白を生ず

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白を生ず

2.  「このすっとこどっこいがァ!」    喉元の、限りなく口に近いところまで出掛かっていた叫びを飲みこんだ私を褒めて欲しい。なんなら飲み込み過ぎてちょっと咳き込んだ。    だがこのすっとこどっこい男も腐っても同じ結婚相談所の会員、レストランで叫んで変な噂が立ち、こっちのお見合いの申し込みが減っては困る。私は見た目大人しそうに化けるのが猫又級に上手いので、現在申し込みがひっきりなしなのだ。  よって、ここも深窓の令嬢として乗り切らねばならぬと思い、必死で取り繕った。 「ちょっと体調が悪くなってしまって。帰らせて頂きます」 「それで、帰ってきちゃったってことっスかぁ」 毛先の傷みを確認しながら、目の前に座る棚田織江が語尾をのばした。 信じ難いことに、棚田織江は私の結婚相談所の担当職員である。さらに棚田織江という古風な名前を持ちながら、茨城県産の元ヤンだ。 初対面の時は棚田も皮を被ろうという気があったらしく、こちらに敬語を使おうと努力はしていた。していたが、あまりにあやしい敬語で「~そう、なんス、です」と、「~っス」が暴れ回っていたので、親切に「あんた元ヤンでしょ」と指摘してやったのだ。するとこの女、 「なんだ、バレちゃったんならしょうがないってカンジですよねー」 と、体勢まで崩して椅子にふんぞり返ったのだからどうしようもない。 どうしようもない女だが、棚田にも敬意を示すべき点が一つだけある。それは、若くして結婚して子供を育てているということだ。 十八でできちゃった婚して長男を産んだ棚田は、子供が小学校に通いだして手がかからなくなって、結婚相談所で働き始めたらしい。結婚適齢期を大幅に過ぎ、わざわざ金を出してこんなところに通っている私からすれば羨ましい話だ。 どうしてそんなに早く結婚できたのか聞いたとき、棚田は 「あたし、地元で『茨城の八海山』って呼ばれてたんスよ。だから余裕っス」 と答えた。なんだ八海山って。日本酒の銘柄だろ。しかも酒蔵は新潟だ。茨城の八海山なんて意味が分からない。ちょっと漢字が使われてる熟語を入れたかっただけだろ。いやそもそも熟語じゃない。色々と突っ込んだが、「何かかっこよかったんで」で済まされてしまった。 「だいたい、過去の恋愛遍歴しつこく聞かれたくらいで怒ってちゃだめっスよ。なんたって澤田さんは顔はキレイなんスから、相手の男性からしてみたら、この子経験豊富なのかなって気になっちゃっただけですって。まあ、勢い余ってセックスの経験まで聞いてきたのは、失礼なヤローっスけど」 「いやまさにそこでしょ。失礼極まりないでしょうが」 思い出すにも腹立たしい。水の一杯くらいぶっかけてから帰るんだった。 「他はまあまあ条件に合う相手だったんスから、、あんまし文句言わないで付き合っちゃえばいいのに」 「客に向かって文句と言うな」 棚田を軽くたしなめて、ひとつ溜息をついた。 結婚相談所の狭いブースの中での月一の面談が、棚田と私の接点だ。 「あんな奴は論外として、そもそも『ちょっとイイな』くらいで簡単に付き合うわけにはいかないのよ。結婚相談所で紹介された相手と付き合ったら、それはもう結婚前提にしたお付き合いじゃないの。見る目も厳しくなるのが当然よ」 「でもぉ、たった三回デートしたくらいで相手の男のこと分かりますかね。あたし、三か月前以上付き合ってこの人と結婚すると思ったのに、相手が浮気して別れたことありますよ」 「それいつの話よ」 「中二っス」 「そりゃ参考にならんわ」 中学生の「結婚したい」なんておままごとでしょ。 しかし、三回会った程度で相手のことは分からないというのは、納得出来る言葉だった。自分に男を見る目があるとは思えない。事実見る目がないから、ここにいる。 「ていうか、澤田さんが相手に求める条件ってのが難しすぎなんスよ」 棚田が私のプロフィールをディスプレイに表示する。 「なに、年収一千万以上、身長一七五センチ以上、次男、専業主婦希望、親同居不可って。テンプレ過ぎ。あたしこの前研修に行きましたけど、マジそんなのレアキャラだって習いましたよ。澤田さん申し込みが多いからたまにレアキャラもカードに混じりますけど、顔面が普通の会員さんなら、ソッコーでこっちが目ぇ覚まさせなきゃいけないとこっていうか」 「やっぱり、そうなのかしら」 薄々感づいてはいたが、高望みを認めたくはなかった。 今まで言い寄ってきた誰とも結婚せずにここまで来たのだ。これが高望みだとするなら、二十代のときに結婚を匂わされたあいつとも、また別のやつとも、うだうだ考えずにさっさと結婚を選択すべきだった、ということになってしまう。 なにより、一度提示した条件を下げていくのが嫌だ。まるで女としての私のランクまで下げられるようじゃないか。 「ここの相談所の会員さんを悪く言う気はないですけどぉ、いい年して結婚してない年収一千万って、あんまろくな奴いないっスよ」 「悪く言い過ぎでしょ。でも、まあ、そうよね。そんなにいい条件なのに売れ残ったってことは、何かあるのよね」 「そうそう。あたしの担当の会員さんで言えば、マザコンとか、なんかヘンに女を敵だと思ってるとか、自分が四十代なのに二十代の女としか付き合いたくないとか、そんな感じっスね」 「それは嫌ね」 全部ご遠慮願いたい。 「ていうか、年収って絶対必要かなぁ。うちの旦那は年収四百万あったかな、って感じだけど、あたしが働けばまあやってけるかなって。澤田さんも正社員で働いてるんだから、十分ぽくないっスか」 「だって、結婚したのに働くの嫌なんだもの」 「いまどき、東京で専業主婦なんてマジでいませんよ」 棚田は笑った。 「だいたい、専業主婦なんてマジ暇じゃないっスか。あたし子供が保育園行きだしてから、昼間家に一人になっちゃってマジでつまんなかったっていうか。だから働くって自分から旦那に言いましたもん。澤田さんは、仕事辞めて何がしたいんスか」 何って、なんだろう。考えたこともなかった。 ただ、痴漢だらけの満員電車に揺られて通勤する毎日が、なんとなく嫌だっただけだ。 では通勤が楽な仕事に変えればいいのかと言われると、それも嫌だった。 三十五の何の特技もない女を、簡単な経理と事務程度で雇ってくれている今の会社には感謝しかない。いまさらこの年で転職が上手くいくとは思えなかった。 東京で、専業主婦の友達は少ない。少ないから想像ばかりが先に立つ。昼にはママ友と二千円くらいのランチに行くんじゃないの。なんだかすごく優雅に思えた。 専業主婦になって、仕事を辞めて何がしたいのか。正直何も咄嗟には思いつかなかったが、棚田に言い負けるのが癪なので適当にひねり出した。 「ヨガとか」 「ヨガって」 鼻でバカにされた。 「ドラマのイメージに流され過ぎ。ていうか、ヨガなら今から習えばいいじゃないっスか」 それはそうだった。定時で上がれるのだから、時間はいくらでもある。 それでもやっていないのは、実際には興味がないだけだ。 「奥さんに専業主婦を望む会員さんもいますけど、最近は共働きでっていう会員さんも増えましたよ。澤田さん、なかなか条件が下げられないなら、なんか妥協できそうなところから妥協してみましょうよ」 棚田はとんでもない女だが、こうやって客に打診してくるあたり、優秀な相談員と言えるのかも知れなかった。 「結婚相談所の職員がススメるのもなんですけど、澤田さんネットアプリで婚活とかやった方がいいっスよ。鉄砲は当たる、ってやつです」 下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるって言いたいのね。誰が下手な鉄砲だよ。 帰りがけに棚田がそう言ったので、家に着いてからさっそくダウンロードしてみることにした。 変な話、いかがわしい出会い系のイメージがあって避けていたが、今時の若者はみんな利用しているらしい。棚田の友達もやっていると言っていた。 もちろん、既婚男性がお遊びに使うこともあるらしいから、キャバ嬢との恋愛代わりにされないよう見極めながら進めなければならないのが、少し面倒だが。 軽く調べると結構な数のサービスがあるようだ。とりあえず会員数が多そうなところを選ぶ。 新規登録のボタンを押す。入力項目が多い。 やっとのことで登録し終えると、とたんに、「あなたをイイネしてくれた男性がいます」と表示された。 一件や二件の話ではない。少し放置すると、あっという間に百件の応募が集まった。 これは私がイケてるって考えていいの。それとも、女の会員は皆こんな経験をするわけ。もしそうだとしたら、この数の応募から、これはと思う宝石を見つけて相手するの、結構しんどいんじゃないの。 ざっと申し込みがあった男性の面々を見てみると、皆自撮りに慣れていないのか、なかなかツッコミどころの多い写真がたくさんあった。 職場のトイレの鏡を反射させて自撮りしたり、ものすごいドアップで撮っていたり、謎にモノクロでかっこつけていたり、高級外車の写真をプロフィールにしていたり。 結婚相談所のお見合い写真って、大事だったのね。今更分かる。 プロが撮ったようなフィルターを掛けたイケメンの写真はイイネの数が異常についていたけれど、どうせサクラの会員なんだろうとすぐに分かった。こういうのに騙されちゃダメなんだわ。くわばらくわばら。 これは比較的まともそう、と思った男性のメッセージを受け取る。当たり障りない返信をすると、すぐにやり取りが始まった。 「よろしくお願いします」 よろしくお願いします。 「飲みに行きませんか」 早くないか?二言目にそれは、流石に早くないか? なに、これは恋愛とか結婚をしたい人同士のアプリなんでしょ。もうちょっと会話を楽しむとかしないの。ひょっとしてこれが普通なの。 ていうかこれ、適当に居酒屋に連れ込んで酔わせて、タダでヤリたいだけじゃないでしょうね。絶対そうでしょうが。せめてもうちょっと隠そうとしなさいよ。 なんだかどっと疲れてしまった。 こういう、相手するのも意味が無さそうなメッセージを、いちいち返さないといけないわけ。その中からマシな人を見つけるの。なんか地道すぎる。 エクセルでマクロ組んで、自動で返事の文が表示される仕組みを作ろうかな。 そこから、ある程度の定型文と違う反応が返ってきた時だけ、アラートが鳴るような仕組みを作ったりして。それまでは手動のAI的に、あらかじめ設定しておいた文章とやり取りをしてもらうみたいな。ツイッターのbotみたいにシステムを組めばいいのかな。あれこれとアイディアが回る。 やめだ、やめやめ。自分の性格的に、婚活アプリの相手とのやり取りよりこっちのシステム作りが楽しくなってしまうのは目に見えていた。 実は既に、結婚相談所でお見合いまで進んだ場合、その日の服装と何を話したかを記録して、ローテーションが出来るように簡単なシステムは組んであった。 月に何人も会って同時進行していると、誰がどんな顔で何を喋ってその時何を着ていたか、記憶がさっぱりなくなるからだ。 もちろん、勤務先と年収、その他もろもろの条件を書いておくのも忘れない。 そうして出来た一覧表をのちに確認して、男性ごとにシステマティックに評価点をつけて記録していた。 ここまでくると最早仕事だ。給料を貰いたくなってくる。 実際は、月の洋服と美容代のためにお金は減っていく一方だけれど。 こんな風に、面接官のように男性を見ているから婚活が上手くいかない。そんなことは分かっていた。分かっていたが、もうそういう風にしか婚活出来ない。 会社に着くと、新人で入ってきた佐藤君がミーティング用の机を拭いていた。 「澤田さん早いですね。おはようございます」 「おはよう。机拭いてくれてありがとう。佐藤君もいつも早いね」 まだまだ学生の雰囲気が抜けない、爽やかな男の子だ。可愛いね、と他部署の女性陣からそこそこ人気があるのを知っていた。 「僕はこれくらいしか出来ないですから」 そしてその人気を疎まれて、直属の四十代独身の男性上司から辛く当たられているのも知っていた。こういう嫉みは案外男性同士の方が根深く、出世が絡む分タチが悪かったりする。 実際、佐藤君は最初の頃の元気が無くなってしまっていた。 これは良くない傾向だ。 「佐藤君が綺麗にしてくれて、助かってるんだよ。はい、コーヒー」 ありがとうございますと言って、佐藤君が缶コーヒーを受け取る。こういう出費は必要経費だし、この部署の私の仕事だと思っていた。 「澤田さんだけですよ、僕なんかにこうやってコーヒーくれるの」 「あらあら。営業部の先輩は、気にしてくれているんじゃないの」 「一応、メシに誘ったりして貰ってます。僕は係長から怒られてばっかりなんで、その辺をちゃんとしろって、昨日の飲み会でも注意されたところです」 佐藤君が肩を落とした。だいぶ黄色信号だ。 彼の近くの先輩も、今の状態を歯痒く思っているらしかった。確かに、上司が新人に当たるのはもうルーティンのようなもので、過去に経験済みの先輩も多い。そういう面倒くさい上司をうまくいなして、目が向く方向を変えさせるのもこの会社に必要なスキルだ。きっと、俺ならもっとうまくやるのに、って思われているんだろう。 これはどうしようかな。私の後輩を使うか。 「なんだか疲れているみたいだね。佐藤君が早く帰れるとき、私と今田さんたちと飲みに行こうよ。ちょっとは話、聞けるし」 「本当ですか。水曜とか定時帰りの日なんで、ご一緒していいですか」 思ったよりぐいぐい来るな。今田さんのネームバリューだろうか。 「わたしは大丈夫だよ。他の子の予定を聞いてみるね」 「やった、楽しみにしています」 佐藤君は目に見えて嬉しそうにした。 「それは、エサをやりすぎなんじゃないですか」 今田さんにたしなめられた。 今田さんは入社二年目で、私の直属の後輩にあたる。二十代向け雑誌の中からそのまま出てきたような恰好と容姿で、男性人気が高かった。一方で、賢くさっぱりとして目端が利くので、こういう社内のバランス役をたまにお願いしている。 「そうかな。なんか最近元気ないみたいだから、気になったんだけど」 「それは確かにそうですけど。でも、佐藤君はまあまあ顔が良くて、これからも男性上司にこうやっていじめられたりするだろうから、これくらいは自分でなんとかして欲しいっていうか」 今田さんは少し唇を尖らせた。結構、佐藤君にからい。 「だいたい、もう澤田さんと飲みに行けるなんて、佐藤のやつ生意気すぎますよ」 「いやいや。今田さんの名前を出したら、佐藤君ずいぶん嬉しそうにしてたよ」 「何言ってるんですか、澤田さんとご飯に行けるのは貴重なんですよ」 分かってないなあ、という顔をされた。 「そんなこと言って、今田さんは私とよくご飯行ってるじゃない」 「だって私は仕事頑張ってますから」 そりゃ、そうなんだけど。 今田さんは、分かった、と手を叩いた。 「そしたら、佐藤と同じ営業部の角田係長を呼びましょう」 「角田係長って、私もお世話になってるけど、佐藤君に取ってみたら女性上司だよ。女性三人に囲まれて大変じゃないかな」 「これくらいの大変さは必要です」 当然だ、と言わんばかりだ。 角田係長の都合を聞くという仕事が増えた。しょうがない。 角田係長がひとりになった時を狙って、声を掛ける。 「澤田さんも大変だねえ」 「まあ、今田ちゃんと澤田さんだけでは、佐藤君にはご褒美が過ぎるかな。彼の上司にバレたら、それこそもっとやっかまれちゃうかも知れないね」 係長は顎に手を当てて考えている。 「よし、ここは面倒くさい女性上司の私が行くことで、バランスを取ってしんぜましょう」 「ありがとうございます。でも、係長が面倒だなんてこと、絶対ないですよ」 女性にして最年少で役職になった角田係長には、自分が新人の頃から本当にお世話になっていた。 「いやいや、上司が女性だっていうのは、男性陣にとってみると面倒くさいものらしいよ。まあ、分からなくはないけどね」 「そういうものでしょうか。私にとってみたら、男の人同士の方が面倒なことが多そうに見えますけど」 平たく言えば社内の権力争いになるのだろうが、小さいところでは班同士、部署同士で足を引っ張りあう光景は、なかなかしんどそうに見えた。 女性同士でいがみ合うことも無くはないが、最終的に対個人のいじめに収束する分、単純で分かりやすいと思っている。 「確かに、そう見えるかも知れないね。それはそうと」 係長が声を潜める。 「営業部に異動する話、考えてくれたかな。澤田さんなら、営業補助じゃなくても、十分にやっていると思ってるんだけど。私以外にも推薦する人たくさんいるよ」 「そんな、私なんかには勿体ない話だと思っています」 「だって、澤田さんは営業補助の仕事も出来て、こんなに部署内に目を配ってくれているじゃない。澤田さんが気を遣ってくれるからうまく回ってるんだってこと、皆に知らせてやりたいよ」 「ありがとうございます。そう言って頂けて嬉しいです。でも、営業補助も楽しいですから」 そうかあ、残念だなあ、と係長が言う。 男の社会に巻き込まれるのは、ごめんだった。 佐藤君は、下手に隠すより大っぴらに宣伝してまわる手法をとったらしい。 「佐藤君と飲みに行くんだって」 水曜になる前に、他部署の男性から言われるようにもなっていた。その都度、二人きりじゃなくて今田さんや角田係長も一緒ですよ、というのが面倒だ。 すると決まって、 「じゃああいつ、角田係長込みの女子会に行くってことか。それは大変そうだな」 と同情してくる。どうも皆、女子会に大変なイメージを持っているらしい。 そしてそれは、佐藤君の上司も同じだった。 「佐藤君、今日は、角田係長たちの女子会に誘われたんだろう。お前がもてなさなきゃならないんだから、早く行きなさい」 にやにやとして送り出す。いつの間にか、角田係長の女子会に名前が変わっていた。 「はい、精一杯頑張ります」 佐藤君が張り切って退勤準備をしている。今田さんが言うように、飲み会に係長を誘ったのは正解だったようだ。 今田さんが選んでくれた居酒屋は、ちょっと隠れ家っぽくてそのままデートに使っても良い雰囲気の店だった。 婚活でデートに連れて行かれる度に思うが、店選びはどう考えても男性より女性の方が上手い。相手に「気に入ってくれると思いますよ」と言われて期待して行けば、よく知るチェーン店だったなんてことはザラだった。 考えてみれば、男性同士で飲みに行くなんて大衆居酒屋やチェーン店で十分だから、店選びに気を遣うことが少ないのかも知れない。その点女性同士は女子会でも良い店を選ばなければならないから、おのずと知識が増えるのだろう。 「今田さん、すごく雰囲気の良いお店。流石だね」 褒めると、雑誌で見つけたんです、と嬉しそうにした。 適当にビールを頼んで飲み始める。すると一杯目が飲み終わる前に、もう佐藤君の上司の話になった。 「もう、本当に、なに考えてるか分かんなくて、困ってるんですよ。資料を頼まれて作っても、何回も何回もやり直しをくらってて。他の同期のやつでそんな目にあっているのはいなくて、俺だけなんです」 一人称も僕から俺に変わっていた。係長は苦笑いしている。 「まあ、彼も考えてることがないわけではない、んだろうけどねえ」 「佐藤君がさ、ガツンと実力を見せてやれば良いんだよ。そんな上司が何も言えないようにさ。そうですよね、澤田さん」 今田さんは結構スパルタ派だ。うーん、と悩むようにして、間をもたせながら考えてみる。 佐藤君の上司は意地悪で当たりが強くなっているのは否めないものの、まるきり理不尽に叱っている風でもなかった。何回もやり直しを求められているということは、提出したものが求めるレベルに達していないか、それとも全く意図とずれたものを提出されているか、だと思う。 たぶん、上司の中にある程度しっかりと求めるものがあって、その通りに佐藤君がしないから、何度もやり直しを求めているのかも知れない。 「佐藤君さ、ひょっとして、なんでもすぐに作ろうと思ってないかな」 「すぐに、ですか。確かにそれはありますね。俺、締め切りに追われるのが嫌なんです。イレギュラーに頼まれたことは早く仕上げて、次の仕事を段取りしたい。それなのに何度もやり直しさせられるから、スケジュールがいつもギリギリになるんですけど」 佐藤君は不満そうにビールを飲んだ。 「なるほど。佐藤君はかなりせっかちなんだね。今田さんは、営業さんに資料を頼まれたとき、まず最初にどうしているかな」 「私なら、まず色々と確認しますね。そもそも何のためにに使うのかとか、その資料で何をしたいのかとか、どんな風にまとめて欲しいのかとか。間違ったの作ったら、そのあとが面倒くさいし」 「確認、ですか」 佐藤君が驚いた顔をした。係長が、うんうんと頷いている。 「そうね。佐藤君、仕事を頼まれたらまず手を動かすのではなく、確認する癖をつけてみたらどうかな。締め切りだとか基本的なことはもちろんなんだけど、その資料を何のために使うのか、どんな風にまとめて欲しいのか聞いてみるの」 「ひょっとして上司に嫌われてるのかも、と思うと聞きづらくなる気持ちは分かるんだけど、その二つだけでも質問すると良いよ。そして、本格的に取り掛かる前に、自分の完成イメージを簡単に伝えると良いわよ」 「完成イメージ、ですか」 慌てて、佐藤君がメモとペンを取り出した。 「そう。資料のこの辺に表があって、結論があってっていうイメージ。結構ざっくりとで良いのよね、今田さん」 「そうですね。私も営業さんに確認するときなんか、イメージを伝えるため絵とか書いて見せてますよ。絵が下手なせいで、たまに伝わらないことありますけど」 今田さんは恥ずかしそうに笑った。 「ずっと仕事でペアを組んでて、ツーカーの仲ならこんな確認はいらないのかもしれないけど、私たち営業補助と営業さんは都度都度のお仕事だからね。こういう確認作業は大切なの。これを、佐藤君も応用してみたらどうかな」 「なるほど。やってみます」 少し佐藤君の顔が明るくなったかも知れない。 「いやいや、お見事お見事」 パンパン、と係長が手を叩いた。 「良かったねぇ佐藤君、良い先輩たちがいて。しかし、澤田さんもそうやって諭すようになるなんてね。あのね、澤田さんもね、昔は結構、激情タイプだったのよ」 「えっ、角田係長、本当ですか。全然想像がつかないです」 今田さんが食いつく。これはまずい流れになってきた。 「本当よ。昔、こんな風に私も澤田さんの相談に乗ったことがあったの。そのとき、今の佐藤君とそっくりに、その時にいた面倒な先輩の愚痴を言っていたわ」 「係長、その辺にしておいて下さい」 入社してすぐの頃、何かと目の敵にしてくるお局さんがいたのだ。 係長は乗ってきてしまったらしい。 「いやよぉ、若者に歴史は教えておかないと」 「それで、面倒な先輩がいたとき、澤田さんはどうしたんですか」 佐藤君は身を乗り出して来た。 「ふふ。それがね。澤田さんたら、物凄い勉強してエクセルでシステムを組んで、その人の仕事を全部取っちゃったのよ」 「えっ、澤田さん、すげえ」 「そうそう。ついでに、パソコン関係の専門の資格も取得してね。さっき今田さんが言ってたように、まさに、ガツンと実力を見せつけちゃったのよね、澤田さん」 係長が、にやにやと人の悪い笑みを浮かべている。 これはもう帰りたい。今すぐ帰りたいぞ。 「流石です、澤田さん」 今田さんのキラキラした瞳が眩しい。 そこからの時間は地獄だった。係長に自分の若手時代の痛い思い出の数々をバラされ、現役の若手二人に根掘り葉掘り聞かれ、帰る頃には全身傷だらけだった。 帰りの電車で係長と二人になる。 「今日はありがとうございました。でも、酷いですよ。あんなに色々と話しちゃうなんて」 恨みがましい視線を向けるが、どこ吹く風という顔だ。 「言ったじゃない、歴史は教えないとって。でも、分かったでしょ」 「なにがですか」 「澤田さんは、ずっと営業補助で事務屋さんを極めるタイプじゃないってこと。あんなに武勇伝を持っている事務屋さんなんて、聞いたことないわよ」 ぐうの音も出ない。 「でも、私だって結婚したいと思って、仕事じゃなくて婚活に目を向け始めたんです。家庭に入って、家を守るというか」 「澤田さんが専業主婦。無理、無理でしょ」 言い切った上に、爆笑されてしまった。そんなに笑わなくてもいいと思う。 「専業主婦を否定するつもりはないけど、向き不向きってものがあるわ。澤田さんの場合は仕事が大好きなんだから、わざわざ辞めることはないでしょ」 「仕事、大好きなんでしょうか」 恵まれたありがたい職場だとは思っていたけど、自分が仕事を好きかなんて考えたことも無い。 「大好きに決まってるじゃない。仕事を好きじゃない人はね、こうやって後輩の様子を見て動いたり、自分から資格を取ったりなんてしないものよ」 そういうものか。 専業主婦を望むなら相手に年収一千万がないと、と思って婚活していたが、考え直すべきなのかもしれない。 結婚相談所の棚田にも「妥協できる条件から妥協しろ」と言われていたのを思い出した。 「婚活ねえ。まぁ、一度失敗している私が言うのもおかしいけど、結婚は一度くらいは経験しておくと良いかも知れないわね」 「皆さん、そう仰います」 「社会勉強ってやつよ。別にしなくたって構いやしないけど、経験にはなるわよ」 係長が少し考えた。 「こういうの興味あるか分からないけど、別の部署の女の子から、よく当たる占い師がいるって聞いたわよ。今度一緒に行ってみようか」 「ぜひ、ご一緒させてください」 占いには俄然興味があった。月額料金を払って、スマホで人気占い師のサイトに登録しているほどだ。 「じゃあ、その子に詳しく聞いておくわ。今度予定を合わせましょ」 そう言って電車で別れた。 「占いにハマる女子が地雷っていう男は多いっスよ」 「なんてこと言うのよ」 係長との約束を教えた途端、棚田にバッサリと斬られてしまった。 「そりゃ、男のフィギュア趣味とか車趣味に引く女子が多いのと一緒っスよ。お互い様なんだから怒らない。なんでかなぁ、フィギュアが趣味っていうとオタクっぽい感じがするみたいに、占いが好きな女子はメンヘラっぽいからスかね」 そうなのか。男性に占いが好きっていうのはNG。覚えておこう。 「でも、周りの人に婚活してますアピール出来たのは、成長っスね。なんかご縁を持って来てくれるかも知れないし」 「それはそうね。あと、会社の人と話していて、相手に求める条件を少し下げようと思うんだけど」 「おお、どうしたんスか!良いですね、何を下げますか」 棚田は前のめりになった。 「まず、専業主婦希望を、共働き可に」 「うんうん、良いですね。あとは」 「あとは、年収一千万を、年収八百万に」 「変わらねぇー」 棚田が天を仰ぐ。 「どうせなら、五百万とか、三百万とかまで下げましょうよ」 「いきなり下げるのは怖いっていうか。あと、あんまり下げると、自分と大して変わらなかったり、仕事を頑張ってないような気がして」 「確かに、お嫁さんの年収が高いのは嫌、って男は多いですけどねぇ。なんか個人的には、そんな男は澤田さんに合わなそうだっていうか」 棚田がパソコンを操作して、こちらに画面を向ける。相手の希望年収を五百万円に下げるだけで、該当する登録会員の数が一気に増えた。 「一般的には、五百万でもかなり年収が高い方らしいですね。それに、年収で仕事頑張ってるかどうか判断するのは、ちょっと違うかなっていうか」 そう言われればそうだと思うが、なんだか男性にはもう一歩先を求めたくなる。 「あっ、希望年収を下げるなら、年下にいくのもアリっスよ。澤田さんは希望する年齢が同年代かプラス十って書いてますけど、澤田さんなら年下も全然良さそう」 「年下は無理。やめとく」 イメージで、なんだか頼りない感じがする。 そうかあ、残念だなぁと棚田がぼやいた。 「ていうか、条件下げる話しててアレなんスけど、澤田さんが元々出してた条件に当てはまる人からお見合い希望来てますよ。三十代、年収一千万、次男、身長一七五センチ、専業主婦希望、親同居不可」 それを早く言ってくれ。速攻でお見合いを受け入れた。 遠隔で車の鍵を開け、助手席に乱暴にバッグを置いて乗り込む。 目指すは大さん橋ふ頭。とにかく、夜の海が見たかった。 日本橋あたりまでは混んで面倒な道だが、まずは隅田川を越えなければ。 アクセルを強く踏む。どうやって、今日会った男の声を振り払うかだけ考えている。 「僕は婚活市場では割と人気が高いんですよ」 そりゃそうだ、年収一千万で専業主婦希望なんだから。 確かにその釣書に惹かれてのこのこやってきた私が悪い。 条件でしか男を見れないバカ女。はっきりと相手の顔に書いてあった。 「女性は働きたくないんでしょう。差別するつもりはないですけど、僕は男女雇用機会均等法にも疑問があるんですよ。女性は子供を産んで育てますし」 「僕は今の仕事でこの年収を得るまで、それなりにやってきました。ですから、女性も相応のレベルのものを求めます」 「僕は普段お誘いを受ける方が多いので、こうしてお見合いを申し込むことはほとんどないんです」 お前は幸運な女なんだぞ、と暗に匂わされる。 言葉の端々に、お前の望む婚活はこういう男だろうと、まざまざと見せつけられた。 図星だった。だから、たまらなく悔しかった。 相手に条件を付けて高望みをしながら、実際は自分自身の値を下げて、条件で判断されるようなつまらない女になってしまっていた。 「家を守り、子供を育て、僕のサポートをしてくれる。そういうパートナーとだったら、ウィンウィンな関係を築けると思うんですよね」 あんた、それ、美人でセックスが出来る母親が欲しいだけでしょう。 お台場エリアで渋滞に巻き込まれる。 「さっさと進みなさいよ」 苛立ちのままにハンドルを叩く。 三十過ぎた嫁き遅れ女。そう思ってバカにしているのがよく分かった。 お互い様なのかもしれない。私も、年収一千万あるのに結婚できない欠陥男と思ってその場にいたのだから。 だけど、結婚をしているのが、子供を産んでいるのが、そんなに偉いことなのか。 女としての落第を押された気分だった。 羽田空港を通る。旅客機が上空すれすれを通る。 巨大なクジラのようだ。 そう言えば、もう何年も旅行をしていない。 夜景が輝く目的地に着いた頃には、すっかり気分が萎えていた。 頭に血が上り、お見合いに行ったそのままのワンピース姿で来たのは良くなかった。 傷心に夜の海風が沁みる。 ぼんやりと夜景が滲む。気が付けば泣いていた。 もう、こんな日々は嫌だった。婚活なんてやめたかった。 相手を採点し、自分も採点される生活から抜け出したかった。 でもやめられない。だってもう三十五だ。男から見たら、たぶん子供が産める女の年齢の基準を大幅にオーバーしている。 婚活をやめることがすごく怖い。 白状する。私は男性との経験がない。それどころか、付き合ったことさえない。 だから、男というものが全く分からない。男に選ばれたことがない。 昔から勉強しかしてこなかった。周りが恋愛にうつつを抜かしている間も、将来のためにと一生懸命にいい子にしてきた。 でも、学校では彼氏の作り方なんて教えてくれない。 雑誌には、恋愛の話とセックスの話ばかり載っていた。クラスの女子も、高校を卒業する前に処女を捨てないと終わっている、そんな雰囲気だった。 汚れていると思った。そんなに軽く自分の身体を扱いたくなかった。それがそのまま男子への嫌悪感になり、高校ではろくに異性と話もしなかった。 大学に入って恋愛経験のなさに焦ったけれど、もう遅かった。思春期に異性への感情を拗らせておいて、スムーズに交際まで進めるわけがない。 運よく、いいなと思う男性から声を掛けて貰っても、相手の言葉が信じられず、土壇場で逃げてしまうことがほとんどだった。 働きだしたら家と仕事場の往復で、気づけば三十を過ぎていた。 私の恋愛とセックスは、そのまま根深いコンプレックスになった。 このまま、誰にも選ばれずに一生を終えるのがとても怖い。哀しい。 だってそんなの、誰からも必要とされない人間みたいじゃない。 ぐずぐずと鼻をすすったまま家に帰る。宅配ボックスに荷物が届いていた。 田舎の母親からだ。 携帯に掛けるとワンコールで出た。 「もしもし」 「もしもし。あんたどうしたのその声、ガラガラじゃない」 「風邪ひいたかも知れない」 そういうことにしておいた。気を付けなさいよ、と気遣う声がする。 「荷物届いたよ。まだ開けてないんだけど、どうしたの」 「あら、開けてないの。中はね、この前旅行に行ってきたお土産よ。お父さんと久しぶりに奈良と京都に行ってきたの」 両親は相変わらず仲が良い。昔から、私抜きで二人でよく旅行していた。 最近の京都は外国人が多いのねぇ、という母の話をなんとなく聞く。 「そうそう、奈良でレンタカーを借りて、一言神社に行ったわ。春日大社の傍にあるのよ。お土産のお菓子と一緒にお守りも入れてあるから」 「聞いたことない神社だね」 「わたしも初めて行ったわ。パパが道に迷ったら、偶然見つけてね。何かね、お願い事を一つだけ叶えて下さるそうだから、あんたの良縁のことお願いしといたわ」 「今年はお休みのどこかで帰ってくるんでしょう。たまには顔を見せなさいよ」 帰省すると、同級生とどこそこの誰が結婚した、子供が産まれたという話になるので、自然と足が遠のいていた。 適当に返事をして電話を切る。段ボールを開けると、言われた通り定番のお菓子とお守りが入っていた。 お菓子は今度職場に持っていこう。お守りは、なんとなくバックに入れて持ち歩くことにした。 「なんだか体調悪そうね。占い師行くの、今度にしておこうか」 「いえ、大丈夫です」 若干風邪気味の気配がする。薄着で夜の海に行ったせいで、母親についた嘘が本当になってしまっていた。 大丈夫なの、と係長は心配そうだ。でも、今日一緒に行く占い師はとても人気で、なかなか予約が取れないらしい。せっかくの休日にそこまで先輩に気を遣わせてしまったのだから、たとえ熱があっても行く気だった。 「まあ、お店は駅から近いみたいだし。占い師にみて貰ったら何かあったかいもの食べて帰ろうよ」 「賛成です。火鍋とか食べたいです」 「いいね、パワーが付きそう」 駅からの道を歩く。こんなオフィス街で占いをやっているのか。 「ここ、東京大神宮っていう、恋愛のパワースポットの神社が近いんだよ」 「そんな神社が、こんなところにあるんですか」 昨日のお守りといい、なぜか神社に縁があるみたいだ。 路地に入ると急に女性の姿が増えた。左右に分かれるお店が、神社のおかげ横丁のようになっている。 「この並びに占い師が構える店があるみたいね」 なるほど、占いの文字の看板がたくさんあった。 東京大神宮で恋愛祈願をして、そのまま占いに行くのが女子の鉄板コースなのかも知れない。 「話に聞いたところでは、この店みたいね」 係長が指すのは、かなり雰囲気のある雑居ビルだ。一人なら絶対に来なかった。 今にも止まりそうなエレベーターに乗って上階に着く。 店の前ですこし待たされてから、女性の声に「どうぞ」と促された。 雰囲気のある暖簾をくぐる。 狭い部屋の中で、似合わない巫女服のコスプレをした、あやしげなおばちゃんが待っていた。 思わず係長と顔を見合わせる。 これはちょっとヤバいんじゃないの。 「こちらへお座りになって」 私は係長のあとにみてもらうことになった。係長、顔が笑っちゃってますよ。 「キエェェェェェーーーッ」 突如、おばちゃん占い師が奇声をあげた。二人してビクッとする。 その後、おばちゃんはもにょもにょと祝詞らしきものを唱え、ひたりと前を見据えて告げた。 「あなたの守護霊さまからのお言葉をお伝えします」 はあ、どうも。 曰く、角田係長は組織のトップを担える天賦の才を持っており、心身ともに清らかにし信仰を忘れなければ、必ず心願は成就するとのことだった。 なんだそのありきたりな言葉。おみくじか。 人気占い師って、こんな感じなの。ネットでの簡単な占いしか経験がなかったから、今日は本格的な占いをしてもらえると思って期待していたのに、かなりガックリくる感じだ。係長なんて、もうほぼ聞いていない顔をしている。 あっという間に私の番になった。ヤバい、あの雄叫びを間近に聞くのは心臓に悪い。 身構えていると、占い師が、突然ガクンと首をのけぞらせた。 部屋を揺らすほどの朗々とした声が、低く響く。  ひとことォーひとことォー  吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。  葛城の一言主の大神なり。  虚(きょ)室(しつ)白(はく)を生(しょう)ず  しばらくの沈黙のあと、また、ガクンと首が正面に戻った。 「あなたの守護霊さまからのお言葉をお伝えします」 それからは、さっきのおばちゃんの声に戻っていた。 「私の時だけ演出が違ったの、何だったんでしょうか」 もう、あの異様な雰囲気が気になり過ぎて、その後に続いた守護霊さまのお言葉とやらは全く覚えていなかった。 「本当よね。なんだか、あのおばちゃんから出たとは思えないような声で、あれだけはちょっと本物っぽいと思っちゃったわ」 係長も、ぶるりと身を震わせるような動作をする。 「ひとことぬし、って言っていたわね。そういう神様がいるのかな」 「どうなんでしょう」 なんだか聞いたことがあるような、無いような。小骨が引っかかる感じだ。 悪いことも一言、良いことも一言で。ひとこと。 あっ、と思い出す。慌てて鞄からお守りを引っ張り出した。 「これ、母親から昨日お守りが届いたんです。奈良に旅行に行ったついでに、神社に寄ったとかで。その神社が、確か一言神社だって」 お守りの刺繡を見ると、確かに一言神社とあった。 えーーっ、と係長が声を上げる。 「何それ、そんなことあるの。あのおばちゃんに、そんなの伝えなかったよね」 「はい、聞かれたのは生年月日とか独身かとか、それくらいでしたよね」 「うわー、怖いんだけど。おばちゃん、あの見かけで、本物だったわけ」 ぞわぞわと鳥肌が立ってきた。こんな不思議な現象を経験するのは初めてだ。 「そう言えば、なんか意味は分かんないけど、元に戻る前にお告げみたいなこと言っていたよね。もしあのおばちゃんが本物なんだったら、何を言われたか調べた方がいいんじゃないの」 「確かにそうですね」 慌ててスマホで検索する。確か、「きょしつはくをしょうず」と言っていた。 聞き取れた音をそのまま入力すると、荘子の漢文の一節が表示される。 彼(か)の闋(とざ)せる者(へや)を瞻(み)るに、虚(むな)しき室(くらがり)に白(ひか)り生(しょう)せり、吉祥は止(むな)しきに止(あつ)まるなり。 閉ざされた暗室の虚しい空間にこそ、日の光がくっきりと白くうつしだされる。 自分のこざかしさを捨てて心の中をからにすると、幸福がおとずれる。 「なるほど」 最近の自分のありさまを、そのまま言い当てられたような言葉だ。 折しも、夜中の大さん橋ふ頭で独り大泣きして、自分の愚かさに気付いたばかりだ。ストンと、腑に落ちるとはこういうことか、と思えた。 自分のことを棚に上げて相手に条件ばかり付け、挙句の果てにシステムを組んで採点までしていた。こんな驕った考えでは、幸せも訪れるはずがない。 「難しいけれど、いい言葉ね」 角田係長が、優しくにっこりと笑った。 二人でお腹いっぱいになるまで火鍋を食べた帰り、あっ、と思い出したように言われた。 「私のいとこ、三十になったばかりなんだけど、婚活してるらしいのよね。身内ながら結構いいやつだと思うんだけど、澤田さんさえ良かったら会ってみない」 「三十歳ですか」 五個も年下だ。以前なら受け売りの偏見で絶対に断っていた話だが、一言主のお告げが思い出される。こざかしさを捨てる。 「はい、機会を頂けるなら」 「そうそう、試しに会ってみてから判断してよ。じゃあ、先方に話しておくわね」 家に帰り独りになり、Tシャツにショートパンツという完全な部屋着姿で、ふむふむとソファーにあぐらをかく。 元より占いは全面的に信じるタイプだ。あのおばちゃん占い師の様子はあやしさ満点だったが、一言主の存在と不思議体験については全面的に信用することにした。というか、一言主のくだりしか占いの内容を覚えていない。 言われたことを聞く素直さ、そのまま実行する真面目さが私の美点だ。 虚(きょ)室(しつ)白(はく)を生(しょう)ず まずは、心を空にしろとのお告げ。いかにするべきか。 とりあえず、婚活システムは削除だな。 関係が良い感じに進んでいる男性もいない。躊躇なくパソコンのゴミ箱に捨てた。 あとは、自分の偏見を捨て、結婚相手に求める条件を見つめなおさなければならないだろう。 今まで希望してきた条件を紙に書き出す。 年収一千万以上、身長一七五センチ以上、次男、専業主婦希望、親同居不可。 改めて見ると酷いな。どの立場から言っているんだ。やっと気付いた。 この中で、私が絶対に譲れない条件なんてものはあるんだろうか。 無いな。ひとつも無い。 どれもこれも世間の受け売りで、こうだと良いというものを継ぎはぎした結果だ。自分で経験して得た法則は一つもない。そもそも経験がないのだから当然だ。 条件が無いということは、誰でも良いってことかな。 いや流石に誰でも良いというわけではない。すぐに怒ったり、横柄な態度をとるような人間的に嫌な人はダメだ。でもそれは会ってみなければ分からない。 とにかく、どんな人でも偏見を捨てて会ってみろ、ってこと。そんな手当たり次第の方法でいいのか。にわかには信じがたい。 そもそも婚活なんて辞めろという話もあるが、結婚自体はしたかった。 結婚がしたいというより、恋人が欲しい。一生そばにいられるパートナーが欲しかった。これは大泣きして気付いたことだ。 自分一人で何とか生きていくことは出来るだろうけど、一人はやっぱり寂しい。 ご飯を作って美味しいねと言いあったり、休日にお互いの好きな場所に出かけたり、そういう生活を経験したかった。 そのためには、自分はどういう人と一緒に居たいのかを考える必要がある。 難問だ。今までそんな振り返りなんてしたことない。ここで躓いた。 数時間後、リビングの床にはメモが書かれた付箋が散らばっていた。 自分の性格、やりたいこと、目標等、思い付きをとにかく書きなぐったからだ。 こんなものかな、と満足したところでまとめに掛かる。裸足の足で、リビングの床の上にぺたりと座る。 仕事と恋愛でグループ分けしたり、同じような内容を重ねたりした。すると、だんだんと傾向が掴めてきた。 一番に気付くのが、私は本当に仕事が好きだったんだな、ということだ。 嬉しかったことや目標、やってみたいことが仕事に関連して、かなりの数の付箋が集まっていた。 付箋の中には、専業主婦を望むなら考えても仕方ないから、と自分で勝手に諦めていたキャリアの目標もあった。 たぶん私は、人が働きやすいように環境や仕組みを整えるのが好きだ。それを褒められると、仕事にやりがいを感じる。 頼まれてもいないのに営業向けにエクセルで時短のシステムを作ったり、部署内の人間関係にちょっかいを出し、バランスを見て調整したりするのはその一例だ。 全く知識も経験もないけれど、本当は人事の仕事に興味があった。年に数度社内で公募があったが、私なんか無理だと思って避けていた。 今度の公募、手を挙げてみようかな。 こうなると、仕事に理解のある旦那さんの方が良さそうだ。 給料やポジションにはあまり興味がないが、やりがいや自分を向上させるためのキャリアアップに協力的な人が良い。 こんな人間が、専業主婦になりたいだなんて、よく言ったものだ。係長が笑っていたのも当然だ。 もし、何も考えずに周囲の物差しを使ったまま、家庭的な奥さんを望む男性と万が一結婚をしていたら、どうなっていただろう。今更ながらぞっとした。 そして、私はかなりアクティブな方だということを知った。 婚活にかまけて何年も旅行に行けていないが、学生の頃から身一つで旅をするのが好きだった。まだ見てみたいもの、行きたい場所が世界中にたくさんある。 タイのランタン祭りに行ってみたいし、ブラジルで本場のコーヒーを飲みたい。オーロラだってまだ見れていない。 関東圏から東北くらいまでなら、車を使ってドライブして温泉に行くのも好きだ。 全部に付き合ってとは言わないけど、たまに一緒に行ってくれる人がいいな。 自分の性格や希望を整理すると、どんどん理想の旦那さん像が明確になっていく。 これが、私が求める本当の条件なのね。 なんだかすごくスッキリした。身体にぴったりの洋服を見つけたような気持ちだ。 床の上にごろりと寝ころぶ。 これを見つけるのは、大変だぞ。ひょっとして、私の婚活はかなりの長期戦かも。 だって、こんなの実際に会って話して見なければ分からない。 婚活パーティーやイベントにも積極的に参加した方がいいだろう。 「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、ね」 数を打てば当たるなら、打つしかない。 まあでも、のんびり行こう。 こうした方が良い、ああした方が良いという周りの尺度に従うのが、いかに意味のないことかよく分かった。 年齢的には子供を産むことも考えないわけではないが、相手がいないのに先々のことばかり憂えても何の得にもならない。 まずは、美味しいつまみでビールを飲もう。 勢いをつけて床から起き上がった。 次の休日、棚田に会いに結婚相談所に行った。 「珍しいっスね、こういう風に澤田さんが相談に来るの」 棚田との面談が予定された日ではなかったけれど、無理を言って時間を取ってもらっていた。 「悪いわね、予定合わせて貰って」 「いや、全然いいっスよ。暇してるんで。それで、どうしたんです」 「探してもらう男性の条件を、大幅に変えようと思うの」 「おお!ついに!」 勢い良く棚田が立ち上がる。 「ほんと、どうしちゃったんスか。今まで言っても全然聞いてくれなかったのに」 「まあね。いいから、座りなさいよ」 占い師や一言主のくだりを説明するのは骨が折れる。 「はいはい。それで、どういう風に条件を下げるんですか」 「下げるんじゃなくて、まるきり変えようと思うの」 手帳に書いたメモを広げて見せる。 「まず、共働き可の人がいいわ。キャリアアップにも理解がある人がいい」 「年収は気にしない。でも、休日が無いくらい、あんまり忙しすぎる人は困る。お休みの日はちゃんと休める人がいいわ」 仲の良い両親を見て育っているから、それが理想だと気付いた。 年収が一千万でも一億でも、忙しくてすれ違いが起こるほどドライな関係は私には向かない。 「それでアクティブな人。一緒に旅行に付き合ってくれる人」 「何か自分の趣味を持っている人」 無趣味がダメなわけではないが、自分の世界を持っている方が、生活を楽しんでいる人のような気がする。それに、私も趣味の世界を広げてみたかった。 棚田は急いでメモを取っている。 「以上、四つよ」 「共働きや年収は分かりました。勤め先とか、職業は関係しますか」 「何の仕事をしていてもいいわ」 「長男かどうか、親同居の問題はどうします」 「別にどっちでもいいわ」 「年齢は。同年代か年上しかダメでしたよね」 「気にしないわ」 はぁーっ、と、棚田が長く溜息をついた。 「ダメ、だったかしら」 「いいえ、全然、全然です!」 また立ち上がった。 「ほんとのほんとに、どうしちゃったんっスか!そうそう、こういうことなんですよ考えて欲しかったのは。よし、あたしバリバリ探しますよ!」 「あ、それでね。ちょっとの間、婚活をお休みしようと思うの。結婚相談所も休会扱いにして欲しいわ」 「ええっ!」 棚田が座った。 「なんでですか、これからって時に」 物凄い勢いで詰め寄られる。まあまあ、となだめた。 「別にやめるってわけじゃないんだから。ちょっとだけリフレッシュしたいのよ。行きたい旅行先もあるし」 「へえ、なんだ、旅行ですか。良いですね。今まで澤田さん真面目に婚活してましたし、リフレッシュは大事です。行きたいところって、ちなみにどこですか」 「タイのランタン祭り。そろそろ季節なのよ」 「あのインスタ映えするやつ!それ、あたしも行ってみたかった」 棚田が顔を輝かせる。 「あっ、でもちょっと待って。それ、今すぐに行っちゃいますか」 「早くても二週間先ね。一気に有給使うから、その前に仕事の整理しないと」 「そしたら一日だけ、あたしに予定空けて欲しいんですけど」 子供のいたずらが成功したような顔で笑う。 待ち合わせは、神楽坂の喫茶店だった。 「今まで澤田さんとお話してて、あたし的に、澤田さんに合いそうだなって思った会員さんがいるんです。完璧な、ただのカンです」 「でも、今までの澤田さんの条件にはほぼ合わないんで、紹介するのをためらってました。結構いいなって思ってたんスけど、条件だけでダメって言われちゃうともったいないなって」 今日お話ししてくれた澤田さんなら、大丈夫だと思うから。 そう言って、ひとつだけお見合いをセッティングしてくれた。 嬉しかった。仲の良い友達に縁を取り持ってもらったような気持だった。 いつもより、おしゃれに気合を入れた。でも、あくまで自分好みのおしゃれだ。 白のブラウスに、ベージュの動きやすいパンツを合わせた。髪を高く結い上げて、首元は色を足すためにストールを巻いている。 今までお見合いにパンツを履いてきたことはなかった。デートにパンツで来るなんて気合が足りない、という男性からのコメントを雑誌で見たからだ。 冷静に考えれば、そんなの知ったこっちゃないという話だ。 時間があるときにクローゼットの中を全て部屋に広げて、自分の洋服を検分する作業を行った。大変な苦労を伴ったので、ビールと大音量の洋楽が相棒だ。 寝室中に床まで全部使って広げてみたら、まあ男性好みしそうな洋服ばかりだった。 正直デートやお見合いに向く洋服なんて分らなかったから、上から下まで雑誌に出てきたものをそのまま買っていた。それを繰り返した結果がこれだ。 ひらひら、ぴらぴらとして、ヒールしか履けないような服ばかり。 でも私は変わると決めたので、ビールをぐびりと飲みながら、断捨離、断捨離と呟いて選り分けをしていった。 すると、着回しがききそうで、シンプルな服ばかりが残った。 あとは全部捨てた。目に映る場所に一秒でも長く置いておいたら、もったいない婆が顔を出して、まだ着れる、まだ着れると引っ張り出しそうだったからだ。 自分の洋服の好みについては、これをする前から検討がついていた。 無駄を嫌って、勝手に事務に自作システムを導入するような女だ。合理性を考えたら着回しがきく服が好きに決まっていた。 さらに、ぴらぴらした服では旅行に向かない。動きやすく、着心地重視になった。 自分の好みに素直になることにした。髪も少し切って、無駄にヘアスタイルに朝の時間をかけるのを辞めた。化粧も失礼がない程度の薄化粧に変えた。会社に着ていくオフィスカジュアルも以前よりシンプルで、すっきりしたスタイルに変わっていった。 雰囲気が変わりましたね、と周囲に言われた。 特に女子は変化に気付くのが早い。 「なんだか前よりも、澤田さんっぽい感じになってイイです」 服を変えた当日、今田さんに褒められた。 角田係長には、今後のキャリアアップについて相談している。 「澤田さん、人事に向いていると思うよ。佐藤君や今田さんたち後輩に慕われているし、面倒見も良いし。気配りも出来るから、この会社にどんな人材が必要なのか、どんな研修が欲しいのかも見極められると思うな」 そう言って、笑って太鼓判を押してくれた。 公募は今年の終わりにある。アピールのために新しい資格も勉強中だ。 これからも婚活は続ける。でも、自分自身が楽しくいないと、相手にも魅力的にうつらないような気がしていた。 まずは今日、しっかり頑張ろう。 棚田が私のために作ってくれた機会を無駄にはしたくない。 神楽坂の駅から少し歩いて路地に入ると、海外から抜け出てきたようなトラットリアがある。晴れた日は、オープンスペースでお茶をするのも良さそうだ。 中に入って、相手の名前を告げる。 「倉田さん、という方で予約を取っているそうなんですが」 「はい、僕です」 奥の方で男性が立ち上がった。 シャツにカジュアルなジャケットを着た、優しそうな眼鏡の男性だ。 近くに行ってみると、身長は私より少し高いくらい。百七十は無さそうだ。 以前ならこの時点でからい採点が始まっていた。 「お待たせしてすみません。澤田と申します」 「倉田と言います。僕が勝手に早く来ていたので、気にしないでください」 倉田さんはにっこりと笑う。 「今日は楽しみにしていたんです。僕の担当が、絶対に会って欲しいから意地でも予定を開けろ、さもないと海外に逃げられてしまう、って脅すから」 「担当って、棚田さんですか」 「そうです。彼女、面白いですよね。逃げられちゃうっス、って言われました」 容易に想像が出来る。 「海外は、お仕事で行かれるご予定なんですか」 「いえ、趣味です。前はよく海外旅行に行っていたんですが、ここ数年仕事や婚活で全然機会が持てなくて。でも、行ってみたいお祭りがあるから」 「へえ、いいですね。どんな祭りですか」 「タイのランタン祭り、ってご存知ですか」 「ああ、あの幻想的なお祭りですね。僕も行ってみたかったんです。いいなあ、羨ましい。頻繫にではないですが、僕も海外旅行は行きますよ」 「そうですか。今まで行かれて、お勧めの場所はありますか」 「どこかなあ。景色で言うなら、中国の七彩山は最高ですね。行くのは大変ですが」 「あの、地層がカラフルな山ですよね。私も興味がありました」 「ご飯なら、スペインのバルかな。ピンチョスをつまんで飲んだくれるのが楽しい」 「スペイン良いですよね、大学の時に行きました」 しばらく旅行の話で盛り上がる。 そう言えば、と倉田さんが切り出した。 「澤田さんは、板橋の商社にお勤めですよね。プロフィールを拝見して、親戚が勤めている会社だ、って思ったんです」 「ご親戚がうちの会社なんですか」 誰だろう、知っている人だったら面白い。 「僕のいとこなんですが、営業で係長をしていると言っていました」 ん?営業で係長。 「倉田さんって、三十歳でしたっけ」 「はい、今年三十になりました」 「ひょっとして、ご親戚の方って角田さんとおっしゃいますか」 「そう、角田晶子です。ご存知ですか」 倉田さんが嬉しそうにする。ご存知も何も、角田係長だ。いつもお世話になりまくっています。 ということは、知り合い二人から同じ男性を勧められたってこと。 こんなこともあるんだなぁ、と感心する。 「私は営業補助をしているんですが、角田係長とは同じ部署で、いつも本当にお世話になっています」 「まさか同じ部署とは。世界は狭いですねぇ。僕にとっては姉貴みたいなもので、小さいころから仲が良いんですよ」 分かる。角田係長は姉貴っぽさがある。 「澤田さんはずっと営業補助をされているんですか」 「はい。でも、今度は公募で違う部署にチャレンジしようと思っています。人事部に興味があるんです」 「いいですね」 倉田さんが頷いた。 「仕事を前向きになさっているのは、素晴らしいと思います」 「僕は、もし結婚するなら仕事を頑張っている人が良いと思っているんです。年収や仕事内容なんかはなんでも良いんですが、自分なりに働く楽しみを知っている人と一緒にいたいと思っていて」 「僕自身、仕事が大好きなんです。僕は学生の頃に会社を立ち上げて、今もその小さい会社を経営しています。趣味を仕事にしてしまったような感じなので、その辺を共感してくれる人が良いんです」 「あ、もちろん、ワーカホリックにならないようには、気を付けていますよ」 笑って付け加えた。 目から鱗が落ちた。 私が結婚相手に譲れない条件を持つように、相手も「こんな人が良い」と理想を持つのは当然だ。 それが、仕事を頑張っている女性がいい、という人が居るとは想像していなかった。 でも、それはそうだ。こっちが今まで専業主婦になりたいと言って、希望に合う相手を探していたのだから。 自分自身が変われば、出会う人がここまで変わるのか。 それから運ばれてくる料理を楽しみながら、色々な話をした。 倉田さんは一人暮らしで、家に猫を飼っているらしい。駐車場で捨てられ弱っているのを拾ってきたら、すっかり元気になったそうだ。 ご飯をくれと朝早く起こされるし、仕事の邪魔もしてくるんですけどね。 そう言って笑う様子は、とても困っているようには見えなかった。 ラーメンが大好きで、遠くまで車を飛ばして食べに行くことがあると言っていた。 大好きな店のラーメンを話している時は本当に嬉しそうで、しかも物凄くおいしそうに話すので、今パスタを食べているのに夕飯はラーメンに決まってしまった。 私も自分のことを話した。 旅行のこと、ドライブが好きなこと。 牛タンが食べたくて宮城まで車を飛ばしたことを言ったら、アクティブですねと笑って驚かれた。 倉田さんと話していて、楽しくてドキドキするのに、すごく安心している自分に気が付いた。こんなの、初めての感情だ。 今までのお見合いは会話のペースが上手く噛み合わなくて、どちらかが一方的に喋っていて、どちらかが聞いているという状態が普通だった。 なのに、会話が全然途切れない。自然に、これも話したい、あれも聞きたいと欲が出てきてしまう。 本当に不思議。倉田さんは別に、詐欺師みたいにおしゃべりが上手いというわけではないのに。 聞きたいこと、言いたいこと、笑いたいことのツボがぴったり合っていて、次に話すことが水のように溢れてきてしまう。 引かれていないかな、嫌な思いをしていないかなと頭の端の方ではすごく心配しているのに、実際は夢中になってお話をしてしまっている。 これって、あれなんじゃないの。 私ってばかなり、倉田さんのこといいなって思っちゃってるんじゃないの。 いや、もう仕方ない、認めよう。 この段階で、彼のことが好きになってしまっている。 どうしよう、どうしよう。 お見合いの場で好きになっちゃうとか、初めての経験なんですけれど。 これはもう気持ちをお伝えするほうが良いのかな、だって学生同士の恋愛じゃない、お互い結婚相手を探している場なんだ。 良いなら良いと伝えて、相手にダメだと言われたらすっぱり諦めなければいけない。 ああだめだ、もう振られることを想像するだけでちょっと泣きそうになっている。 それともそんなにがっつかない方が良いのかな。 次のお約束をする程度にして、じわじわと関係を詰めていくほうが良いのかな。 でもそれで、最終的にダメって振られたら辛くないか。 ああ、やっぱりどんどん想像が悪い方に、悪い方に膨らんでいく。 経験がないことだから、全然分からない。分からないからすごく不安で怖い。 頭の中で七転八倒しているうちに、話題はどんどん進んでいく。 家族構成、将来の夢、子供の希望なんかも話した。 倉田さんが、するりするりと質問するので、ぽんぽんと答えてしまっている。 なんだなんだ、結構ずるい人なの。 でも嫌いになれない。いいえ、そんなところさえ好き。 まずい、三十路を過ぎてこれはまずいぞ。だいぶ好きになってしまっている。 このまま離れるのがもったいない。もっとお話していたい。 気持ちを確かめるのが怖い。駆け引きをするのはもっと怖い。 ふと、ひょっとして、今までお見合いしてきた人の中にも、今の私みたいな気持ちで会ってくれていた人もいたのかな、と思った。 だとしたら、私はなんて失礼な態度でいたんだろう。 採点するだなんてことをして、その人の内面に誠実に向き合って来なかった。 そう気づいたら、なんだか腹が括れるような気になった。 今日のお見合いの最後に、倉田さんにちゃんと気持ちを伝えよう。 それで、ダメならちゃんと受け入れよう。 年収だの条件だのと言って、誠実に男性に向き合って来なかったツケがここで来るならば、それを払わなければいけない。 なんだか決戦に臨む武士のような気持になってしまう。 棚田に言ったら、「そういうことじゃないッスよ澤田さん!」と怒られそうだ。 そんな風に悲愴な考えでいると、なぜか流れで、不思議な一言主の体験について話すことになった。 倉田さんは怪しいおばちゃん占い師のくだりでは笑って聞いてくれ、お告げの段になると興味深そうにしていた。 「そんな不思議なことがあるんですね。いいなあ、僕もその神社に行ってみたい。ひとつだけ願いを叶えてくれるっていうのが、潔くて良いですね」 「倉田さんは、もしひとつだけ願い事をするなら、どんなことをお願いしますか」 「何をお願いしようかな。でも、今思っていることは、自分で叶えなくちゃならないから」 そう言って、倉田さんは居住まいを正した。 「澤田さん。僕と、お付き合いをしてくれませんか」 突然だった。心臓が、止まるかと思った。急すぎる。 「今日お話ししていて、絶対にまた会いたいと思いました。何より、海外に逃げられてしまう前に、捕まえておかなければと思いました」 「逃げるって、そんな」 「実際にはご旅行ですけどね。僕にとっては、同じことです」 そんな。そんなことってあるの。私の方こそ、今日の終わりに気持ちを伝えないとって思っていたのに。 初めて、異性と気持ちが通じ合った瞬間だった。 飛び上がりそうに嬉しい。私もなのと、言いたい。 でも、私は大人だから。もう三十五だし、これは婚活だし。 両想いになったくらいで舞い上がっちゃいけない。言いづらいことも濁さないで、ちゃんと向き合わないといけないんだ。 お互いのために確認しなければならないことがいくつかあった。 鼓動がバクバクと音を立てている。倉田さんにも聞こえちゃうんじゃないか。 落ち着け、落ち着け。冷静に。 ちゃんと伝えなくちゃいけない。倉田さんはこんなに真剣に向き合ってくれている。 ひとつ、詰めていた息を吐いた。 私は、今からお遊びの恋愛なんて出来ない。そんなに器用には生きられない。 「私は、自分の年齢的に、お付き合いするなら結婚を前提にと思っています」 「僕もそのつもりです」 私は、自分の年齢を悲観するのをやめた。年上を理由に卑屈になりたくない。 「私もう三十五ですよ。倉田さんとは五つも違います」 「関係ありませんよ」 私は、自分の好きなことを我慢しないと決めた。思う通りに行動したい。 「お付き合いすると言いながら、勝手に海外旅行に行ってしまうかも」 「構いません。予定が合えば一緒に行きたいな」 私は、感情を共有できるパートナーが欲しい。同じものを見て笑いたい。 「あちこち出掛けるのが好きだから、連れまわしてしまうかも」 「望むところです。僕だって、ラーメン食べに連れまわしますよ」 最後に、これを言わなくては。 今まで誰にも打ち明けたことが無い。 口にするのは、すごくすごく勇気がいった。 「私は」 私は、自分を大切に扱いたい。 「私は、この年で、今まで男性とお付き合いしたことがありません」 「えっ、そうなんですか」 倉田さんは驚いた。 嫌な予感が駆け巡る。 面倒くさいって、引かれてしまっただろうか。 「澤田さん、こんなに美人なのに」 「嬉しいなあ、僕はなんてラッキーなんだろう」 倉田さんは、すごく嬉しそうだ。 あれ、大丈夫、なのかな。 いい年して恋愛経験がなくて処女だなんて、面倒くさいって雑誌で読んだ。 「あの、面倒くさいとか、ありませんか」 「そんなこと、関係ない。あるわけないですよ」 「何も知らないから、すごく変なことをしてしまうかも」 「気にしないで。僕だってすごく舞い上がって、たぶん変なことをします」 そう言って笑った。 良かった、引かれなかった。嬉しい。 じわじわと、顔が熱くなる。 「あの、それじゃあ」 「はい」 「あの、よろしくお願いします」 「はい、こちらこそ」 テーブル越しに向かい合ったまま、お互いに頭を下げた。 虚(きょ)室(しつ)白(はく)を生(しょう)ず なんの偏見も無い、空白な心にこそ吉祥が訪れる。 早速、幸運が訪れたのかも知れなかった。
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