く感じる。
ポテトチップスを開けてレモンサワーを飲んだ。
家に一人いても晩酌しない方なので、酒を飲むのは久しぶりだった。
度数だけが高く、安いスピリッツの味がする。
「佐伯が面接なのは珍しいな。テレビ局の採用試験、まだ先だろ」
「まぁね。なんて言うか、滑り止め的なカンジ」
佐伯が言葉を濁した。
名の知れた企業をメインに適当に受けている俺と違って、見た目チャラそうな佐伯には明確に目標があった。テレビ局のディレクターになって、甲子園中継を担当したいといつも語っている。
本人は大したことないと言うけれど、佐伯は高校時代に甲子園に出場した経験があり、大学でも一年生まで野球をやっていた。とても期待されていたらしいが、練習中に肘を故障してしまい、今はぱったりと辞めている。
高校卒業の時にもプロ入りを打診されていたので、ケガで野球を離れたときはかなり残念がられたそうだ。
本人は「やっちまったものはしょうがない」と、かなりさっぱりしたものだが。
「佐伯でも滑り止めの会社とか、受けるんだな」
正直、かなり意外だった。
佐伯の甲子園中継への思いを聞く限り、将来テレビでない道を選ぶようには思えなかったからだ。
「やっぱり、狭き門ってやつじゃん、テレビって。大企業だけど、バカみたいな数の新入社員を採るわけじゃないからさ。そうなったら、就職浪人とか、既卒採用を目指すのかなって考えたら、オレやべえじゃんって焦った」
そう言って、ぐびりとチューハイを飲む。
「でも、やっぱりダメだな、そんな考えだと」
「ちょうど面接やってるからってだけの理由で適当にベンチャー企業受けてみたんだけどさ、志望動機聞かれて全っ然うまく答えられなかった。そりゃそうだよ、オレ受かったって行く気ないんだもん。前日に軽くホームページ見て来たくらいで、企業研究なんて一個もしてきてないし」
「やっぱりダメかな。ホームページ見るくらいじゃ」
俺はそれくらいしかしていなかった。今日面接を受けた会社もそうだ。
「たぶん、ダメっしょ、それは。企業研究とは言えないんじゃねぇの」
佐伯は当然、という顔をしている。
「関連する本を読んだりさ。OBに話を聞いたり、社内見学したり、自分が働くとしたら、って考えて準備するんじゃねえの。俺だっていきたいテレビ局とかはそうしてるよ。ま、今回は全然してないけど」
そういうものか、と思った。思ったが、自分がそれをやる姿は浮かばない。
なぜかは分かっている。就活にそこまでの興味も熱意もないからだ。
「今回ほぼノー勉で面接玉砕した俺が言うことじゃないけどさ。本多だって、そういう企業研究しないで面接行っちゃったら不安になっちゃうんじゃないの。だって、万が一採用されたりして、ぜってーその会社に行かないっしょ」
「いや、いくよ」
「えっ、なんで」
まったく理解できないという様子で目を丸くしている。
「何個も採用されたらどれかは断るけど、そこしか受からなかったらいくよ」
「なんで。じゃあさ、ラッキーで何個も受かったらどうやって選ぶの」
「会社の知名度とか、給料とか、福利厚生とかじゃないか」
そういうもんなの。佐伯が不思議そうに呟いた。
「俺なんかは、やりがいとか、どういう仕事が出来るかとか、考えちゃうけどなぁ」
「佐伯はそうだろうけどな。甲子園中継って目標があるし。俺には、そういうの全然ないよ」
やりがいもやってみたい仕事も、本当になかった。
ではなぜ就活するのかと聞かれれば、そういうものだからだと答える。
親もサラリーマンだし、それ以外の働き方を知らない。
毎日スーツを着て電車に乗る父親を見て、俺もそうなると思っている。
たぶん、ものすごくつまらないだろうと思う。でも、皆そういうものだ。
「本多だって、やりたい仕事とか、見つかるよきっと。今はなくても」
佐伯が力んだ。
ありがとうと礼を言ったが、その未来を誰よりも俺が一番想像できなかった。
「あー、明日のOB訪問面倒だなぁ。先輩にお願いしたのは俺の方なんだけどさ、野球関係のヒトだから厳しいんだよなぁ」
「いいじゃないか。OBがたくさん居て羨ましいよ」
「そうなんだけどさあ。自己PRのやり方とか、もう一回みて貰おうと思ってるから、今からダメ出しが怖ぇよ」
「佐伯の自己PRなんて、鉄板ネタじゃないのか。直すところなんてないだろう」
ずっと野球をやって結果を残していたが、ケガで挫折を味わった。今はそれを乗り越えて就活している。
そんな根性があるエピソードを出されたら、どんな学生も敵わないと思う。
「それが、あるんだよなあ」
あーあ、と言いながら俺のベッドに寝ころぶ。
「オレ、放送系の研究会とか入んないでここまできちゃったからさ。大手の広告代理店とかテレビ行きたい奴は、一年の頃からそういう研究会に入って伝手とかコネとか作るらしいんだ。オレは野球やっててタイミング逃したけど」
「だから、面接官の印象に残るのは自己PR一本勝負ってワケ。オレ的に鉄板ネタではあるけど、流石にブラッシュアップしないと負けるっしょ」
そこまでするのか。改めて、佐伯の熱意に驚いた。
自分の自己PRなんて、嘘はついていないものの就職本のパクリも良いところだ。それをブラッシュアップしようとは考えたこともなかった。
「本多は、明日また面接なの」
「いや、明日はSPIの試験を受けに行く」
「SPIか。俺、すげぇあれ苦手。あんな小学校の算数みたいなの、マジ忘れたよ」
「本当にな。現役の社会人に解かせて、出来るやついるのかって思うよ」
そうだよな、と佐伯が同意する。
一応参考書を買って一通り解いてみたが、十パひとからげの就活生をふるいに掛ける以外で、この試験に意味があるとは思えなかった。
つるかめ算を仕事で使うときなんて来るわけがない。
いつも俺たちのことをあからさまに学歴で差別しておいて、これ以上何の能力を見たいのかと思う。
「俺は、SPIのあとに受けさせられる、性格診断みたいなやつも嫌いだ。すごくバカにされてる気になる」
「そうかな。オレ、なんかただの心理テストだと思ってたっていうか」
「あれ、佐伯はいつも正直に答えているのか」
「えっ違うの」
「俺は違うよ。この会社が好きそうだな、って思うキャラをイメージして書いてる。商社やメーカーなら体育会系、ITなら論理的、みたいな。どこまで操作出来てるか、結果は分からないけどな。やってるやつ多いと思うよ」
「本多は器用だねー。面倒くさくてオレぜってー無理」
それからもあれこれと就活の愚痴を吐いて、気が付けばてっぺんを過ぎていた。
もう寝よう、ということになる。
「お前、当然のように泊まる気だよな」
「当たり前でしょ。パンツ持って来てるし」
「確かにパンツは貸したくないから、いいんだけどさ」
客用のふとんを一組引っ張り出していると、佐伯がそうだ、と言った。
「月末に有明でやる合同説明会、本多も行くっしょ」
「そのつもりだけど」
「じゃあ一緒に行こ。俺、方向音痴だから迷う気マンマン」
「そんなに迷う道じゃないと思うけど。まあ、いいよ」
以前別会場で似たようなものに参加したが、人に酔って疲れるだけだった。誰かと一緒に言った方が気が紛れるかも知れない。
それじゃあ月末に、と約束してその日は寝た。
大企業ほどWEBに専用の自己PRカードなるものを出せと言ってきて、しかも聞いてくる項目が異常に多い。さらにフリースペースを広くとって、今の時代に手書きを要求してくるところまである。
ネームバリューに目がくらんで受けるような奴は根性が無く志望動機も薄いから、質問事項と書く手間を増やしておけば諦めるだろうと思っているのが丸わかりだ。
もしくは、面接官の社員の負担を減らそうとでも考えているのだろうか。事前にここまでたくさん聞いてしまったら、もう現場の仕事ないだろ。実際、すでにたくさん自己PRに書きました、ということを面接でわざわざもう一度聞かれることが多い。
面接官をするんだったら、事前にこっちの履歴書くらい読み込んでおけよ。それとも、俺が書いたことをちゃんと覚えてるか確かめたいわけ。提出した用紙のコピーくらい取って、頭に叩き込んでから来てるに決まっているだろ。
会社としても学生にここまで質問を書かせておかないと不安なのか。オタクの社員は、どんな人材が必要か自分なりの質問が考えられないほど無能なんですか。社員の眼力は信用ならないんですか。
「そんなに荒れて履歴書書いている人、初めて見たよ」
笑いながらマスターがコーヒーのおかわりを注いでくれた。
住宅街にぽつんと立つ喫茶店は、散歩していて偶然見つけた。
恐る恐る入ってみたらヴィンテージ感があって雰囲気が良く、静かでそんなに人もいない。カウンターがメインでテーブル席は二つだけ、というのも潔くて好きだ。
コーヒーもうまい。俺はコクが深いタイプの豆が好きだったが、マスターがハンドドリップで淹れてくれるブレンドがぴったりだった。見つけて以来、行きつけにして頻繁に通ってきている。
マスターは若い。三十代くらいだろうか、何だか代官山や奥渋のような、シンプルだけどおしゃれでこだわりの強い男の感じがしてかっこいい。田舎者の俺には到底真似できないスタイルだ。
俺は書いていた自己PR用紙をマスターに見せた。
「これ、酷くないですか。今時手書きですよ。しかもこんなA4用紙半分も空欄を取って。たぶん、こういうのをレイアウトするセンスみたいなの見てるんでしょうけど、こんなの手帳を手書きでデコってる女子くらいしか頑張りませんよ」
「おお、本当だ。すごいね。これを書けって言われたら、困るよねぇ」
「本当ですよ。就職本のお手本には、適当にサークルメンバーとかで撮った写真を貼り付けて、これが俺です、周りに人が集まって元気な人気者です、ってアピールしとけって書いてましたけどね。もうその通りにやってやるつもりです」
マスターが目を丸くする。
「へえ、就職本ってそんなこと書いてあるの。書店で平積みされてて、今の学生さんはこんなのあるんだ、なんて思っていたけれど」
「でも、もう本に載っているんだったら、そういうのは面接官の人も読んできているんじゃないの」
「ありきたりにはなるし、面接官は同じような自己PRシートを何枚も見ることになるでしょうね。でも、こっちだって受けるのがこの一社だけじゃないんだから、こんなのに時間をかけていられませんよ」
「はあ、なるほど。何だか、どっちにも不幸な感じだねぇ」
腕を組んで唸っている。
確かにそう思う。画一的な方法で企業がリスクを取らずに面接をすると、学生にも会社にもだんだん負担が増えていく。
ぶっ飛んだ方法で面接する会社ってあるのかな。あっても、俺は受けないけど。
「マスターは、就活ってしたことあるんですか」
申し訳ないが、なんだかスーツを着た姿がイメージ出来ない。
「ないない。僕、こんなのだよ。あるわけないでしょ」
ケラケラと笑った。
「僕はね、学生の頃からずっと同じチェーンのコーヒーショップで働いて、卒業してからもそこにいて準社員みたいな扱いにまではなったけど、二年前に辞めて独立して今に至る、って感じだね」
「なんか、すごいですね」
好きなことや一つのことを突き詰めて仕事にするのは、すごい。
そもそも俺は就活以外の選択肢を考えたことが無かったから、自分の想像したルート以外の道を進んで仕事をしている人に会うのが新鮮だった。
「すごくなんてないよ。僕はバカだから、これ以外の道は無い感じだっただけ」
マスターは謙遜して苦笑する。
「でも、それで自分のお店を持っているのは、やっぱりすごいです」
「そうそう。その若さで一国一城の主になるのは、すごいことだよ」
奥の席から声が掛けられた。サラリーマンのおじさんが一人座っている。
「突然声を掛けてごめんね。面白そうな話をしていたから」
マスターお会計、と言ってお財布を取り出す。
「いえ、俺の方こそ、うるさくしてすみませんでした」
「いやいいんだよ、楽しませて貰ったしね」
そうだ、これ、とおじさんが小さな封筒を取り出した。
「先日旅行に行ってきて、お土産を買っていたんだ。資格試験を受ける部下にでも渡そうかと思っていたんだけど、君の方が必要そうな気がしたから、差しあげますよ」
受け取って封筒を開けると、お守りが一つ入っていた。
一言主神社と刺繡してある。
「奈良の神社で、一つだけ願いを叶えてくれる神社らしいんだ。良い仕事に出会えるといいね」
へえ、そんな神社があるのか。他人からお守りを貰うのは初めてだ。
「すごいですね。ありがとうございます、頂きます」
じゃあ、とおじさんは帰っていった。
俺もそろそろ帰ろうかと支度をしていると、マスターからこっそりと言われた。
「あの人が、君の分のお会計もしてくれたよ。頑張っているからって。常連さんだから、今度会ったらお礼をしてね」
お礼を言おうと慌ててドアを開けて姿を探したが、もう見えなくなっていた。
最近サラリーマンといえば面接官にばっかり会っていたから、大人に優しくされるのが久しぶりだった。
貰ったお守りは就活用の鞄につけて、大事に持ち歩くことにした。
日に一回、二回のペースで面接をこなしていたら、あっという間に月末になった。
就活用に買った手帳はどのページも書き込みがされている。土曜日曜も関係ない。
手帳の週ごとのページはバーチカルで時間ごとに区切られているが、予定は全て分刻みになってきていた。
東京をあちこち移動するときは電車の時間も考慮しなければ、気付けば面接会場の到着がぎりぎりになってしまう。さらに人身事故による多少の遅れや別ルートの行き方もある程度想定しておかないと、俺の性格的に心配で眠れなかった。
少しでも予定が空いた日があれば、居酒屋のバイトを入れるようにしていた。
就活は本当に金がかかる。特に交通費がキツイ。電子マネーに万札を入れる日が来たときはなんだか感慨深かった。
数週間ぶりに会った俺を見て、佐伯は驚いた様子だった。
「本多、ちゃんと飯食ってるの。マジで結構、痩せたね」
見て分かるくらいになったのか、と思った。
節約とスケジュールの関係で、昼飯はいわゆる携帯の総合栄養食をコンビニで買い、公園でもそもそ流し込むだけになっている。
そんなものでも食べてはいたので、一応ちゃんと食べてるよ、と答えておいた。
有明に着くと、駅の段階で案内板が設置されている。A3の紙を持って突っ立って誘導している人までいた。
黒いスーツの大学生の軍団が、一斉にひとつの会場に向かっていく。
「これなら、流石のオレも迷うわけなかったな」
佐伯は言った。
「でも、本多と来て良かったかも。なんかこんなにたくさんの就活生を見ちゃうと、これだけライバルがいるんだって思って、ぶっちゃけ、ちょっと不安になってたかも知れない」
「そうだな。気持ちは分かる」
全員同じように見えるこの集団の中には、飛び抜けてすごいやつだってたくさんいるんだろう。
大学一年の頃から就活に向けてインターンを経験していたり、場合によっては既に起業していたりするやつもいる。
バイトに明け暮れてのんびり三年を送ってしまった俺なんかとは、根底から違う。
「テレビ局は特設ブースで説明会をやるみたいだな。佐伯はずっとそこにいるのか」
「たぶんそう。話がつまんなかったら、テレビの制作会社なんかを見て回るつもり。本多はどこを見る感じ」
「大企業を中心に、適当に」
俺程度の学歴では、大企業が本社で開催する説明会の参加資格すら与えて貰えないことがある。そういう場合は、この合同説明会でしか直接話を聞く機会がないから大変なのだ。
説明会なんかで学歴差別があるのかと思うかも知れないが、大っぴらにしていないだけでかなりあからさまだ。実際、バイトで知り合った有名私大の就活生に話を聞くと、企業によってはその私大専用の説明会なんていうのも隠れて開催されているらしかった。OB社員を集めて学生の囲い込みをするようだ。しかも、有名私大ですら学内で学部ごとに差別されたりするらしい。
試しに大企業の説明会の画面を開いてみれば、俺には満席だと表示されるのに、その私大生がログインすると空席が表示されるケースが何個かあった。
ここまで明確に学歴で差別するなら、事前に応募要項にそう書いておいてほしいところだ。「うちは有名大学からしか採りません」と言ってくれれば、俺なんかが受けようとさえ思わないのに。
それじゃあ終わる頃に連絡する、と言って佐伯と別れた。
会場スタッフに頑丈な袋を渡されて、ぶらぶらと企業ブースを見て回る。
このタイプの合同説明会はすぐにこの袋がいっぱいになって、帰る頃には手がちぎれそうなくらいのとんでもない重さになる。企業側があれもこれもと会社案内を詰め込むせいだ。
どれも立派な装丁の案内ばかりだが、ホームページに載っていない情報がどれだけあるのだろう。全部QRコードで渡してくれたら、それでいい気がする。
食品メーカーのブースに行くと、既に就活生でいっぱいで立ち見状態だった。
お菓子やカップ麺なんかで名の知れた企業は人気が高い。学生も普段食べていて馴染み深いからだ。
食品メーカーの採用人数はそれほど多くないのに、面接ではかなりの就活生が殺到するという。そしてそれを振り落として選別するためか、業界的に圧迫面接が多いという情報もあった。
そんなことされたら、俺なら今後、絶対にそのメーカーの商品は買わないけどな。
バイト先で知り合った、今春アパレル系ベンチャー企業に入社した先輩は、百貨店の面接で酷い目に合ったらしい。それからというもの、ニュースでその百貨店の経営が厳しいと流れる度にほくそ笑んでいると言っていた。
食品メーカーの人事担当者は、俺たちと歳が近そうな若い美人だった。大企業で最初に会う採用担当は、だいたいこういう爽やかな美人かイケメンだ。
一通りの会社説明のあとは決まって質疑応答の時間が用意されている。ここで頑張って顔を売ろうとする就活生も多い。俺はやらないが。
体育会系風の男子学生が手を上げた。
「新商品の企画をすることは出来ますか」
後ろで見ている女子学生も、うんうん、という顔をした。
学生は皆、自分で新商品を企画する仕事がやりたいのだ。確かに企画開発は分かりやすく華やかで、何となくやりがいもありそうに見える。
「配属によります。新人から企画開発部になることもありますが、多くは各スーパーの販促営業をすることになると思います」
こんな風に、と人事の女性が写真を表示する。大画面に、スーツの社員がなにか作業をしている様子が映し出された。スーパーの陳列棚にお菓子専用の販促ポップを飾っている写真だ。
スーパーを営業して回って、大きなスペースで新商品を並べてくれないか交渉するのだそうだ。
質問した男子学生が、なんだ、という顔をした。
そういう泥臭い仕事は皆やりたくないようだった。
それから、電気メーカー、携帯会社、IT企業と節操なく見てみたが、どの企業ブースでも似たような光景が広がっていた。
学生はイメージしやすく、楽しそうな仕事がしたい。
辛そうなものは嫌だし、やりがいが無いのもつまらなく見える。
一方、企業が新入社員に求めるものは下積みだ。実力のない学生の将来性に金を出すのだから、コツコツと地味に大変な経験をさせてみるのは当然だった。だって他の先輩社員はそれを乗り越えて一人前になったのだから。大企業ほど、そう考える。
大手食品メーカーだって新人はルート営業が当たり前だし、大手携帯会社の社員も地方の携帯ショップで面倒なバイトの取りまとめをして、毎日理不尽な客に怒られる。
会社員は皆そうやって大人になっていく。
でも、俺たちはそれをやりたくない。
この溝は永遠に埋まらないような気がしていた。新入社員が三か月程度で辞めてしまうのも頷ける話だ。
それとも、このシステムに上手に迎合出来そうなやつだけが、見抜かれて採用されるのだろうか。
その会社のブースに立ち寄ったのは、ただの偶然だった。
人気企業の説明会での立ち見にいい加減疲れてしまって、ちょっと足を休めるつもりで座らせて貰ったのだ。
五個ほどパイプ椅子が用意されていたが、座っているのは俺だけだった。
「パンフレットをたくさん持っているね。そんなに話を聞いたら、疲れたでしょう」
いえ、そんなに。
採用担当者は他のブースと違って、四十代くらいの優しそうなおじさんだ。
少しだけ気が休まるように思えた。
「うちは、君が持っているような会社案内のパンフレットを作る会社です。業界では中堅だけれど、学生さんにはあまり知られていないね。従業員は百人もいないので、中小企業という括りになります」
ベンチャー企業の面接はもう何個か受けていた。でも、中堅の中小企業と出会うのは初めてだった。
思わず、手に持っていた他社のパンフレットを見る。高級そうな厚紙が使われ、プロのカメラマンが撮ったであろう鮮やかで綺麗な写真が並ぶ。
確かに、これだけのものを社内で全て用意出来る訳がない。企業側が金を払って専門業者に依頼しているのだ。
でも、やっぱり持ち歩くにはちょっと重い。こんな機会は無いので、素直に質問をぶつけてみることにした。
「今日は立派な会社案内ばかり貰いましたが、コンパクトにしたり、データにしたりはしないのですか。今時、紙ばかり使っているのはちょっと不思議で」
おじさん社員は、手厳しいね、と苦笑しながら教えてくれた。
「皆さん、自分の会社案内を作るとなったら、立派なものにしたくなるんだよ。君が言うようなデータ化も最近は進んできたけれど、違うコンテンツとして作ることにする会社もあるかな。例えばこれなんだけど」
商材のパンフレットを見せてもらう。最後のページにQRコードが印字されていた。
「このQRコードを読み取ると、先輩たちの座談会や、インタビュー映像なんかが見れるようになっている」
「一昔前は、会社案内をCDにしたりデータ化する会社もあったんだけれどね。就活生に見られないということで、結局紙に戻ってきてしまった。もっと良い媒体があるなら、そっちの方が良いかも知れないけれどね」
データ化しても、見られないことの方が多いのか。
大企業ならまだしも、有名でない会社なんかは紙の方が良いのはそうかも知れない。なんでも手に取って見られなければ意味がない。
「うちの会社も紙媒体だけでは先行き危ないということで、コーポレートサイトの制作も一緒にやっています。イメージが統一しやすいからね。合わせて、さっきの座談会のような動画撮影や社員の写真撮影のために、プロのメイクを入れてみたり、色々と企業努力をしているよ」
「わたしも人事部に来る前は現場で仕事していました。難しいけれど、楽しかった。会社は星の数ほどあるというけれど、千差万別だ。企業風土をうまくくみ取って制作物に落とし、お客さんに納得してもらう仕事は、やりがいがあったね」
おじさんは正直に話してくれているように聞こえた。
客先の会社に出向いて、社員の話を聞き、取材した結果を魅力的にまとめる。
今までで一番、具体的に仕事がイメージ出来た。
「御社独自の説明会と、採用のスケジュールを教えてください」
その言葉は自然に出てきた。
もっと話を聞きたいと思う、初めての経験だった。
夕方になって佐伯と落ち合う。
このまま帰っては就活生とサラリーマンの電車に押しつぶされるので、軽くメシを食って時間をずらすことになった。
少し歩いて見つけたファミレスに入り、袋に詰め込んだ会社案内を広げてみせた。佐伯が興味深そうに覗き見る。
「すげえ、見事に大企業ばっかりだ」
「そうでもないよ。今日は中小企業の案内も貰った」
最後に話を聞いた、例の会社の話をした。
「へえ、そんな会社もあるんだ。広告代理店なんかは自分のところで企画して会社案内作ってるかも知れないけど、他の会社はそうはいかないもんだよね。俺なんか、会社の『イズム』をよく知って欲しいからとか言って、本を貰ったこともあるよ」
そんなこともあるのか。流石に、俺は本までは貰ったことがない。
「でも、なんかいいんじゃない。うまく言えないけど、その会社、良さげな雰囲気。何より、本多が興味を持ってるのが分かったし」
佐伯はなぜか嬉しそうに笑った。
「お前の方はどうだったんだ。テレビ局の方にずっといたのか」
「ほとんどそうだったよ。ディレクターの人が座談会みたいなのを開いてくれて、色んな話を聞けた。ずっと話してたのは甲子園中継の担当の人じゃなくてバラエティーの人だったけど、制作の裏話なんか面白かったなぁ」
「やっぱさ、現役のテレビマンから、テレビ業界の今後みたいな話が聞けるのは嬉しいよ。俺たちの世代はテレビじゃなくて動画サイトばっか見るようになってて、最近のゴールデンタイムなんか、クイズか豆知識みたいな、年寄り受けしそうな番組しかないじゃん。編成時期に時間を埋めるためにやる衝撃映像特集なんて、動画サイトの投稿をコピペしてまとめたやつばっか。たぶんだけど、テレビって年寄り向けのメディアになっていくんだろうな」
「そんな中でも、どうやってテレビに希望を持って面白いものを作るかって、オレなんかは興味があるよ」
「佐伯はそこまで悲観的にテレビ業界の未来を考えているのに、どうしてネット番組の制作にいかないんだ」
不思議だった。楽観的に考えているなら分かるが、そこまで考えを巡らせておきながら、どうして沈む業界に行こうとするのか。まるで、死ぬのを分かりながら泥船に乗り込んで行くように見えた。
「恥ずかしい話なんだけどさ、たぶん刷り込みなんだと思う。俺は甲子園中継を見て野球を始めようと思ったから。無くなって欲しくないんだ、テレビが」
照れくさそうに、頭をかきながら言った。
そうか。佐伯は、仕事をする前から、テレビ業界を愛しているのか。
「それが、相手に伝わると良いな」
心からそう思う。
ありがとな、と小さな声が聞こえた。
それからは怒涛だった。本格的な就活のシーズンに入ったからだ。
日に二回だった面接のペースは、一日三回、四回が基本になった。
運悪く五つ面接がスケジュールされた日は、汗だくになりながら東京中を駆けずり回った。家に帰ってきて、最初の企業で何を話したかなんてまるで覚えていなかった。
朝から晩まで同じスーツで外を回って、携帯栄養食を流し込み、帰ればシャツとパンツを洗濯した後、泥のように眠る。そういう毎日の繰り返しだ。
どこに行っても同じことを聞かれる。自己PRと志望動機。
俺の自己PRはバイトで経験したリーダーシップの話だ。実際にリーダーシップがあるかなんて自信が無かったが、ストーリーとして筋が通るようには仕立ててあった。
志望動機は相変わらず、前日に採用ホームページを見て組み立てていた。佐伯の言うような企業研究なんてしていない。する時間がないということにして、避けていた。
こんな風に手当たり次第面接を受ければ、落ちる回数も多くなる。
もう、不採用を告げるお祈りメールを見ても、何の感情も湧かなくなっていた。
しかし面接も重ねれば慣れ、受け答えは上手くなる。書類さえ通れば、最初の頃のように一次面接で落とされるケースはだんだんと減っていった。
だが、最終面接がどうしても突破出来ない。
自信が無さそうに見えたのか、それとも生意気に見えたのか、さっぱり理由が分からない。ただ、最後の最後で企業の重役から好かれないことは事実だった。
これが続くと、いわゆる「持ち駒」が徐々に減ってきてしまう。選考が進んでいる企業が無くなってしまうのだ。
黒かったスケジュール帳に空きが出てくるのは、大変な恐怖だった。
慌ててよく知りもしない中小企業を受け、手数を増やす。ネズミがからからと回し車を回すように、嫌なサイクルに入っていた。
佐伯はテレビ局の面接を、何社か順調に進んでいるらしい。人づてに聞いた。
佐伯からはまた飲もうと誘いが来ていたが、無視するか断るかして、避けていた。
悔しかった。明らかに、嫉妬していた。
こうなることは予め分かっていた筈だった。佐伯と俺は全然違う。
なのに、何故俺ばかりがこんな状態でお前だけうまくいっているのか、会ったら言ってもしょうがないことが口をついてしまいそうだった。
誘いに乗らないようにしていたら、次第に連絡が来なくなった。
大企業の就職スケジュールが本番を迎えると、一次、二次面接はグループディスカッションばかりになった。これこそ、茶番劇の最たるものだ。
自己PRにリーダーシップと書いた奴は議長役をかって出るし、縁の下の力持ちと書いた奴はストップウォッチを手に取りたがる。
口が上手い奴と自信がある奴は、やたらと話をまとめたがる。「貴方が言っていたのはこういうことだよね」「それはつまりこういう意味だよね」
ただのオウム返し、ただの言い換えという国語問題が解けただけで、まとめ役が上手くいったとほくそ笑む奴もいる。
馬鹿馬鹿しい。数分の議論ではなんの解決策も出せない。途中で和を乱したり発言が適当な奴がいると、幼稚園のお遊戯会にもなれずグタグタになって終わる。
最後は、皆で健闘を称えあってお終いだ。素晴らしい議長でした。タイムスケジュールが正確でした。一位がたくさんいる駆けっこのようなものだ。
でも、学生が悪いわけじゃない。企業側がこんな見世物を求めてくるからだ。学生側はその通りに、ゲームの攻略本のような就活本を読みこんで、ロールプレイングをしているだけ。
こんなことで何の性格が分かるというのか。
「なんで、こんな奴らに混じって、こんなことしているんだろうって思うよね」
選考のディスカッションが終わったあと、同じグループだった学生と一緒に帰った。
「ディスカッションの同じグループで変な奴に当たると、俺の評価まで下がるから、マジで運だよ。今日は君がいて、あの出しゃばりをいなしてくれて助かった」
積極性を見せたかったのか、勝手に喋りだして独壇場にする奴がいた。俺と争って議長役を取れなかったから、焦ったんだろう。無様だった。
「一次面接にグループディスカッションを持ってくる会社、多いよな。最近の学生はコミュニケーションが取れないとでも思われているのかな」
たぶんそうなんだろう。悟り世代だのゆとり世代だの、適当なキャッチフレーズをメディアが好んでつけるせいだ。
「なんか、普通に面接してほしいよな。どんな性格で、その何を活かしたらどんな風に会社で活躍できると思っていて、だからこの会社に入りたいって。それだけでいいじゃないか。変に体験ワークショップみたいなことで時間取ったり、突拍子もない質問して驚かせたりしないで欲しいよ」
まったく同感だった。人事が暴走しているのか、会社との連携がうまく行っていないのかは分からないが、学生に寸劇を求めるような会社が多すぎる。
たぶん、学生が嘘をついていると気付いてきたからだ。なんとか本音を出そうとしてあの手この手で作戦を練って来る。
ここまで馬鹿にされて、そんなの見せる訳ないだろう。
社会に対して、会社に対して、酷くイライラした。
家に帰ると、メシも食わないのに度数の高い酒を飲むようになった。
電車に乗る度、同じ穴の狢をよく見かけた。
新品のリクルートスーツがくたびれ、揃ってやつれたような顔をしている。
俺と似たような毎日を送って、身体も心も擦り切れ、摩耗してしまっているに違いない。
それでは受かるものも受からない、と思った。
たぶん、向かい合う鏡のようなものだ。
だんだんせわしない生活が日常になると、どん底のような状態から、マラソンランナーがハイになるような脳内麻薬が出るような体調になる。すると、普段は絶対にしないのに、グループ面接で一緒になった学生と飲みに行くようにまでなった。
俺と同じような学歴のそいつは、俺と同じように手当たり次第に受けていた。
「親と一緒に住んでると、この時期、辛いよ。腫れ物触るように、こっちに気を遣ってくるんだ。メディアで、今期の就活は大変だって煽られてるからな。就活生を持つ親のセミナーにだって出かけてるんだぜ。笑っちゃうよ」
「そのくせ、俺が立派な会社に就職するって、疑いもしないんだ。テレビでCMを流すような会社に就職できるって、それが当然だって、本当に思ってるんだ」
最悪だよ、と呟いた。
自分の親のことを思う。
俺はたぶん、田舎の中では優秀な学生だった。
地元で全員同じ大学に通うのが当然の世界で、近所から唯一、東京に出してくれた。
それを親は誇りに思ってくれている。
だからこそ、自分の息子は皆が言うような有名企業に苦も無く就職できると、俺の親もやはり信じていた。
仕方のないことだ。自分が知っていて見える範囲のことしか、人は想像出来ない。
「ゆうちゃんは、大丈夫よね。安心しているわ」
何かのきっかけで、母親から電話が掛かってきた。
母さん。ごめん。俺、全然大丈夫じゃないよ。
合同説明会で出会った、例の中小企業の面接があったのはその頃だった。
会社は、IT系の企業が集う晴海にあった。晴海にあってメインのビルに社屋を構えていないところが、なんとなく「らしい」と思える。
時間があったので、隅田川にかかる広く大きな橋を渡ってみた。
潮風が心地良い。海の気配を感じるのは何年ぶりだろう。
もしあの会社に就職出来たら、ここに住むのも良い。そんな、早い妄想をした。
会社に着くと、おじさん社員が玄関口で待っててくれていた。
「ああ、合同説明会の君だね。印象に残っていたんだ。今日、面接を受けに来てくれて嬉しいよ」
にこにこと、人のよさそうな顔で案内してくれた。
そのまま個室に案内され、部屋に入って面接官を待つ。
ノック音に立ち上がると、おじさん社員が立っていた。
「最初の面接官は、わたしです」
あまりに茶目っ気たっぷりに言うので、思わず笑ってしまった。
それから、まるで座談会のように面接が始まった。
フラットな気持ちで、素のままに話が出来た。自己PRも、まるで普段自己紹介をするように自然な流れで受け答えが出来た。
おじさん社員は時折メモを取りながら、うんうんと頷いて話を聞いてくれた。
質疑応答でも、するすると疑問が湧いてきた。
どんな社員の方が多いですか。この仕事でどんな苦労がありますか。
どんな学生に入社してほしいですかと聞いたとき、おじさんは少し考えるようにしたあと、はっきりと答えた。
「一緒に働きたいと思える人に、入社してほしいですね」
ああ、この会社に入りたい。
就活をしてきて初めて、強くそう思った。
それから、慣れない企業研究に没頭した。
この会社にOBはいなかったので、業界を調べるのがメインだった。
ライバル会社はどこか。どんな未来がある業界なのか。本を読みネットで調べ、ノートにまとめた。
今まで何社面接を受けたか分からない程だったが、もちろんこんなに準備をしたことはない。
第一次面接の合格通知が来たときは、飛び上がるほど喜んだ。
大企業の二次面接でほぼ全滅し、同じ時期に採用選考が進んでいる会社は指で数えるぐらいになっていたので、合格通知を見ること自体、久しぶりだった。
もう、運命的だとすら思っていた。他の会社に落ちたのは、この会社に受かるためだったのだとすら考えていた。
この会社は次の面接が最後だ。俺はいつも最終面接で落とされていたので、入念に準備しようと誓った。
佐伯がテレビ局の最終面接まで進んでいるらしいことを、噂で聞いた。
俺の最終面接の結果が出次第久しぶりに連絡を取ろうと、ようやく思った。
眠れないほど準備して、最終面接の日を迎えた。
もう俺にはここしかない。この会社しか考えられないと思っていた。
会社の玄関に着いて、おじさん社員に会ったところまでは覚えている。
そこから先の記憶は、全て曖昧だった。
緊張が度を過ぎたのだ。
厳めしい顔の重役が相手だったような気がする。必死に受け答えしたように思う。
でも、どんなことを言ったのか、手応えは全く分からなかった。
どうやって家まで帰ったのかすら覚えていない。
うまくやれたのか。熱意だけは伝わった気がするが、どうだろう。
そんなことを考えながら、ぼーっと呆けたように過ごした。
一週間後、ポストに結果が届いた。
不採用だった。
気が付いたら、駅のホームにいた。
最寄りの駅は、飛び降り防止のホームドアが付いているから、ダメだと思った。
ホームドアの無い駅はどこだろう。田舎の方は、まだ付いてないかな。
埼京線をずっと下って、川越まで着いた。
思ったより川越駅は広く、人も多い。ここもダメだ。
良い場所を探さなければ。そのまま家に戻ることにした。
薄暗いアパートが見えると、外階段に人影がある。
佐伯だった。
「お前全然連絡返してくれないからさ。来ちゃったよ」
いつかのように、スーパーのビニール袋を提げている。
今、一番会いたくない相手だった。
「悪いけど、帰ってくれないか」
自然と声が硬くなる。
「嫌だ。話したいことがあるんだよ」
「聞きたくないんだけど」
「嫌だ。伝えておきたい」
「帰れ」
「帰らない」
だんだんと声が大きくなる。もう何もかもが嫌だった。
「帰れって言ってるだろう!」
一番大きな声で叫んで、道路に向かって佐伯の身体を軽く押した。
本当に、軽く押しただけだった。
なのに、佐伯の首がガクンとのけぞり、その状態で立ったまま動かなくなった。
ビニール袋に入っていたチューハイが道路に落ちて、中身が漏れる。
「どうしたんだよ」
変なところを押してしまったのか。いや、軽く押しただけだぞ。
ひょっとして、首でも折ってしまったんじゃないだろうな。怖くなって、何度も呼び掛けたが答えない。
しばらくそうていたが、突然、ぐいっと音がするように首が動き、俺の方を向いた。
佐伯は目をつぶったままだ。
ひとことォーひとことォー
吾(われ)は悪事(あくじ)も一言(ひとこと)、善事(ぜんじ)も一言(ひとこと)、言い離(はな)つ神。
葛城(かつらぎ)の一言(ひとこと)主(ぬし)の大神(おおかみ)なり。
そう、朗々とした声が響いた。
ごう、と風が吹く。
孔(こう)丘(きゅう)盗(とう)路(せき)俱(とも)に塵(じん)挨(あい)
そう言ってまた、ガクンと首をのけぞらせた。
さっぱり意味が分からない。何が起きた。普通じゃない。
分からないが、何だか佐伯をこのままにしておくのはまずい気がする。
肩を掴んで揺さぶり、何回も大声で呼び掛け、やっと気がついた。
「あれ、何かすげぇ首が痛い。あれ、オレ、どうしたの」
「どうしたのじゃねえよ。大丈夫かよお前」
「なに、なに。何があったの。あれ、オレ、本多に会いに行かなくちゃって思って来たんだけど。そうだ、伝えたいことがあったんだった」
「いや、分かったから。それは今度ちゃんと聞くから。なんか今日変だから、家に帰って早く寝た方が良いよお前。なんなら布団貸すけど」
えっ、そうなのと言う。佐伯は何も覚えていないようだ。
泊まっていくかと聞くと今日は帰るらしいので、女子のように駅まで送っていった。
「なんかごめんな。チューハイの缶も落としちゃうし」
「いや、良いよ。あとで掃除しておくから。疲れてたんだろう」
もう変なことが起こって、色々溜まっていた思いも全部吹っ飛んでいってしまった。
改札口をくぐる姿を見送って、真っ暗な家への道を歩く。
何だったんだろう、あれは。何だか、佐伯じゃないみたいだった。
言葉遣いも変だったし。何かにとり憑かれたような。背中がぞくりとした。
あまりにびっくりしたせいなのか、不思議と言われた言葉は覚えている。
急いで家に帰ってネットで検索してみることにした。
「一言(ひとこと)主(ぬし)、と言っていたな」
割と簡単に見つけられた。神様の名前らしい。
良いことも、悪いことも、一言で言う神様。言霊の神様。
奈良に神社があるらしい。随分ここから遠いな。
ひとこと。奈良。なんか聞き覚えがある。なんだっけ。
はっ、と思い立ち、就活用の鞄をまさぐる。
「これだ」
いつか、喫茶店でサラリーマンに貰ったお守りだった。
表面に「一言主神社」とある。サラリーマンは、奈良に旅行に行ったと言っていた。
「なんでこのお守りが」
このお守りを貰った話なんて、佐伯にしたことがなかった。
偶然あの喫茶店に佐伯がいたのだろうか。いや、あの場には俺とマスターと、サラリーマンの三人だけだったはずだ。
そもそも、佐伯はこの神社を知っていただろうか。分からないが、あの場での、何かにとり憑かれたような様子は異様だった。
まさか、このお守りが何か影響したっていうのか。なんで佐伯に。
そう言えば、他にも聞きなれない言葉を言っていた。
「コウキュウトウセキトモニジンアイ」
こっちは聞いた音に自信がなかったので検索に手間取ったが、何とか調べがついた。
お酒が大好きな杜甫という中国の詩人が、友人に宛てて贈った詩の一説。
孔(こう)丘(きゅう)盗(とう)路(せき)俱(とも)に塵(じん)挨(あい)
孔子も泥棒も最後は皆死んで塵芥に変わるだけ。人生を思いきり楽しむべきだ。
そのあと、詩はこう続く。
こうは言ったが、これを聞いて悲しむ必要はない。生前に逢えたのだから、
今、盃を口にすることが一番だ、と。
ああ。
身体の力が全て抜ける。
そのまま、だらりとベッドに寄りかかった。そっと目を閉じる。
誰が佐伯の口を借りたのかは分からない。幽霊なのか神様なのか分からない。
でもこれは確かに、佐伯が俺に贈ってくれた言葉だった。
翌日、カーテンを開けて、窓を開いた。何か月かぶりだった。
「さて、どうしようかな」
ざっと部屋の掃除と洗濯ものを片付ける。心が荒れると部屋が荒む。親から聞いた言葉だったが、まさにその通りの状態だった。ゴミ袋が何個も出来る。
昼頃までかかって、なんとか人が住める状態にまで出来た。思ったより疲れる。
「なんか、うまいコーヒーが飲みたいなぁ」
「久しぶりだね。最近顔を見ていなかったから、実は気にしていたよ」
サラリーマンにお守りを貰った喫茶店に行ってみた。以前は週に一度は顔を出していたので、そう言われるのも仕方がない。
「就活が忙しくなって、なかなか来れなくなってしまって。うまいコーヒーが飲みたくなって、来ちゃいました」
「そう。それでうちを思い出してくれるのは、嬉しいな。何にするのかな」
「いつもの、ドリップコーヒーで」
はい、と言ってマスターはにっこりと笑った。
待っていると、とぽとぽとお湯が落ちコーヒーが淹れられて、いい香りが店全体に漂ってくる。
時間がゆっくりと流れている気がする。こういう時を過ごすのは大事だ。疲れていた心まで洗われるようだった。
「マスター、俺、就活に失敗したんです」
言いたくなかったはずの言葉が、するりと口から出た。
「えっ、そうなの」
マスターがびっくりした顔をする。
「なんか、勝手にいい知らせが聞けるもんだとばかり思っていたよ。だって、すごく頑張っていたからさ」
「僕は全然詳しくないんだけど、就職活動の時期ってもう終わってしまったのかい」
「はい、大企業のものはほとんど。あとは、学生が集まりにくい業界なんかは通年で募集してますけど、今年度の就活を続けている企業は、もう数が少ないですね」
「そうなんだ。就活って短期決戦で大変なんだね」
感心したように、「お疲れ様でした」とコーヒーを出してくれた。
香りをかいで一口飲む。この味が好きだった。深くため息をつく。
「俺は大企業ばっかり狙って受けていたんですけど、途中で行きたいと思う中小企業に出会って。絶対そこで働きたかったんですが、昨日不採用の通知が来て、なんだか心が折れちゃいました」
「そうか。就活って恋愛みたいなもんだって言っていたお客さんがいたけど、そうなんだねぇ。相思相愛っていうのは難しいね」
就活と恋愛か。聞いたことはあるが、同じ土俵で比べるのは難しい気がする。
しかし、最後の最後で俺の想いが届かなかったのは確かだった。
「それで落ち込んでいた時に、昨日友達が突然家に来て。俺、荒れてたんで帰そうとしたんですけど、一つ言葉をくれたんです」
「なんて言われたの」
「孔(こう)丘(きゅう)盗(とう)路(せき)俱(とも)に塵(じん)挨(あい)。偉い人も泥棒も最後は皆死んじゃうんだから、人生を思いきり楽しめ、っていう意味です」
「へえ、初めて聞いたよ」
何だかすごく難しいけど、素敵な言葉だね、とマスターが言った。
「確かに、君のカリカリと履歴書を書く姿を思い出すと、そういう言葉を贈るのもわかるなぁ。僕、そんな風に真面目にやったことなんて無いかもしれないよ」
よほど酷い形相で自己PRを書いていたらしい。マスターが面白そうにケラケラと笑った。
「そうかな。マスターがコーヒーの勉強したときだって、真面目にやったんじゃないですか」
「それはそうだけど。でも、楽しんでやっているからね」
マスターは自分用にもコーヒーを淹れて、カウンターの奥のパイプ椅子に腰かけた。
「僕は勉強も出来なかったからさ。好きなことを好きなように、自分なりにやってきただけ。僕はね、仕事って楽しんで出来ないとダメだと思っているんだ」
仕事を楽しむ。想像がつかなかった。
満員電車で出会うサラリーマンは皆くたびれた顔をしているし、楽しんで会社に勤めているようにはとても見えない。
苦労して、嫌な思いをした分だけ給料が払われる。そういうもんだと皆分かって働いているんじゃないか。
「だって、朝起きて夕方まで仕事をするんだよ。平日の寝たりご飯を食べたりする時間を抜いたら全部仕事だなんて、人生のほとんどを仕事に費やすじゃない。それなのに楽しんでなかったら、人生が楽しくないみたいですごく損だよ」
そう言われると、そうかと思えた。
つまらない顔でサラリーマンとして生きるのが当然のように思っているけれど、それが四十年、五十年先もそれが続くのかと改めて思うと、やはり気が遠くなる。
「でも、仕事を楽しんでするって、どうやるんですか。頑張って自分なりにそういうのを見つけないといけないんでしょうか」
俺が楽しんで出来る仕事ってなんだろう。まったく思いつかない。
そうだなぁ、とマスターが考え込んだ。
「たぶん、仕事を楽しむには二つ方法があると思う。一つは、僕みたいに趣味を仕事にしちゃうこと。もう一つは、与えられた仕事を楽しむように努力すること。どちらでも良いと思うけれど、二つ目の方が選択肢が増えそうだね」
与えられた仕事を楽しむようにする。すごく難しいことのように思える。
「俺、居酒屋でバイトしてて、お客さんに褒められたりしたら嬉しいし、そうなるように接客するのは楽しいと思ったことがありますけど。そんなことでいいんですか」
「そうそう、それって、すごいことだよ」
マスターが手を叩いた。
「そういう風に自然と楽しめるのは良いよね。コツは、なんでも『自分だったらどうやるだろう』って考えることだと思う。そうすると、その瞬間に与えられた仕事じゃなくて、自ら選んだ仕事になるよ」
これは受け売りだけどね、と恥ずかしそうに笑った。
自分ならどうするだろう、か。例の中小企業を受けたとき、自分が働いたらどうなるだろうと考えながら企業研究をしていた。そう言う意味では、あの時俺は就活を楽しんでしていたのかも知れない。
そうだ、と思いついたようにマスターが言った。
「自己PRだっけ。自分の長所を話してくれるやつ。ずっと履歴書に書いたり、練習したりしていたよね。あれ、僕にも聞かせてくれないかな」
「えっ、自己PRをですか」
いいからいいから、とにこにこしている。
参ったな。散々色んな企業で話して来たから、そらで言えるけれど。
いつも通りに話そうとして、あれっ、と気付いた。
自分の仕事を楽しんでいて、仕事の楽しみ方を教えてくれたマスターに、この就活用の自己PRを話すのは違う気がする。
自己PRの内容はかなりしっかりとまとまっていて、まるきり嘘というわけでもないのだが、これが俺の本当の長所かと言われると少しズレてきていた。これではただの、「上手なお話」だ。
これか。これが、俺が最終面接を突破出来なかった理由だ。今更分かった。
俺は、口では採用して欲しいと言っておきながら、腹の中では面接官をバカにしていたんだな。就活ってこうだろ、こう話せは良いんだろとタカをくくって、冷静に本当の自分について話していなかったんだ。それを、長年仕事をしてきた社会人にまんまと見透かされただけだ。
自分の態度を思い出すとたまらなく恥ずかしい。顔に火が付いたようだ。
突然言葉に詰まった俺をマスターは待ってくれている。何か話さなければ。
震える息で、ひとつ深呼吸をした。
「俺は」
今までで一番緊張している。
「俺は、今まで頑張って就活してきました。自己PRも、何も考えずに話せるくらい練習したものがあります。でもそれは、いわゆる就活本に沿って作ったもので、嘘ではないけれど、本当の俺の長所じゃないと今気づきました」
「俺の長所って何だろうって考えてみると、今はぴったりしたうまい言葉が思いつきません。でもたぶん、人が好きで、真面目なところなんだろう、と思います」
「人が好きで、真面目なところ」
そうか、とマスターが頷いた。
「はい。俺は人に会わない仕事よりは、誰かと一緒にやる仕事の方が好きだと思います。居酒屋のバイトは結構しんどいけど、バイト仲間と協力してお客さんに喜ばれるのは嬉しくて、なんだかんだ三年続けてます。これがやりがいっていうことなら、俺はこういう仕事にやりがいを感じることが出来る」
「真面目というのは、言葉は悪いけどクソ真面目というかバカ真面目というか、そんな感じです。勉強でも就活でも、これって決めたら言われた通りに勉強してきます。融通はあまり利かないんですが、その通りに最後までちゃんとやる、っていうのは出来ます。細かいところまで全部準備するから、多少完璧主義なのかも知れませんが」
そうかそうか、なるほどね。
うんうん、と何度もマスターが頷いた。
「すごく正直に話してくれてありがとう。よく分かったよ」
しばらく考え込んだように腕組みをしてから、マスターが質問をしてきた。
「ちなみに、給料とか福利厚生とかは、会社選びで重視する方かな」
「給料と福利厚生。どうだろう。今までは重要視してたんですけど、それも就活本とか周りが言っていたからっていうか。あるには越したことはないんだろうけど、よく分からないですね。給料も、一人暮らしでバイトしているから、今自分が生活するのに必要なのがどれくらいかは分かるけど、それ以上は何も」
「まあ、そうだよね。学生の頃には具体的に想像つかないよね」
「たとえばITとかWEB業界なんかは、一般的には将来性がある業界だって言われているよ。先行きの見通しが明るい業界のほうがいいって思わないのかい」
「そう思ってIT系のベンチャー企業を受けたこともありましたけど、僕自身はそんなに業界全体の成長には興味が無いって気づきました。俺、社会をどうにかしたいみたいな、マクロな視点があまりないんです。自分自身の成長には興味がありますけど、それはどんな仕事でも出来ることですよね」
「安定した企業とか、大企業がいいって思うのかな」
「それも、もう思わないですね。今から思えば、親が喜ぶから大企業ばかり受けていた気がしています。有名な会社だからって、俺に合う仕事があるとは限りませんから」
そうか。
マスターは少し考えて、君が良ければなんだけど、と話しかけた。
「うちで、バイトしてみないかな」
「マスターのところで、ですか」
「そう。そして、ゆくゆくは会社にして社員という扱いでも良いし、僕と共同経営者になってくれてもいい。どうかな」
どうかなと言われても、突然すぎる。共同経営者なんて。今まで考えたこともない。
「僕は店を開いたら、一日中ここにずっと居なければいけない。でも本当は、海外で豆の買い付けをしてお客さんに販売したり、他にも店を開くということをしてみたいんだ。だけど身一つじゃあ何も出来ない。ずっと、一緒に働いてくれる人がいないか探していたんだよ」
「それに、実は店を開いて初めて経営をしてみたから、お金のことに四苦八苦していてね。君は経済学部だったよね。しかも真面目で完璧主義。お金まわりを任せるにはぴったりの人材だ。その辺のこと、僕に教えながら引き受けてくれると、すごく助かるんだ」
「代わりに僕は君にコーヒーについて教えるよ。ブラック企業にはならないように頑張るけれど、僕と君の二人きりだから、福利厚生とかその辺は甘くみて貰えるとありがたい。自由ではあるけどね」
「バイトというところから始めて、僕と一緒にこの店を大きくするのを仕事にしてほしいんだ」
びっくりした。突然、目の前の扉が開けた気がした。
一気に将来の想像を巡らせる。
喫茶店のバイトを始めて、コーヒーの知識を一から勉強する。豆の選び方、挽き方、焙煎の方法、ドリップの方法。ひとつひとつマスターから知識を学んでいく。
俺はこの店の経理の効率化を模索する。簿記の資格は取っていたから、最低限
の知識はあると思う。でもどうだろう、実地の経理はまた別なのかな。いずれにしろ、たぶん試行錯誤の毎日だ。色んな人に話を聞いて勉強しなければいけない。
マスターが豆を買い付けに行きたいと言えば、海外にお供することもあるだろう。南米やアフリカ、行ったことのない海外へ行き、商談をする。英語を仕事で使うようになるかも知れない。
新しい店舗を出したいとなれば、マーケティングも勉強しなければ。一店舗目の今から考えて、どの立地に出すのか、ブランディングはどうするのか、マスターと一緒になって積み上げていく。
この喫茶店を大きくする。この味を色んな人に楽しんでもらうのを自分の夢にする。
理由もなく、すごく、ワクワクした。
「やりたいです」
まるで脊髄反射のように口から出ていた。
大企業どころか、フリーターからのスタートだ。安定も福利厚生も何もない。
リスクがあるかも知れない。というか、リスクしかない。だけどきっと面白い。なにより、こんな機会はもう二度とない。
「本当かい、嬉しいよ。一緒に頑張ろう」
カウンターの向こうからマスターが手をのばして来た。かたく握手をする。
なんだこれは。こんなことがあるなんて。
今まで散々就活で苦労してきたのは何だったのかと思うぐらい、マスターとの
話はとんとん拍子にまとまってしまった。
俺はたまたま、疲れてうまいコーヒーが飲みたくなっただけだ。
それで、人生の先輩のマスターに愚痴を言っただけ。
それが卒業後にもここで働くことになるなんて。それも、将来を見据えて。
バイト先の先輩が就職が決まった時、どうしてその会社に採用されたって思いますかと聞いたことがあった。そしたら先輩は、迷わず
「ご縁だね」
と答えたのだった。
今、それを強く感じていた。
「あっ、そしたら、一つお願いを聞いて欲しいことがあって」
「何かな。僕に出来ることなら、なんでも」
「初心者でも出来るうまいコーヒーの淹れ方を、教えて欲しいんですけど」
夕方になって佐伯が訪ねてきた。
「昨日は本当にごめん。なんかオレ、マジで記憶がすっぽり抜けてるっぽくて、途中から何も覚えてない。なんか変なことしたよな」
「いや、こっちは大丈夫だよ。お前の方こそ、身体は平気なのか」
「うん、全然元気。今日、缶チューハイも買いなおして来た。こぼしたやつの片付けもさせちゃって、マジでごめん」
「だから、良いってば」
佐伯にしてはだいぶしょんぼりしている。なだめながら部屋に招き入れた。
「缶チューハイも良いけど、今日はこれからハンドドリップでコーヒーを淹れるよ。酒は冷蔵庫に入れて置いて、ちょっと付き合ってくれないか」
「え、全然いいよ。コーヒー好きだし。何それ、そんな本格的な道具持ってたの」
まあね、と言って道具を見せる。
マスターから借りてきたものだ。
「仲良くしてる喫茶店のマスターに、初心者でも出来る淹れ方を教えて貰ったんだ」
「それって、行きつけの喫茶店があるってこと。なんか、いいな、大人じゃん」
佐伯の目が輝いている。
道具一式を準備して、紙のフィルターにコーヒーの粉を入れる。さっき喫茶店で挽いてきたものだ。
それを平らにならして、高いところから線になるように、細くお湯を落とす。
焦らずに、少し蒸らす。
そして、「の」の字を描くようにさらにお湯を落としていく。フィルターを通してコーヒーが抽出され始めた。
「こんなに丁寧にコーヒーって淹れるんだ、すげえ。オレほとんどインスタントで済ませてるよ」
「俺も普段はインスタントコーヒーだけどな」
テーブルに向き合って、出来たコーヒーを佐伯の前に差し出した。
あれから付きっ切りでマスターに練習に付き合ってもらった。たぶん大丈夫だと思うけれど、結構緊張する。
いただきます、と一口飲んで、声を上げる。
「なにこれ!ちょーうまい。初めて飲んだよこんなの」
「ありがとう」
素直に褒められると、結構照れる。
良かった。あとでマスターに報告しよう。
「ちょーうまいけど、突然どうしたの」
佐伯がきょとんとした顔をしている。
「なにが」
「いや、なんでコーヒー淹れてくれたのかなって」
それは、いわゆるお礼だった。
佐伯は全然覚えていないだろうけど、佐伯がくれた言葉で俺は救われたのだと思う。
でもそれを一言主のくだりから佐伯に説明するのは面倒だったし、なにより俺が照れくさい。
別にいいだろ、と濁しておいた。
コーヒーを飲み終わって、佐伯の話を聞くことにした。
「本多。オレな、テレビ局に採用されたよ。甲子園中継ができる局だ」
「そうか。おめでとう」
どうせ、そんなことだろうと思っていた。
「良かったな。ずっと頑張っていた甲斐があったじゃないか」
「うん、ありがとう。本多に、一番に伝えたかったんだ」
「そうか。俺も、聞いて嬉しいよ」
「うん。それで、本多の方は、どうなの」
俺はね。
「俺はね、全滅だったよ。大企業もだめだったし、一番行きたいって思える会社が見つかって、すごく頑張ったんだけど、そこもダメだった。不採用通知が来たんだ」
「色々頑張ったんだけどな。全部、ダメだった」
佐伯には敵わないと思いながら、密かに対抗心は持っていたらしい。
自分の負けを口にするのは、少し勇気が入った。
だが不思議と、気持ちは凪いでいた。
晴れやかとまではいかない。マスターからあんなに将来を見据えたバイトの話を貰っていても、やっぱりあの会社にまだ少し未練があるし、悔しい。
でも、自分なりに精一杯頑張った。仕方ないのだろうと思えるくらい頑張ったのは、誇れることだった。
佐伯から返事がないので待っていると、ぐずぐずと鼻をすする音が聞こえる。
「えっ、なに、お前泣いてるの」
「悪いかよ」
佐伯は号泣していた。
「だって、本多はすげえ頑張ってたじゃないか。俺なんかより何社も面接受けて、本だってたくさん読んで、すげえ準備してたじゃん」
「なんでだよ。なんであんなに頑張ってたのに、ダメだったんだよ。悔しいよ」
「なんで、皆、本多のこと、分かってくれないんだよ」
もう鼻水から涙から流し放題にして、佐伯は泣いていた。
「ありがとうな。親には泣かれるかもと思ったけど、まさか先にお前に泣かれるとは思わなかったよ」
言って、なんだか笑えてきてしまった。それにしてもこいつ泣きすぎだろ。
しばらく佐伯はぐずぐずしていた。なかなか泣き止まない。
「佐伯。俺ね、就活やめようと思う」
ぴたりと泣き止んだ。
「居酒屋のバイト辞めて、喫茶店のバイトをする。初心者の俺にコーヒーの淹れ方を教えてくれて、佐伯にコーヒーを飲ませるための練習に付き合ってくれた、行きつけの喫茶店だ。そのマスターが俺を誘ってくれたんだ」
こんな俺を見つけて、一緒にやらないかと声を掛けてくれた。他のどの会社にも要らないと言われそっぽを向かれてしまった、必要とされなかった俺だ。
「マスターが、店を大きくするって夢を話してくれた。俺は、あの店がすきで、あのコーヒーの味を皆に知って欲しい。そのための手伝いをするよ。卒業しても、喫茶店で働く」
俺になら自分の夢の片棒を担がせてもいいと思ってもらえた。今はまだ可能性の段階でも、きっとそうなると思って雇う決心をしてくれた。
「大学を卒業しても、最初の頃は見習いだからバイト扱いだと思うよ。なんせ、就活で目指してた会社とは大違いだよ。大企業どころかマスターはまだ個人事業主だし、俺も正社員じゃなくてフリーターだ。有名じゃないどころか、全然安定した仕事じゃない。でも、すごく楽しそうな仕事なんだ。自分の頭で何を仕事にするか考えて、日本中や世界中を相手にして仕事ができる」
この世にはつまらない仕事しかないと信じ、大人をナメきっていた俺に、仕事を楽しむコツを教えてくれた。
「俺、自分が仕事を楽しめるように働くって決めたよ」
全部一息に言い切った。
宣言すると、心からすっきりする気がした。窓から涼しい風が吹く。
「それ、いいな。すごくいいよ。オレも練習付き合うから、たまにコーヒー飲ませてくれよ」
「うん、お願いすることになると思う」
だいぶ日が落ちてきて、部屋が暗くなった。電気をつける。
「それじゃあとりあえず、買ってきてくれた酒を飲もうか」
佐伯と一緒に、冷えた缶チューハイのタブを開けた。
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