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蛙
3.
僕は女だ。でも、女に生まれたことは間違いだと思っている。
別に女性のことが好きなわけじゃない。嫌いでもない。ただ、僕自身が女になりたいと思わないだけだ。
女になりたくないからといって、僕は男になりたいとも思わなかった。
男にも女にも、何にもなりたくない。それが僕だ。
僕のパパは医者をしている。優秀な外科医だ。うちの親戚はみんなそう。
僕だけ頭がおかしい。おかしいから、それを治すためにパパは僕を中高一貫の女子だけの学校に通わせた。
たぶん、女の子の友達が出来たら、その内治ると思ったんだと思う。
でも、赤い魚の群れに黒い魚を一匹入れて水槽で飼ったとして、黒が赤に変わることはない。
中学からこの学校に入学して一年が経つけれど、僕は保健室と美術室にだけ通っている。教室はまるで水槽のようだ。僕にはうまく息が出来ない。
入学して最初の頃は、先生たちも頑張って僕を水槽に入れようとしていた。
制服のスカートを履かせようとしたり、教室で授業を受けさせようとしたり。
数十分は耐えられる。息を止めていればいい。
だけどその内、過呼吸を起こして気絶するか、突然眠りだして目を覚まさなくなるかの二つになってしまい、諦められて今の状態になった。
そもそも僕にとって、人が多い電車で学校に来るだけでもかなりの一仕事だ。
僕の目には、街にあるすべての色が極彩色に見える。
赤、青、黄色、黒、白。
濃く鮮やかで暴力的な色たちが、目の網膜を焼いてくる。
だから、普段は色の濃いサングラスをかけている。
それに東京はすごく音がうるさい。
僕の耳には、高い音ほど神経に障るように聞こえる。電車の中で女性が話していたら車両を移る。まして、教室はうるさくてダメだ。キンキンと同級生が話す声は高くて、何を言っているのかが聞き取れない。
だから、ヘッドホンをして雨の音を聞くようにしている。
短い髪。黒いパーカー。黒いパンツ。黒いサングラスにヘッドホン。
これが、いつもの僕の恰好。
セーラー服の赤い魚に混じると、サメが一匹紛れ込んだようだ。
どの群れも僕を除けて通るのは当然だった。
チャイムの音がする。授業が終わったらしい。
家から持ってきた油絵の道具一式を抱えて、美術室に向かう。
美術室に着くと、すでに何人かが絵を描くための準備をしていた。
お互いに軽く頭を下げて、僕は決まって教室の隅を陣取る。
皆自分の絵を描くことにしか興味がないのか、それともちょっとだけ僕に似た性質の人が多いのか、これくらいの距離感が楽で良かった。
パレットを開き、油の準備をする。
下絵と背景まで描いた絵を立てかけ、参考画像をスマホで表示する。
今回の題は「渋谷」だ。
この絵を描いていることが、僕がこの学校に通うのを許されている理由。
僕の絵は大人たちに人気が高いようだ。
僕は、いつも空想と現実の間を行ったり来たりしている。
空想の世界にいるのは好きだ。羽を生やせばどこにでも行ける。
現実は賑やかでうるさくて、鮮やかすぎる。
僕は、空想の世界で見たものと、現実の世界で見るものを交互に題にして描く。
現実の世界を描いたものの方が、大人たちには人気があるようだ。
僕にとって現実の世界を描くのは簡単だ。目に見えたように書けばいい。
今描いている「渋谷」は、背景を黒と鮮やかなピンクにしている。
これを見て、「サイケデリックだ」と言ったり、「原始的だ」と言ったりする人がいるらしい。僕にはよく分からない。
僕はただ、見えたように筆を走らせるだけ。これは風景画なのだから。
本当は、空想の世界を描く方が楽しい。
楽しいけど、思ったように上手くいかない。
空想の世界は色が穏やかだ。
でも輪郭がつかめない。空想の世界も写真が撮れたらいいのに。
「渋谷」を描くには、原色の赤を多く使う。
この絵は完成する前だけど、数十万円で買う人がもう決まっている。
絵の値段のことは、おばあちゃんに任せている。
こういうのは、大人の商売だ、マーケティングだとおばあちゃんは言う。
僕は、いわゆる「障害を持つ中学生の画家」としてマーケティングされている。
このことについて、パパはあまりいい顔をしない。
僕は、自分がどんな障害を持つのかよく知らないし、興味が無い。
視覚や聴覚が過敏なことや、上手く話せないこと、あまり感情を表に出さないこと、僕の「こだわり」が強いことなんかを、障害や病気としているようだった。
定期的に、大学病院の精神科に通っている。毎日薬も飲む。
今の先生は、パパの大学の友達らしい。この先生は好きだ。前の先生は嫌だった。
障害や病気の名前は、たぶんほとんどが前の先生によって付けられた。
たくさんのテストや色塗り、その他にもいろんなことをさせられた。
そして、この先生はよく僕の身体を触ってくる「クセ」があった。
僕は嫌だと言いたかったが、その頃はもっと子供だったし、上手に言葉に出せない。
ただ泣いて病院に行きたくないと駄々をこねる僕に、何も知らないパパは怒鳴って叱ることもあった。でも、パパは知らなかったのだから、悪くない。
しばらくして、前の先生の病院に行くことはなくなった。
何か、他の子どもにしているのが見つかったらしい。
パパは、この時僕のことを守れなかったと、今でもすごく後悔している。
赤を塗ることに没頭していると、陽が落ちる時間になっていた。
もう帰る人もちらほら出てきて、帰り際僕に「お疲れ様」と声を掛けてくれる。
僕も気が付いたら、会釈して返すようにしている。
ようやくキリが良いところまで進んだ。もう窓の外は暗い。
片づけにとりかかる。後ろから声を掛けられた。
「これが、津藤さんの目から見た渋谷なのかい」
高校三年生の、櫻井先輩だ。美術部の部長をしている。
遅いこの時間まで残って描いているのは僕か先輩くらいなので、部室を閉める鍵は二人で管理していた。
今日も、もう最後まで残ったのは僕と先輩だけのようだ。
櫻井先輩の問いかけに、はい、と答えた。
「そうか。こんな風な色に見えているんだね。激しいなあ」
そう言って、少し離れたところから腕組みをして見ている。
「私の絵はそろそろ完成しそうだよ。見てみるかい」
先輩が背丈ほどもある大きな絵をこちらに向けてきた。
裸の女性が横を向いて椅子に座っている。この女性は先輩自身のようだ。
「身体を、描いたんですね」
僕はそう感想を言った。
女性は何も身に着けてはいないが、「女」としては描かれていないと感じたからだ。
上手く言葉に出来ないが、「女性性」や「色気」というものが一切なく、裸体が恥ずかしいものには見えなかった。ただ、物体として身体を描いたように見えたのだ。
僕の言葉を聞いて、先輩は嬉しそうにした。
「そう。よく分かってくれたね。概念を抜かして、静物のように身体を描きたいと思ったんだ。友達や先生からは、よく自分のヌードを描くな、なんて非難されちゃったけどね」
絵の中の先輩はきりりと顔を上げて、裸の胸を隠していない。
「なんだか、男の人のようにも、見えますね」
絵は確かに女性の身体をしているのだが、男の人の裸のように感じた。
先輩はものすごく驚いたような顔をする。
「そうか。君にはそう見えるのか」
まじまじと自分の絵を見てから、ふと思いついたように僕に問いかける。
「君は、女の人が好きなのかい」
気分を悪くしたらごめん、単純に疑問に思ったんだ、と付け加えた。
どうだろう。よく分からない。
僕がスカートを履きたがらないこと、女になりたがらないことを見て、僕の心が男なんじゃないかと疑う精神科医もいた。
確かに、体と心がぴったり合っているとは思わない。僕は胸が欲しくないから晒しを巻いているし、生理が来ないようにピルを飲み続けている。
でも、だから女の人に恋をするかと聞かれると、そうではないように思える。男の人に対してもそうだ。
「たぶん、誰も好きになりません」
言葉にしたことはなかったが、あえて言うならこれが一番近いように思えた。
ふうん、そうかと先輩が言った。まるで、他人の足のサイズを聞いたような感想だ。
「いや、私と同じなのかと思っただけだよ。私はね、女の人が好きだし、恋人は女性だ。いつか男になりたいとも思っている」
「そうですか」
改めて先輩を見る。先輩は制服を着てスカートを履いているが、学校の規定より丈がかなり長くなっている。髪は僕よりも短く、刈り上げたようになっていた。
「津藤さんと私は、女にはなりたくないのは同じだけど、全部同じではないようだね。そうか。まあこういうのは、十人十色だからね」
先輩はただ確認しただけのようだ。
「私たち自身にとってはすごく簡単なことなんだけどね。ただ、そうだっていうだけだから。でも周囲の人にとっては、難しい問題らしいね」
どうも本当にそうらしいので、深く頷いておいた。
家に着くと、電気がついていた。珍しくパパが帰っているらしい。
コンビニで買った夕飯をテーブルに置いて、パパの書斎を覗く。
「ただいま」
「常葉。おかえり。帰ったのか。随分遅かったんだな。いつもこんな時間なのか」
「絵を描いていたから」
「そうか。でも危ないから、あんまり遅くならないように気を付けなさい」
「はい」
パパは、女の子の父親として当然のことを言ってくれている。
パパの手元に本があることに気付いた。僕が来るまで読んでいたようだ。
「その本」
「これか」
なにかの病名が書かれている本だ。
「僕のことが書いてあるの」
パパの書斎には、僕の障害や病気の本がたくさんあった。パパの本職の、外科手術に関する本を脅かすほどだ。
「いいや」
パパは手元の本を見た。
「違うよ。少しでも常葉のことが載っていたらと思ったけど、違った」
苦笑しながら本の表紙を撫でる。
「パパは、僕がその病気だったほうが良かったの」
「どうしてそんなことを言うんだ」
すごく驚いたような顔をした。
「その本に、僕のことが載っていたら良かった、って言ったから」
「ああそうか。そういうことじゃない。私の言い方が悪かったな。常葉のことをよく知りたかっただけだよ」
僕のことを知りたいなら、僕に聞けばいいのにと思う。
そのあと、今日の夕飯や明日の予定の話をして、パパと別れた。
部屋のベッドに横になる。最近、パパと話したあとはすごく眠くなる。
夕飯も食べないで、寝てしまうことにした。
僕は、背の高い緑の木が生い茂る中にいた。
眼下にも緑が広がる。山の中腹だ。
夏なのだろうか、シダのような湿った緑がすごく濃い。木が空を覆い隠すせいで、日中らしいのに少し薄暗く、涼しく感じるほどだ。
鳥と、遠くで蝉の声がする。
色が痛くない。サングラスを外して大丈夫だ。
たぶんここは、空想の中か、夢の中みたいだ。
獣道の先から誰かが歩いてくる。女の人のように見える。
顔が見えるくらい近くに来たのに、目が滑るようで、よく分からない。
「先に行かれますか」
声を掛けられた。
「この先に、何かありますか」
「いらっしゃいますので、お会いになることができます」
「誰が、この先にいらっしゃるのですか」
僕が訊くと、その人が首を振った。名前は言ってはいけないようだ。
すると、獣道の先が光り、声が聞こえた。
ひとことォー、ひとことォー
朗々とした声が木の葉を揺らす。
眩しい光と一緒になにかがやって来る。
絶対にそれを見てはいけない。
「常葉。目を覚ましなさい」
女性の声だ。どこかで聞いたことがある声だった。
飛び起きると、まだ朝の五時を過ぎたところだ。カーテンを開けても薄暗い。
夢は何らかの空想のイメージを伝えてくることはあったけれど、こんなにはっきりと五感がはたらくのは初めてだった。濃い緑の葉なんて、今すぐに絵に描けるくらいだ。
誰かに会ったし、声が聞こえた。もう少しで何かが現れるところだった。
冷や汗が出た。夢の中の僕は、理由は分からないけど、それを絶対に「見てはいけない」と思っていたからだ。
最後、女性の声で目が覚めなかったら危なかった。
もしあのまま眠っていたら、どうなっていただろう。
「まるで神託のイメージみたいだね」
西村先生は眼鏡をくいっと上げて、興味深そうにした。
先生は大学病院の精神科のお医者さん。パパと仲が良い。
先生の診療は、いつも雑談のようになる。お互いに最近のことと、興味があることを話すだけだ。
「神託って、巫女さんとか、神社の」
「そうそう、シャーマンとか、イタコって呼ばれるのかな。僕はあんまり詳しくないけれど、神を自分に憑依させるのだったかな。そういう人は、なんらかの不思議な体験だとか、不思議なものだとかを視るみたいだね」
「まあ、精神科医としては、病名を付けなければいけないところだけど。私は、あんまり無粋なことはしたくないねえ」
「無粋なの」
「無粋。粋じゃないよ。神様だって仏様だって、妖精だってなんだって居るって信じてもいいじゃないか」
「常葉さんだって、そういう目に見えない存在もいるって、信じているでしょう」
うん。深く頷いた。
僕にとって、そういう空想の者たちは実在する。
現実と空想の境界線があいまいだから、手で触ることが出来るものと変わりない。
ただ、僕がそれをうまく絵に出来ていないだけだ。
「ねぇ、夢の中で動いたりするには、どうすればいいの」
「明晰夢ってことかな。難しいねえ、噂レベルの方法はいくつかあるけど、これを絶対にすると自由に動ける、っていうのは無いかな」
一度見た夢を、何度も繰り返し見ることがあった。あの不思議な夢をもう一度見ることがあるかも知れない。
その時、大丈夫なところまでは夢に居たかったし、危ないなら逃げたりしたかった。
「これは明晰夢で動くための方法ではないけれど、イメージを具体的にしたかったら神話なんかを調べてみると良いかもね。知識が増えたら、脳が見せるものも影響されるはずだろう」
なるほど、神話。描く絵の題材にしている、空想のイメージも明確になってくるかもしれない。
「そう言えば、突然眠くなることはまだあるかい。頻度はどうかな」
「増えてきた」
「そうか。どういうときに眠くなるかな」
「電車。学校。パパと話したあと」
「うーん、そうかぁ」
西村先生が、困ったように頭をかいた。
「傾向が掴めている分、良いとするべきかな。突然眠くなる症状は、まだ原理が良く分かっていないことが多い。よく分からないから、とりあえずストレスだということにされているね」
「でも、突然の眠気は、かなり怖いことなんだよ。例えば電車で眠くなると言っていたけれど、もし駅のホームで眠ってしまったら、どうなる。運悪く線路に落ちてしまったら、頭を打つかもしれないし、電車が来るかも知れないよね」
そうか。確かに、そうなったら大変だ。ちょっとやそっとじゃ目が覚めないし。
「そうだろう。だから、いつもより安全に気を付けて生活してみてね。ホームも黄色い線からだいぶ離れて電車を待つ、とかね」
分かった、と頷いた。
診察の帰り、近所の図書館に寄ってみることにした。
神話や民話の棚はすぐに見つかる。
中学受験をするときに、歴史で習った本ばかりだ。だいぶ難しそう。
日本書紀とか、古事記とか読んだ方が良いのかな。簡単に、薄く解説してくれるものがいい。
子供向けの入門書のような本を手に取る。カラーの挿絵がついている。
天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)、須佐之男(すさのおの)命(みこと)。聞いたことのある神様だ。飛鳥時代かそれよりも前のような服装で、髪を結いあげるようにして描かれている。
すごく違和感があった。
僕の知る空想の世界は、もっとあいまいで境界線が分からない。触れるけれど、光は光として、闇は闇として自然の中に存在する。神様を見たことはないけれど、もし見ることがあるとするなら、もっと荒々しい光のような存在じゃないのかな。
これは、人が空想し、自分たちのように神様を模して描いた姿だ。神様の本当の姿ではないと思う。
たとえ人間のように服をきて、人間のように髪を結う姿で現れてくれていたとしても、姿形をはっきりと認識できるようには見えないのではないか。
僕が思う神様の本当の姿を絵に描くのは、僕の力ではまだ難しい。
有名な神話のページに、八(や)岐(またの)大蛇(おろち)が載っている。
一つの体に頭と尾が八つ、目は鬼灯のように輝き、体長が八つの谷と峰にわた
るほおどの大蛇。人身御供に若い娘を要求する、有名な悪い神。
これなら、僕にもイメージしやすい。
ぬめぬめと、青く鈍く光る体。血で赤く爛れた腹。
大きな河の氾濫など、自然災害との戦いを具象化したものだという説があるらしい。
そういう歴史を神話に落とし込んだストーリーなのかも知れない、でも、そうだと言い切るのは、西村先生が言っていたような「無粋」のように思える。
八(や)岐(またの)大蛇(おろち)は大酒飲みで、酒に酔ったところを殺された。
首の肉の断面から、したたる血の赤がたらたらと流れてきた。
そんなことを想像したせいで、その夜はさっそく蛇の夢を視る。
目の前に一匹の大蛇がとぐろを巻いている。
体は一つの家のように大きく、見上げるほどだ。
八(や)岐(またの)大蛇(おろち)のように八つの首と尾を持つわけではないけれど、僕の腕を広げても抱えきれないほどの腹を波打たせて、しゅーしゅーと舌を出している。
鬼灯の瞳が僕を見据える。
「吾(あ)れは、男(おのこ)か、女(おなご)か」
地面が割れるような声だ。ごうごうと、水が流れる音がする。
僕が男なのか、女なのかと聞いてきたみたいだ。
問いかけられたので、声を張り上げて答える。
「女じゃない」
すると、大蛇がしゅーしゅーと息を吐いた。
「女でなければ要らぬ」
はっ、と気づいた。蛇はうねる大河の神だ。
河に投げ入れる生贄は、若い娘と決まっている。男には用が無い。
ざりざりと耳障りな音を立てて、とぐろがたゆむ。
大蛇の大きな首が近づく。酒を探さなければ。どこにあるの。
ぱかりと大蛇が口を開け、いよいよ食われると思ったとき、遠くから声がした。
ひとことォー、ひとことォー
朗々と響く。
すると、大蛇がぴたりと動きを止めた。
「一言(ひとこと)じゃ。一言(ひとこと)が来る。去(い)ね、去(い)ね」
そう言って、あっという間に暗がりの向こうに姿を隠してしまった。
ひとことォー、ひとことォー
まだ声は響き、どんどんと近づいてくる。
まずい、このままじゃ出会ってしまう。
「常葉。目を覚ましなさい」
女性の声がする。
「常葉。常葉。大丈夫か」
パパの声がする。
パパに体を揺さぶられて、目が覚めた。
「帰ってきたら魘されているから。起こして悪かったね」
「ううん、助かった」
パパは意味が分からない、という顔をしている。
「寒くなってきたし、風邪でも引くかもしれない。暖かくして寝なさい」
おやすみなさい、と声を掛ける。
図書館からは色んな本を借りてきていた。もちろん、八(や)岐(またの)大蛇(おろち)の本も。
西村先生、空想のイメージが浮かぶって言ったけど、ちょっと具体的すぎる。
パジャマを変えなければならないほど、びっしょりと汗をかいていた。
その日は、田舎からおばあちゃんが来ていた。
おばあちゃんは、パパの方のおばちゃん。僕の絵が大好きで、知り合いの画商にたくさん売りこんでくれている。
今日は描きあがった「渋谷」の絵を受け取って、そのまま画商に持っていくらしい。
家にあるアトリエのような部屋で、おばちゃんに「渋谷」を見せる。
おばあちゃんは、満足そうに頷いた。
「常葉はこの色使いが良いね。蛍光色のような赤色が、おばあちゃんは好きだな」
そう言って、大事そうに絵を布で包んだ。
「常葉、個展用の作品づくりは進んでいるの」
うん、といくつか描いている途中の絵を見せる。
個展と言っても、おばあちゃんの知り合いの喫茶店のスペースを貸し切ってやる小さなものだ。でも、今まで絵を買った人が、気にして見に来てくれるらしい。
「風景画をもっと描いた方がいいの」
「いいや、常葉が描きたいものでいいよ」
僕のおばあちゃんは優秀なプロデューサーだけれど、僕がしたいようにさせてくれている。価値の高い絵を描けと無理強いすることはしなかった。
「こっちは、何を描いているんだい」
薄暗い灰色の背景に、白くもやもやと丸い物体が浮かぶ絵だ。
普段油絵で描く僕にしては珍しく、水彩画を試していた。
「何か。まだ分かってない。でもたぶん話せるもの」
例の、「ひとことォー」という声を放つ何かを表現したかった。大蛇が「一言じゃ」と言って逃げたものだ。まだ会ったことがないからわからない。会っちゃいけないような気もするけれど。
「そうなの。なんだか、光のような感じなのかな」
「そうかもしれない」
もし神様なのだとしたら、そうなんだろうと思って描いている。
まだ僕のイメージはあいまいだ。もう少し輪郭をとらえたいと思っている。
「これは、珍しいタッチだね」
おばあちゃんがもう一つの下書きに目を止めた。
大蛇を描いたものだ。
あの日夢に視た大蛇を、僕は油絵に留めようとしていた。
せっかくあんなに怖い思いをしたんだから、尻尾くらい掴ませてもらえないと困る。
「常葉が空想のものを描くときは、今までかなり抽象的だったけれど、これはかなりしっかりと描けているのね。何か参考にしたりしたのかな」
「ううん、夢に視たんだ」
へえ、そうなの。面白そうに腕を組んで、少し離れて絵を見る。
「これはいいね。このタッチの方が、おばあちゃんは好きかな。鱗がぬめって、青青しくて。なんだか、昔話でお嫁さんを貰うような、かっこいい蛇だ」
「蛇が、お嫁さんを貰うなんてことあるの」
びっくりして尋ねる。おばあちゃんは、当然、という顔をした。
「よくある、あちこちにある話よ。おばあちゃんが住んでる田舎にも、そういう蛇の伝説の沼があるね」
「長者の美人な娘を見初めて、蛇が婿問いしてきたんだ。娘は拒んだんだけれど、結局蛇に魅せられて、蛇が棲む沼に身を投げてしまった。その沼で娘は蛇に身を変えたとも言われているよ。それが由来した名前が、沼につけられている」
そんなことがあるのか。
あの大蛇もお嫁さんを探していたのかな。それなら、男なんかいたら食べちゃうのは当たり前だ。
改めて大蛇を描いた絵を見る。
僕の絵を見た人が彼に恋をして、奥さんが出来るといい。
おばあちゃんが褒めてくれたので、ああいう具体的な夢を視るのも悪いことじゃないように思えてきた。
でもあれ、結構怖いんだよね。あのまま蛇に飲まれたら、現実世界に帰って来れないような気がする。
空想の世界で幸せになれるならぜひ行きたいけど、大蛇の腹の中はごめんだ。
それに、夢の中の声が気になっていた。
ひとことォー、ひとことォー
常葉、目を覚ましなさい
たぶん、「ひとことォー」というのは、「一言」という名前の何かだ。
そしてその「一言」に夢の中で会いそうになると、僕の名前を読んで目を覚まさせる誰かがいる。女性の声だ。聞き覚えがあるような気がするけれど、どうしても思い出せない。
この女性は誰なんだろう。生きているのか死んでいるのか、人間なのか。
人間でないとしても、不思議と怖くはなかった。会ってみたいとさえ思っていた。
「今日はお明神様の日だからね、準備を頼むよ」
わかった、と頷く。パパは朝早く急患で仕事に行った。
今日はお明神様の日。お明神様とは、キツネのお稲荷さんのことを我が家では言う。
これはおばあちゃんも言っているから、パパの生まれの東北の方の言葉なのかな。
分からないけれど、月に一度家族でお明神様を祀る日がある。パパが仕事が無い日は一緒にするけれど、ほとんどは僕の担当だ。
家の庭の敷地内にあるお明神様の祠にお供え物をする。
新鮮な卵と油揚げ、榊、お酒にお水、塩を準備する。一年に一度の大祭のときは、これにお魚も付ける。
このようにお明神様を祀る風習は、たぶん東北からパパが持ってきた。東京でどういう風な儀式になっているかは知らないけれど、ここまでご馳走を用意すれば、東京にすむお狐様だって文句も出ないだろうと思っている。
このお明神様の祠は、パパがこの家を買う前からたっていた。
「祠があるからこの家に決めたんだ」
東京のお明神様の祠を、東北のやりかたでもてなす。うちのお明神様は、東京と東北のハイブリッドタイプだ。
パパは、科学の化身のような仕事をしていながら、お明神様の信仰が篤い。
「医者をやっていると、運の力を感じることがたくさんある。もう少し運が良ければ、悪ければ、というところで命に関わる患者が多くいる。だから、神頼みは大切だとパパは思う」
「だって、大切にしていれば守ってくれるんだから、万々歳だろう。運だけで救われる命があるんなら、おすがりしておいたほうが得だ」
「有名な神社の神様も大事だけれど、まずは足元から。自分たちをよく視てくれる、身近な神様から大切にしなさい。きっと良いことがあるから」
パパは家で気持ち良く酔うと、いつもこう口にする。おばあちゃんもそう。同じようなことを言って、東北の家にあるお明神様を大切にしている。
パパとおばあちゃんは、すごくよく似た親子だと思う。
ろうそくに火をつけて手を合わせる。
僕は霊感というほどのものは無いと思っているけれど、僕の家のお狐さまは、きっと可愛らしい感じの方じゃないかと空想する。そして、たぶん何となく当たっている気がする。もちろん確かめようがないけれど。
きっと、可愛くて、白くほわほわと尻尾が豊かな、心の広いお狐さまだ。
顔もたぶんキツネにしては丸く、目が大きい。赤い化粧がよく目立つ。
僕の住んでいる地域は上野で東京の下町だから、区画ごとによくお明神様がたつ。
きっと、家ごとに色んなお明神様がいるんだろう。
シュッとした顔立ちのお狐さま、美人なお狐さま、ずんぐりむっくりで可愛らしいお狐さま。
図書館から借りてきた本に、キツネは五穀豊穣と商売繫盛のイメージを持たれ、田んぼの区画や町の区画のあちこちに祀られるようになった、と書いてあった。
こんなに広く深く、街の皆に愛された神様はいないように思う。
家のお明神様の支度が終わると、近所の大きな稲荷神社に出かける。
なんでも、江戸時代にこの辺一帯を仕切っていたお狐様が祀られているらしい。
天気のいい日とお明神様の日が重なった時は、その稲荷神社に参拝することにしていた。当然、学校は休む。
自転車で急な坂道を下り、蓮の葉が生い茂る公園を突っ切る。平日はこのあたりの観光客も少ない。
駐輪場に停めて、緑の多い辺りをぐるっと散策するのも楽しい。じりじりと日が射す。夏はもう終盤で、必死な蝉の声がこだましている。
「この稲荷神社は東京でも有数のパワースポットなのよ。失礼のないように」
おばあちゃんが言っていた。
だから、お明神様用に買ってあったカップ酒とお水、油揚げを持ってきた。
確かにそう言われるだけの雰囲気はある。陰鬱ではないけれど、静かでそこら中に何かの気配があり、大勢に見張られながら参拝しているような気分になる場所だった。
でも、僕にはこの賑やかさは楽しい。色んなお狐様と一緒になって、列を作って参拝する様子を想像した。
狐穴という、穴から覗き見るようにご神体を視る。社もあるが、穴そのものがご神体になっているそうだ。
これが、このあたりのボスだったお狐様。
東京のキツネを仕切るって、どんなお狐様だったんだろう。賢いのかな。すごく大きいのかな。面倒見がいいのかな。
ボスだったお狐様は、ここに住居を構えさせろと、直接お武家様に嘆願に行ったらしい。かなり肝の太いキツネだ。
すごくたくさん配下のキツネが居たんだろうな。
可愛いキツネ、美人なキツネ
優しいキツネ、恐ろしいキツネ
空は木々に覆われて、日中なのに薄暗い。
さっきはじりじりとあんなに暑かったのに、半そでからのぞく腕がひんやりとする。
僕のことを囁くような小さな声が、あちらこちらから聞こえてくる。
ふわりふわりと白い毛が足を撫でる。
あれ、楽しやな、楽しやな。
それはうちの油揚げかえ、あれ、嬉しや。
それはうちの卵かえ、あれ、嬉しや。
僕は、果てしない鳥居の中を進んでいる。
次から次へと朱色の鳥居が連なる。
鳥居には誰かの名前が書いてある。読める字のはずなのに、詳しく見ようとすると読めなくなってしまう。
鳥居と鳥居の隙間に提灯がみえる。
提灯と提灯の合間に狐火がみえる。
提灯はくっきりと赤く、狐火はぼんやりと青い。
お囃子の音が賑やかだ。
笛に太鼓、やんや、やんやと声がする。
男のようにも女のようにも、大人のようにも子供のようにも
色んな声が混ざって一つになる。
最初は人が通れる大きさだったのに、くぐる鳥居がだんだんと小さくなっていく。
次第に、僕の身長でも屈まなければ通れないほどになっていた。
小さな最後の鳥居の先は、小さな洞穴になっている。這いつくばりながら洞穴をようやくくぐると、見上げるほどに大きな大きな拝殿があった。
「あれ、珍しぃものが混ざりやがった」
深く低い、男の人のような声がする。姿は見えない。
粋な下町の江戸っ子のような、節と訛りの入った言葉だ。
「あいつは、奥州から来た、あすこんとこの仔(こ)じゃないのかい。いけねえな、早く家に帰りやがれ」
帰れ、帰れと周囲から囃し立てられる。
変な場所に入ってきてしまったかもしれない。すみません、帰りますと言って、来た道の鳥居を逆に走り始めた。
四つん這いで洞穴を通り抜ける。
腰をまげて小さな鳥居をくぐる。
屈んでいた姿勢から、どんどんと鳥居が大きくなる。
もう笛や太鼓は聞こえない。鳥居の向こう側から、帰れ、帰れとだけ合唱が続く。
元の道に戻ると思ったとき、鳥居と鳥居の間から手が伸びて、ぐいっと外に引っ張られた。
ぴたりと合唱が止む。
焦って辺りを見回すが、ただ薄暗い闇が広がる。
まずい場所に引きずり込まれてしまった。
正面に、ぼう、と青白く狐火が光る。
黄ばんだ毛色の、ぼさぼさとした尻尾をもつキツネだ。
吊り上がった目がこちらをキッと睨んでいる。荒んだような面立ち。
この狐様は、どこのお明神様なのか。家が無いのか、祠が廃れてしまったのか。
毛艶が悪く、あまりいいご飯を食べられていないようだ。
「お前は、仔(こ)か」
僕は子供かと聞かれている。
法律ではまだ子供だ。でも身体はもう子供じゃない。心も子供のつもりはない。
「子供じゃない」
大きな声で叫ぶと、くわっとキツネが口を開いた。
「仔でなけりゃ、要らぬ、要らぬ」
キツネがぴょんと飛び上がり、ものすごい速さで僕の周りをぐるぐると回る。
竜巻のような風が、僕を中心に音を立てて渦巻く。
このままでは外に出られない。
困っていると、リンと一つ鈴の音がした。キツネの動きがぴたりと止まる。
ひとことォー、ひとことォー
いつもの「一言」の声だ。
「あれ、一言じゃ。逃げろ、一言じゃ」
「常葉、目を覚ましなさい」
女性の声がする。
足に、ほわほわとした白く柔らかい毛があたる。
「君、大丈夫か、起きなさい」
ぱっと目を開けると、稲荷神社の前に蹲っていた。
参拝したまま賽銭箱の前に座り込んで眠っていたらしい。通りかかった男の人が起こしてくれた。
「すみません、ありがとうございます」
良かった、帰って来れた。ほっとして、少し涙が出そうになる。
しかし、外でも突然こんな風になるのはまずい。前に病院の西村先生に言われたけれど、いよいよ安全に行動しなければいけなくなってきた。
車の多い道路で倒れて眠りこけでもしたら、冗談では済まなくなってくる。
考え込む僕の様子を見て、心配そうに男性が言う。
「社殿の隅で眠るなんて、気分が悪かったのかい」
「いえ、そういうわけでもないです」
「そう、なら良いんだけど」
親切に声を掛けてくれた。それにしても、と男性が言う。
「稲荷神社で眠ってしまうなんて、キツネに化かされたみたいだね」
「蛇の次は、狐なのか」
珍しくパパがアトリエに来ている。背後から油絵を覗き込んだ。
白い毛を持つ可愛らしいキツネと、クリーム色の毛の荒っぽいキツネを描いた。
僕を鳥居の外に引っ張ったキツネは、仔が欲しいと言っていた。
仔って、人間の子供の肉のことを言っていたのかな、と目が覚めてから気づいた。
そうだとしたら困る。僕は子供じゃないし、子供だったとしてもそう簡単にあげられるものじゃない。
うちのお明神様のように、卵や油揚げで我慢してもらうしかない。油揚げは肉の代わりだと聞いたことがあった。
「お明神様の祠に備えようと思って」
お明神様の日にはこの絵の前にお供え物をしますから、うちの狐様と仲良く食べてください。
手を合わせるような気持で筆を走らせた。
しばらく絵を眺めてから、うん、いいねとパパが言った。
「こっちのキツネは、優しくて守ってくれそうでいい」
白く可愛らしいキツネを指す。
「こっちのキツネは、強くて荒事もこなしそうでいい」
クリーム色の、目付きのきついキツネを指す。
「うちのお明神様と思って飾ろう。お祀りして、守って頂かないと」
どうやら、うちのお狐様を一匹増やしてしまったようだ。
お明神様の日は、今までよりも多めにお供えしようと決めた。
耳元で、コン、と一つキツネが鳴く。
雨の日、僕の心は調子が悪い。
心の調子が悪いと、僕の場合身体にも影響が出るようになる。
通勤電車みたいに人が多い場所で気を失うようにして寝てしまうし、酷いときは過呼吸になって気を失う。
病院の西村先生に言わせれば、脳内の神経を行き来する物質の影響だったり、気圧や血圧の問題だったりするらしい。面倒なので、僕は全部「心の問題」で片づけている。
心からくる身体のしんどさは、たぶん経験がある人しか分からない。
僕にとっては、熱の出ないインフルエンザのようなものだと思っていた。
頭の先から足の先まで全てがだるく、重く、耐え切れないほど眠くて仕方ない。それなのに眠れないのだから、思考を棄てて考えずに過ごすしかない。
心の病気について何も知らない人が僕の状態を見れば、ただ楽をして怠けていると思うんだろうな。
パパは医者だから、普通の人よりは僕のことをよく分かってくれている。
でも精神科は専門外だし、パパは心がタフな方だから、本当のところはよく分かっていない。ひょっとしたら、やっぱりちょっと怠けているんじゃないかって思っているのかも。
でも、パパが一生懸命勉強して、なんとか僕のことを分かろうとしてくれているのは知っている。
ダメだ、眠れやしないのに、瞼が重く閉じてきてしまう。
こういう体調の日は、無理せず家で過ごすことにしよう。
うつらうつらとしながら図書館から借りてきた本を読んでいると、パパが声を掛けてきた。黒いスーツケースを持っている。
「常葉、パパはこれから地方で学会なんだ。三日ぐらい家を空けるけど、戸締りだけはちゃんとしておくんだよ」
「うん、いってらっしゃい」
ご飯も食べるように、調子が良くなったらでいいから、学校に行くんだよ。
家を出る直前まで僕の方を気にしながら出かけていった。最近のパパはママのようになってきた。
ママは、僕が小学校に入学したくらいのときにパパと離婚した。
それきり会っていない。
一度だけ、離婚の理由を聞いたことがある。
「ママは、してはいけないことをしたんだよ」
それだけ教えられた。
小さいときに別れてしまったから、ママについてはっきりと記憶に残っているわけじゃない。思い出すシルエットはぼんやりと、影のようにもうろうとしていた。
でもママが、すごく心が弱い人だったのは覚えている。
気分が良いときにはとても楽しい人だったし、そうでないときには一日中お酒を飲んでベッドから出てこれなかった。
パパは今よりももっと仕事が忙しかったので、当時はほとんど家にいない。
ママは知らない男の人と一緒になって出かけて、僕を家に残したまま数日帰って来ないこともあった。
そういうとき、僕は貰っていたお小遣いでお菓子を買ってしのいでいた。
ママは、具合の良いときは絵本をたくさん読んでくれた。ママの頭の中の、色んな空想の話をしてくれたのを覚えている。
僕の性格はきっとママ譲りなんだろう。
雨の音が強い。道路が水に浸かるかもしれない。
ベッドに寝ころびながらページをめくる。
妖怪の本を借りてきていた。
日本には本当にいろいろな妖怪がいる。この中の妖怪のイメージを固めて、絵にしてみたら面白いかも知れない。
ミサキ、というページにたどり着いた。
ミサキは御崎(みさき)とも書き、オンサキとも言う。
キツネやヘビのように神様のお使いだとしたりする説もあるけれど、多くは事故などで亡くなり、未練を残した幽霊のことをいうそうだ。
ミサキは山、河、海に現れる。それぞれ、山や河、海で横死した存在の集まりだ。
ミサキは、丁寧に祀らないと祟るらしい。
山と村の境に石の祠を設け、柄杓で水をすくってかけてやり、平穏を祈る。石に書かれた言葉が消えるほど、よくよく水をかけないといけない。
四国や九州地方では、七人ミサキという妖怪が出る。
七人で歩いてくるミサキに生きている人間が出会ってしまうと、高熱を出して亡くなってしまう。
そののち、亡くなった人がそれまでいた七人の誰かと入れ替わり、新たな七人ミサキとして練り歩くことになる。
パパの実家は東北だし、ママも確か京都か奈良のどちらかと聞いている。
馴染みが無く初めて聞く妖怪だけど、結構怖いなと思った。
どんな格好なんだろう。
四国なら、お遍路さんみたいな恰好かな。白い装束。笠を深くかぶる。
死後の安寧を願って、読経を何べんも繰り返す。
ざっ、ざっ、と、草履で土を踏む音がする。
手には柄杓を持っている。水に常に飢えている。
行くあてなく永遠に彷徨う。山を越え、河を越え、海の傍をひたすら歩く。
もう止まりたいと思っても、留まるべき場所はどこにもない。
もう戻りたいと思っても、帰るべき場所もどこにもない。
誰か、代わりのものはいないのか。いなければ探さねばなるまい。
「塞(さい)を越えなさいますか」
急に、耳元で男の人の声がした。
気づけば道の真ん中で座っていた。
木の茂った山道のような場所で、すぐ下は崖になっている。
男性が僕の顔を覗き込む。笠を深く被り、相手の顔は見えない。
男性の後ろには列が連なり、人が六人並んでいる。
塞とは何か。越えるとは何か。言っている言葉の意味が分からない。でも、答えなければいけない気がする。
何て言えばいい。正解がわからない。
すると列の後ろから、女性の高い声がした。
「その子はまだ越えられません。このままわたくしが参ります」
すぐに分かった。あの女性の声だ。
列から女性が抜けだし、僕を庇うように前に立つ。
男性が女性を突き飛ばすようにして、僕の手を強くつかんだ。
その時、一行に向かって、ごう、と風が強く吹く。
ひとことォー、ひとことォー
「一言じゃ。一言主さまじゃ。逃げろ、逃げろ」
列が崩れ、人々が散り散りに逃げ出す。
去り際に、僕を助けた女性が囁いた。
「一言主さまに参りなさい」
「待って」
必死に引き留めようと思う。顔を、声を確かめたいと思った。
なんでいつも助けてくれるの。危ないところで、声をかけてくれるの。
ひょっとして貴方は、僕の。
そのまま女性は見えなくなった。
携帯の電話が鳴る音で目が覚めた。慌てて通話にする。
「もしもし、おばあちゃんだよ。家の電話も鳴らしたんだけれど、出なかったね。どうかしたの」
「ううん、寝てただけ。大丈夫」
心臓はまだバクバクしていた。
妖怪の本を読んだまま、睡眠に入ってしまったみたいだ。
生々しい夢だった。光景も音も、全て記憶に焼き付いている。
ミサキに捕まらなくて、本当に良かった。
今回も助けてくれた女性のことを思う。ずっと、嫌な予感がしていた。
「そうそう。『渋谷』の絵が売れたから、知らせようと思って。絵のお金、銀行口座に振り込んでおいたからね」
「うん、ありがとう」
おばあちゃんにお金の管理も任せている。おばあちゃんは優秀なプロデューサーであり、敏腕なマネージャーでもあった。
「お父さんはお仕事かい」
「うん、学会で地方に行くって」
「しばらく帰って来ないの」
「三日間って言っていたよ」
そうなの。おばあちゃんは少し言葉に詰まってから、静かに告げた。
「常葉。あなたのお母さんが、亡くなっていたと連絡が入ったわ」
ママが、亡くなった。
ぽかんとしてしまう。
すごくびっくりしたけれど、どこかでやっぱりと思う自分もいた。
「もう何か月も前のことみたい。ご葬儀は向こうの方で済ませたそうよ。常葉がいるから、お彼岸が近いからって、お墓の場所は教えてもらえたの」
「お父さんはまだ許してないと思うし、おばあちゃんも思うところはあるんだけれど。でも、常葉のお母さんだからね。もう大人の常葉に、ちゃんと知らせなきゃと思ったんだよ」
うん、うん。
「常葉が良ければ、おばあちゃんと一緒に、二人で奈良に旅行に行こうか。そして、お母さんのお墓に線香を立てに行こう」
知らせてくれてありがとう。
考えさせて、と答えておいた。
「今回は、空想のものを描いているのかな」
学校の美術室で絵を描いていると、櫻井先輩がうしろから覗き込んできた。
「でも、いつもの抽象的なタッチとは違うな。だいぶイメージが具体的だ。白い着物を着た女性だね。顔は描かないのかな」
「はい」
見えませんでしたので。
夢の世界で危ないことがあればいつも声で僕を助け、あの日の夢ではミサキとして現れた女性の姿を描いていた。
僕を庇ってくれた時、確かに女性の顔を見たはずなのに、目が覚めるとどうしても思い出せなかった。
足元から順に記憶を辿ると、首から上は目が滑ったようになって分からなくなる。
だから、背後から少しこちらを窺うようなポーズにした。彼女の背中は、小さい頃からよく覚えている。
「なんだか、江戸時代に描かれた幽霊絵のようだね」
幽霊絵。そんなものがあるんだ。
「あれ、知らないで描いていたの。じゃあこの絵なんか知ってるかな」
先輩は携帯で検索して、赤ん坊を抱いた女の幽霊の絵を見せてきた。
「飴買い幽霊とか、子育て幽霊とか言って、墓の中で子供を産んだ女性の幽霊が、子供を育てるために飴を買いに来る話。落語にもなっているよ」
「お墓の中で子供を産んだんですか」
「江戸時代の頃は、亡くなったかどうかの判断なんて適当だったんじゃないのかな。だから、死にかけみたいな状態で大きな櫃に入れられて、そこで子供を産んでから亡くなった、っていうことだと私は思っているけど」
死にかけの状態で子供を産んだとしても、すごい話だ。それで自分が幽霊になっても、子供を想って飴を買いに行くなんて。
「こういう話は結構日本中にあるらしくてね。私は、母の愛って感じがして好きな話だよ」
母の愛か。
先輩は少し僕の絵から離れて、全体を眺めながら言った。
「津藤さんの絵に子供は描かれていないけど、この女性を見て、私は子育て幽霊みたいな感想を持ったな。儚くて哀しいけど、ちょっと母性を感じるというか」
母性。
僕なんかが、母性を想像して絵を描いて良いのかな。
ママの顔はもうとっくに思い出せなくなっている。
しばらく絵を見つめてから、そうだ、と先輩が切り出した。
「私は、高校を卒業したら海外の大学に行くことにしたよ」
「同性婚を認めている、ヨーロッパの大学だ。私はあまり頭が良くないけど、頑張って言葉を勉強したんだ」
同性婚を認めている国。先輩は海外に行くのか。
「恋人と、結婚するんですか」
「どうかな」
先輩は肩をすくめた。
「まだ決めてない。でも、日本を出たらもう帰って来ないつもりだ。親にはそう言っていないけれどね。就職も向こうでする。私が帰って来るとしたら、日本に『旅行』に来るときだけだ」
真剣な瞳が僕を捉える。
この国を離れる。僕も、考えたことがないわけじゃなかった。
おばあちゃんを通じて知り合った画商には海外に縁が深い人もいて、海を越えて売られた絵もある。僕の絵は、外国の人にも良く見てもらえるらしかった。
「日本は狭い。この学校はもっと狭い。津藤さんも気付いているはずだ。私たちには居心地のいい場所じゃない」
それは分かっている。僕も、保健室と美術室を往復する今の状態がいいと思ったことはない。
小学校の頃は、男も女もない時期があった。僕は昔から集団行動が出来ないけれど、その空気は心地よかった。
今の教室の女の子たちは、みんな揃って女になり始めている。
さなぎから蝶になる途中。慎重に羽を乾かしながら、互いの羽の色を見極めている。
僕は美しい羽を持たない。僕は彼女たちのように蝶ではなく、あるいは昆虫ですらないかもしれない。
この先何があったとしても、あの教室で彼女たちと過ごすことは出来ないだろうと確信する。
でもたぶん、僕はまだ人に絶望していない。
どこかに僕を受け入れる群れがあるのではという希望を捨てられていなかった。
それは、海の向こうにあるのだろうか。先輩はそこに行くのだろうか。
「きみは、画家として生活していけるだろう。きみの絵は海外でも通用する」
「津藤さん、もうじき私はこの学校を出るよ。先に出る。だから、先輩としてちゃんと選択肢を教えてあげなきゃと思ったんだ」
それだけだよ。あまり遅くならないように。
先輩は先に帰った。先に、いなくなってしまった。
広い美術室に僕だけが取り残される。
のろのろと片付けを始めた。
家に帰ると、パパがリビングでお酒を飲んでいた。珍しい姿だ。
何か嫌なことがあったのかも知れない。
「遅かったな」
「うん、ただいま」
「学会はもう終わったの」
「ああ、まあな」
パパはぶっきらぼうに言葉を濁した。中身はウイスキーだろうか、ぐっとあおる。
「パパ」
「うん」
「僕、絵が売れて、お金が入ったんだ」
「うん、すごいんじゃないか」
「ありがとう。それで、今はまだ無理だけれど、もっとお金が溜まったら、やりたいことがある」
「うん、どうした」
「僕」
先輩が羨ましかった。
なりたい自分に成る。自分がこうありたいと思う姿を認めて貰える。
誰にも否定されない場所。あいつは違うと指を指されない場所。
楽園を探しに行く。
「僕、自分の胸と子宮を、手術で取ろうと思っているよ」
パパが大きく目を見開いて、ぽかんと口を開けた。
「なんで、そんなことを言う」
パパの口元が震えている。
「パパ。やっぱり僕は、女になりたくないんだ。子供を産む身体になりたくない」
「それは、常葉くらいの思春期の女の子は誰でもそうだって言っただろう。皆、心が体に追い付かなくなるだけだ。そんなのはなんでも無いんだ」
「そうじゃないよ、パパ。僕はもうずっと、女の子でいたくなかったんだ」
「それじゃあ、男になりたいのか。ペニスをつけて」
パパの声が乾いている。
「それも違う。男にもなりたくない。どちらにもなりたくない。性的な衝動を持ちたくない」
「それでも、常葉は女の子じゃないか」
パパは僕を睨みつけたまま、ぽたぽたと涙を流していた。
「こんなに可愛く、女の子に生まれてきたじゃないか。どうしてそんなことを言うんだ」
「ママか。あいつの影響なのか」
「違う、ママじゃないよ。もう、あまりママのことは覚えていないんだ」
「だが、こんな風になるのはあいつのせいとしか思えない」
「違うよパパ」
それにママは、
「ママは、死んでしまったじゃないか」
パパは顔を覆ってしまった。
「どうしてそれを知っている。母さんか」
「うん、おばあちゃんに教えて貰ったよ」
「絶対に教えるなと言っていたのに」
「僕は、教えてもらって良かったと思っているよ。僕を産んだ人だもの」
パパは声を殺して泣いている。
僕はパパと、離れなければいけないと思った。
このまま傍にいては、ママのようにパパも壊れてしまう。
「パパ。僕は、おばあちゃんと奈良に行って、ママに会いに行ってくるよ」
パパはもう何も答えなかった。
東京からは新幹線で京都まで行って泊り、翌日そこから奈良線に乗り換える。
「せっかくだから良い宿を取っちゃったよ。こういうのは楽しみも作らないとね」
おばあちゃんははしゃいでいる。
僕は相変わらず黒ずくめの恰好に、新幹線の社内でもサングラスを取らないから、だいぶ目立っていると思う。
でもおばあちゃんはどこ吹く風だ。
「見せたい人には見せときゃいいのよ。おばあちゃんも今日はおしゃれしてきたわ」
言われてみれば、まるでピカソの絵のような服だ。
二人して目立っているのかと思ったら、ちょっと笑えて来た。
街を過ぎれば、車窓には田畑が映る。
ぼんやりと緑を眺める。
あの日パパと話をしてから、突然眠くなる症状が強くなっていた。
病院の西村先生から、しばらく一人での外出は控えるようにと言われている。
酷いときはもう現実なのか夢なのかの区別がつかない。
今歩いている道路が自分の家に繋がっているのか。目の前の線路は本当か。
眠りの症状が始まると、もう一か八かの賭けのようになって、崖を飛んだり溺れたりしている。
おまけに、絵のためにと神話や妖怪、民俗学の本を読んだおかげで、イメージはより具体的になっていた。
毎日びっしょりと汗をかいて起きる。休んだ気が全くしない。
二週間ほどで、体重が五キロ以上減っていた。
僕が視た夢かどうかははっきりしないけど、空想の者たちにたくさん出会った。
海で人魚に引きずり込まれ、狸に化けてみろと脅された。
天狗に肩を掴まれ、そのまま空中を飛ばされた。
神様の宴会に混じってしまったこともある。人間とバレたら酷い目に遭うに決まっているので、お酌をして踊りに混じって時を過ごした。
そしていよいよ危ないとなったとき、あの声が朗々と響くのだ。
ひとことォー、ひとことォー
僕は、この声が「一言(ひとこと)主(ぬし)」という神様ではないかと調べていた。
一言主は奈良にある神社の神様だ。
古い山の神で、天照大神が来る前から日本にいた神様だとされている。
一言主がはっきりと載っているのは、日本書紀のエピソードからだ。
天皇が山で狩りを楽しんでいた時に、天皇と全く同じ恰好で、天皇と同じ顔をした一行が通りかかる。
天皇がお前は誰かと尋ねると、相手がこう答えるのだ。
吾(われ)は悪事(あくじ)も一言、善事(ぜんじ)も一言、言い離(はな)つ神。
葛城(かつらぎ)の一言主の大神なり。
それを聞いた天皇は恐れをなして、着ていた服を一言主に献上したという。
でも、日本書紀は天皇が正統だと示すための書物なので、その後一言主は天皇に負けるという筋書きにされている。
人々に祀られながら、人々の歴史によって負かされてしまった神。
天照大神のように、天皇の系譜ではない、まつろわぬ神様。
ミサキの一行と出会い、女性に助けられたときに言われたことが気になっていた。
「一言主さまに参りなさい」
おばあちゃんには事前に、奈良で一言主神社に寄りたいと伝えていた。
すると、一言主神社はママの実家の近くだったらしい。二日目のお墓参りの後に寄ることになった。
初日の旅行の行程は、京都での観光がメインだ。
京都ではすごく楽しんだ。楽しむことにした。
たぶん、お互い変に緊張していた。もう亡くなっているとはいえ、明日は何年ぶりにママに会いに行くのだろう。どんな顔をしてお参りすればいいのだろう。
お墓参りの途中、ママの親戚の人に会うかも知れない。今更何だと罵倒されることだって、覚悟しなければいけなかった。
おばあちゃんも僕もぐるぐると色々考えてしまい、普段の旅行よりものすごくテンションが高かった。
僕は小学校の修学旅行に行けなかった。たぶんこの先も、そういうイベントに行くのは難しいと思う。
だから、おばあちゃんと二人きりの修学旅行をしようということになった。
季節外れの修学旅行。平日の観光客は外国人しかいない。
定番で行くという場所を調べて、一日タクシーを借りてたくさん回った。
清水寺に行った。金閣寺と銀閣寺に行った。
僕は龍安寺の枯山水に感動して、伏見稲荷大社で家のお明神様たちを想い、下鴨神社のタヌキの様子に驚いた。
途中眠くなることもあったけれど、車の移動だし、おばあちゃんが隣にいるから安心して過ごすことができた。
普段撮らないような写真も撮ったし、買わないようなお土産も買った。
お世話になっている櫻井先輩に、香り袋を二つ買った。彼女さんと使ってくれたら嬉しいと思う。
はしゃぎ過ぎてしまって、宿についたらぐったりだった。
でも、旅館こそ楽しまなければ元が取れないとおばあちゃんが言うので意地になり、お腹がはちきれそうなほど懐石料理を食べて、茹りそうなほど温泉に入った。
おばあちゃんが浴衣で布団に寝ころぶ。僕も眠気が来ていたけど、今やらなければと思って絵を描く道具を広げ始めた。
「常葉にしては荷物がずいぶん多いなと思っていたけど、水彩絵の具なんて持って来ていたの」
旅館の机に汚さないよう新聞紙を引いて、画用紙を広げる。
「この前見た絵だね」
一言主をイメージした絵を持って来ていた。明日、一言主神社にお参りする前に完成させたかった。
「この前おばあちゃんが見たときより、白い光は同じなんだけど、なんだかすごく具体的になっているね」
「うん。色々調べたんだ」
一言主について神話を読むたびに、その姿に思いを馳せた。
天照大神のように、日本に「やって来て」国を造った神様を、「マレビト」と民俗学で呼ぶらしい。それで言えば、一言主は「マレビト」ではない。どうやって生まれたかは分からないが、天照大神が来るより前から日本にいる、奈良の山の自然の神様だ。
人が住むずっと昔からこの地に居て、人に慕われ、人の歴史にいいように伝えられてきた神様。僕なんかの感覚に当てはめてみたら、嫌な思いも苦い思いもしたと思う。
でも一言主は、お母さんと一緒になって僕のことを助けてくれた。
優しい神様。言霊を操り、一言で助ける、潔い神様。僕が軽々しく姿を見ていいものではないけれど、神様の一かけらでも絵に残してみたかった。
「そうだ、その絵、おばあちゃんが買い取っても良いかな」
「うん。別にお金を払わなくても良いけど、なんで」
「いやいや、こういうのはちゃんとしないとね。それに、これをプレゼントしたい人が居るのよ。おばあちゃんがフェイスブックで知り合った旅行仲間に、すごく美人な子がいるの。澤田さんっていうんだけどね。今度その子が結婚するみたいだから、お祝いに贈りたいの」
「前に実際に会ってお茶したとき、常葉の絵の話をしたらすごく興味を持ってくれていてね。ちょうど、蛇の絵と、この絵の話をしたときだったから」
「そうなの。うん。いいよ」
以前おばあちゃんに見せたときはまだこの絵の出来に納得がいっていなかったけれど、たぶん今なら誰かにあげても大丈夫。
しかし、おばあちゃんは本当に行動的で友達が多い。自分より何十歳も年下の人でも、すぐに意気投合して一緒に旅行に行ってしまう。
「澤田さんはね、今は旦那さんになる人と、スペインに行っているんだったかな。帰ってきたら渡しに行かないとだね」
「本当に旅行好きな人なんだね」
「そうそう。だから、おばあちゃんとも話が合うのよ。おばあちゃん、常葉のことも海外に連れて行きたいな。だってすごく興味があるのよ、常葉の目から見たらサグラダファミリアはどう見えるかしら、アフリカの自然はどう見えるかしらって」
櫻井先輩のことを思い出す。僕も海外には興味がある。
この目にはしんどい世界もあるかも知れない。でも、見てみないと分からない。
おばあちゃんの言うように、どんな色が溢れているのか興味があった。それが空想の世界より興味が持てるものになれば、僕はこの世界に居て良いような気がする。
「常葉、それで、この絵の題名は決まっているの」
うん。
『一言(ひとこと)主(ぬし)』
僕は、神様のイメージを、光が凝り固まったようなエネルギーのように捉えた。
肌を焼くような暑い陽の光も、凍えるような寒い陽の光も、赤も青も全部入れて、降り注ぐ太陽の光を集めて固まったような、白い光。
強く白い光だから手に触るようには捕まえられず、直接見たら目を焼いてしまう。
一言主は自然の神だ。荒々しく畏れ多い、原初の魂。人間の道理から離れ、人が預かり知ることが出来ないような理由でときに人を助け、ときに人に祟るもの。
大きく力強い、ちっぽけな人間では到底把握できないようなものをどうやって表現しようか、悩みに悩んだ。
そして悩んだ結果、僕はキャンバスに濃い影を描くことにした。
薄暗い背景の中に、丸く白い円が浮かぶ絵だ。円の淵はもやもやと霧がかかるようになり、はっきりと見えない。輪郭は赤い色のようであり、青い色のようであり、黄色のようであり。様々な色が見えるように描いた。
闇色の背景と白のコントラストは明確だ。優しいが、強く、荒々しい。
これが、僕の思う一言主の姿だった。
最後の仕上げに筆を走らせながら、おばあちゃんに問いかける。
「おばあちゃん」
「なあに」
もう、ものすごく眠そうな声だ。
「ママとパパは、なんで離婚したの」
うーん、そうね。
おばあちゃんは寝たまま、ぐいっと背伸びをした。
「常葉が小さい頃だったから、ちゃんと伝えていなかったね。でも、常葉ももう、大人になってきたから、話した方がいいこともあるわね」
「お母さんは、心が弱い人だったのね。常葉のお父さんが仕事で家にいないのが、我慢できなかったんだと思うよ」
「お母さんは、お父さんがいないときも、別の男の人に頼るようになったのね」
「それで、その男の人に騙されちゃった。お酒に逃げてしまったし、してはいけない薬にも手を出すようになってしまった」
「お父さんが気づいたときは、もう手遅れだったよ。家は散らかり放題で、常葉の面倒も見られなかった」
やっぱりそうか。
だいたいの記憶と一致したので、驚くことはなかった。
確かめたいことがある。
「ママが壊れてしまったのは、僕のせいなのかな」
「僕は、今でもそうだけど、普通の子供じゃなかったよ。いろいろうまく出来なかった。今のように絵も知らなかったし、言葉でもうまく言えなかった」
小さい頃の方が、今よりももっと視覚、聴覚に過敏だった。
常に手で耳を覆って歩いていたし、前を見ることを怖がっていた。
空想と現実も連綿と続いていて、それを伝える言葉も持たなかった。
ママもパパも、僕を色んな病院に連れて行った。
病院に行くたびに僕は障害児になり、病気を持つ子供になっていった。
ごろりとうつ伏せになり、おばあちゃんが僕を見る。
「ごめんね。おばあちゃんは、それに答えてあげることができないよ」
「おばあちゃんは、おばあちゃんだからね。常葉の両親じゃない。子育ての良いとこどりをさせて貰っているだけ。常葉のことは愛しているけど、両親にはかなわない」
「だから、子育てをしたことがある女の先輩として、常葉のお母さんの気持ちを探ってみるしかできないな。それでも良かったらだけど」
「何も常葉のせいじゃない。お母さんは、ちゃんと常葉のことが大好きだったと、おばあちゃんは思うよ」
そうか。そうならいいな。
お墓に行く前に聞きたかったことが聞けて、良かった。
「そう言えばね」
ふふ、とおばあちゃんがおかしそうに笑う。
「あんなことがあったけど、おばあちゃん、常葉のお母さんのこと、憎み切れないのよね。本当はね、何だかふわふわしてぽやぽやして、人を笑顔にさせるのが上手い子だったのよ。いっつも空想して、鼻歌を歌って、変な物語を聞かせてくれたりしてね」
「そうだね。僕も、それは覚えているよ」
「変な話ばっかりだったわね。ワニが鯨を飲み込んだり、花が演歌を歌いだしたり」
「海外の昔話も色々知っていたよ。怖い話もあった。ドイツの魔女の話は、僕はトラウマになっているな」
そんな話があったの。
うん、あとはね。
ママの思い出を話し合った。
ママがいなくなってから、初めてのことだった。
翌日は奈良駅からレンタカーを借りて、ママのお墓へ向かう。
途中、ママが好きだった大福を一つ買っていった。
お墓は、普通の住宅地の、普通のお寺の中にあった。お墓もごくごく普通で、当然なんだけど、僕は何だか拍子抜けしてしまった。勝手にすごく立派なお墓だと思っていたみたいだ。
すでにきれいな花と線香が備えらえていた。
今は秋の彼岸だった。澄んだ空が高い。境内にちらほらと曼珠沙華が咲き、線香の濃いにおいがする。
大福と一緒に、家の庭からとってきた椿の葉を置いた。
僕の名前は「常葉」だから、常に瑞々しい青がいいと思った。
ママが少しでも思い出してくれていたらいいと思う。
一言主神社に行く途中、突然おばあちゃんが一服したいと言い出した。
「お母さんの墓参りに行くのに、だいぶ気を張ってたみたい。運転してたら疲れちゃったよ。常葉、近くに休憩できる店を探してちょうだい」
「おばあちゃん、僕にとっては一言神社もすごく行きたい場所なんだよ。運転を頼むからね」
「分かっていますよ。でも、カフェインがないとおばあちゃん死んでしまう」
おばあちゃんはこういう気まぐれなところがある。まあ、少し緊張していたのは僕も同じだったので、スマホで評価の高いカフェを探して入ることにした。
広くないけど、いい雰囲気の場所があるみたい。おばあちゃんにグーグルの言う通りに運転してもらうと、こじんまりとした一軒家風の店に着いた。
『A WORD』「アワード」と読む店だ。優しそうな男の人が二人でコーヒーを淹れていた。
おばあちゃんはドリップコーヒー、僕はカフェラテを頼んだ。
「はあー、おばあちゃんはもう、今日の任務は終了だなあ。お母さんのお墓で、親戚の人に怒鳴られるかと思ったよ。べつにこっちは悪くないけども」
それは、僕もちょっと心配していた。
「でも、もう朝早くからお墓参りした人が居たみたいだね」
「それは知っていたけどね」
おばあちゃんが一口コーヒーを飲んだ。
「なんだか不思議ね」
「何が」
「常葉のお母さんが亡くなったのを聞いたのは最近のことなのに、すごくずっと前から彼女のお墓参りをしたかったような気がしている。なんだか、長年の不義理が果たされたような気分よ」
それは、そうかも知れない。
もっとも僕は、たぶんずっと前からママが亡くなったことを知っていたし、ママにも夢の中で会えていたけれど。
これからも夢の中で会えるかは分からない。何となくだけれど、今までのように頻繫には会えない気がしている。それでも、今日はお墓参りが出来て良かった。
せっかくなににも煩わされない場所に行けたのだから、僕に構わずに、穏やかに過ごしてほしかった。
「これ、コクがあって美味しいわね。常葉、良い店見つけてくれたじゃない」
僕のカフェオレもおいしい。
「ありがとうございます」
カウンターの奥にいた男性の一人が微笑んだ。
さっぱりとして、真面目そうな雰囲気の人だ。
「これから春日大社に行かれるんですか」
「いえ、この子がどうしても一言主神社に行きたいと言っていて」
「一言主神社」
男性がびっくりした声を上げた。
「珍しいですね。僕も一言主神社は好きです。この店も、一言主神社にあやかって名前を付けたんですよ」
「彼がどうしても、この近くに出店するならこの名前だと、聞かなかったんです」
もう一人の男性が笑う。アワードって、ひと言っていう意味か。
「そんなに有名な神社なの。私、この子に言われるまで全く知らなかったんですよ」
おばあちゃんが驚く。
「おばあちゃん、僕も色々あって偶然名前を知っただけだよ」
「あれ、奇遇ですね。俺も偶然一言主神社のお守りを貰ったことがあって、それで知ったんです。奈良県でもそんなに知っている人はいないと思いますよ」
「そうなの。私が不勉強なのかと思っちゃったわ。そうだ、行く道がちょっと不安だったの。春日大社のそばから、どう行けばいいのかしら」
「地図もありますから、道をお教えしますよ」
男の人が丁寧に道を教えてくれる。
「地元の人がよく行くような神社なので、観光地化している仏閣ほど道路が整備されていないんです。途中、道が細くてこれで良いのかと思うかもしれませんが、安心して進んでくださいね」
「すがすがしくて雰囲気のいい神社ですから。ぜひ楽しんでいってください」
男性のおかげで行く道がはっきりしたので、安心して神社に向かうことが出来た。
ひとことォー、ひとことォー
カフェを出てから、ずっと耳鳴りのように声がしている。
ひとことォー、ひとことォー
大蛇に飲まれそうになったときも、キツネにからかわれたときも、ミサキに会った時も、いつも僕を助けてくれた声だった。
早くおいで、こっちへおいでと急かされるみたいだ。
ママと一緒に、やっと会いに行けると思った。
カフェの男性が言った通り、一言主神社は一本道のような細い道路を通った先にあった。木に守られた、静かな場所だ。
時刻は昼を過ぎて、少し風が出るようになっていた。ひぐらしの声がする。
おばあちゃんと僕が砂利を踏む足音が響く。
「静かだけど、素敵な場所ね」
ぽつんとおばあちゃんが言った。
境内の説明板に、一言主神社が「いちげんさん」「いちごんさん」と呼んで周りに親しまれていると書かれている。
なんでも一つだけ願いをかなえてくれるそうだ。
拝殿で頭を下げる。
リンリンと、遠くから誰かが拝殿を歩いてくるような鈴の音がした。
ごうごうと、痛いほどの風が吹く。
「僕をお導きください」
すると、いっそう風の音が強くなった。
僕の耳に、風に混じって囁くような声や、叫ぶような声が一斉に響く。
なにも聞き取れないと耳をそばだてたとき、ぴたりと音が止んだ。
朗々とした声が頭を揺らす。
ひとことォーひとことォー
吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。
葛城の一言主の大神なり。
陥穽(かんせい)の蛙(あ)
最後に、リン、と一つだけ鈴が鳴った。
「遅かったね。待っていたよ」
声に振り返ると、パパが立っていた。
「パパ。どうしたの」
困ったようにパパが笑う。
「常葉が前に進んでいるのに、パパだけが立ち止まるわけにいかないだろう」
「二人が来るより先に、ママのお墓参りをして、一言主神社に来ていたよ。こっちによると母さんから聞いていたから」
なんだ、おばあちゃんは、パパが来ることを知っていたのか。
「しかし、一言主神社には久しぶりに来たなあ」
伸びをしながらパパが言った。
「ここに来たことがあったの」
「来たもなにも、ママはこの辺が実家だから。生まれたときから七五三からなにから、ずっとこの神社でやっていたんだ。だから、結婚する前にここに報告するんだっていって聞かなくて、二人で参拝したのを覚えてる」
そうだったのか。ママの頃から、守ってくれた神社だったんだ。
「パパ、陥穽(かんせい)の蛙(あ)って、どういう意味」
「陥穽(かんせい)の蛙(あ)か。そういう言い方をするのは珍しいな。こういえば常葉も知っていると思う」
「井の中の蛙大海を知らず」
「知識や見聞が狭くて、物事が見えていないということだな」
なるほど。すごく納得出来た。
「パパ。僕はね、今までパパに守られて来て、本当に何も知らないんだ」
「いきなりどうしたんだ」
パパが笑っている。
「だからね、高校になったら、海外に留学して世界を知ってみたいと思ってるんだ」
「そうか」
美術部の櫻井先輩が留学すると知ったとき、衝撃だった。そして嫉妬も感じた。
僕も自分の絵を、世界の人に見てもらいたいと思ったのだ。
そして僕も、自分がどうなりたいのか、どうありたいのかを見極めたい。
男でも女でもない僕だ。何にもなれず、あいまいのまま。
空想の世界に生き、現実には足がつかず、宙ぶらりんになってしまっている。
僕は、僕の目で世界を見てみたい。
僕が美しいと思うような、現実の世界を見てみたい。
何か僕を引き留めるくさびが欲しい。
空想の世界は大切だ。でも逃げ道にはしたくない。
ありのままの僕を受け入れてくれる、現実の場所を探したい。
そんな都合のいいものは、この世に無いのかもしれない。それでも、探すことを諦めずにいたかった。
「だから、その前に、いまの学校を辞めたいと思っている。辞めて、通信で学校に通いたい」
美術室と保健室登校だけで、行ったり行かなかったり、だいぶ自由に学校に通わせてもらっている。でも僕は、高校までこのままの状態でいていいとは思わない。
なんとか自分の状態を整えたい。ちょっとでも教室に通えるようになりたい。
だけど、あの水槽でそれは無理だ。
まずは自分の状態を冷静に考えられる場所を探したかった。
「うん。そうか」
パパは大きく頷いた。
「常葉、パパが一言主さまに何てお願いしたと思う」
「なんてお願いしたの」
「常葉が幸せな道を見つけられますように、ってお願いしたんだよ」
「パパは、まだ常葉のことがよく分かっていないと思う。全部わかるときは来ないのかも知れない。それでも、分かろうとする努力を辞めないって誓う」
「常葉がやりたいようにしなさい。やらなかった後悔をしないようにね」
「はい。分かりました」
しっかりと、パパから目をそらさずに答えた。
パパが、パパなりに僕を認めてくれた。その勇気を、僕は忘れてはいけない。
「お話は終わったの」
いつの間にか傍からおばあちゃんが離れていた。
「近くに美味しい中華があるのよね。それを夕飯に食べてからホテルに帰りましょ」
「ええ、奈良まできて中華なのかよ」
パパがブーイングした。
「いいじゃない、久しぶりに三人であったかいご飯食べましょう」
「家族って、そういうものよ」
僕はもう一度深く拝殿に一礼して、一言主神社を後にした。
ひとことォー、ひとことォー。
吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。
葛城の一言主の大神なり。
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