第十三章 重なる偶然

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僕は震える手で必死に文字を打って 『何もなかったから』 と田中さんに見せる。 『だから、もう許して上げて』 必死に文字を打ってる僕の手に田中さんは触れると 「分かりました。もう、良いですから…」 そう言ってジャケットを脱いで僕の肩に掛けた。 懐かしい温もりに身体が熱くなる。 田中さんは冷めた目をして真っ青な顔をしているそいつを真っ直ぐ見つめて 「お前を使う気は無い。出て行け」 そう呟いた。 そいつは何かを言おうとして口を開きかけて、そのまま走って出て行った。 田中さんは溜息を吐くと、ゆっくりと僕に近付き 「大丈夫ですか?」 そう聞かれて、僕は大きく頷く。 「怖い思いをさせて、すみませんでした」 労わるような瞳が僕を見つめる。 「すみません。騒ぎにしたくないので…、ドレスのファスナーを私が上げても宜しいですか?」 田中さんに聞かれて、僕は頷いて背中を向ける。 肩に掛けられていたジャケットを抱き締めるようにして、僕はドレスの前が見えないように隠して背中を向ける。 「すみません。身体に触れないように、すぐに終わらせますね」 そう言って、田中さんの指がドレスのファスナーのホックを掴んだ気配がする。 半分くらい上げた頃、一瞬田中さんが息を呑む気配がした。 疑問に思って振り返ろうとすると、田中さんの指が僕の背中の中心に触れる。 その感触があの日の熱を思い出させ、思わず口から「はぁっ」っと息が漏れる。 思わず口を押えて、今、声が出ない状態で良かったと思っていると、田中さんの手が僕のアップにした髪の毛の後れ毛を上げて何かを確認しているようだった。 手が離れた瞬間 「田中主任?田中主任?」 って、田中さんを探す声が聞こえる。 すると、田中さんは我に返ったように一気に背中のファスナーを上げて立ち上がった。 そして僕の手からジャケットを取ると、まるで何事もなかったかのようにジャケットを羽織って入口へと歩き出す。 女の人がドアから顔を出すと 「ここに居たんですか?新郎役のモデル、帰っちゃいましたけど…?何かあったんですか?」 と、オロオロした顔で現れた。 「すみません。私が今、解雇しました。」 その女性にそう答えると 「ええ!ど…どうするんですか?今日の撮影」 って、慌て始める。 すると田中さんは外に出て 「すみません。新郎役、代わります。衣装、大至急持って来て」 田中さんの声が響く。 僕が慌てて現場を覗くと 「すみません。スチール、変更になりますが…」 「構わないよ。久し振りに陽が撮れるなら、こっちは万々歳だよ」 って会話をカメラマンさんとしている。 なにやら他のスタッフさんにもテキパキと指示をして、制作会社の方にも頭を下げてなにやら話をしている。 でも…、みんなの顔はなんだか田中さんに代わって嬉しそう? 制作会社の人に指示が代わると、田中さんが控室に入って来た。 入口で唖然としていた僕は、慌てて自分の鏡前に戻る。 すると衣装さんがタキシードを持って走って来た。 それを見ると、田中さんがいきなり洋服を脱ぎ始める。 なにが起こってるのか分からずにあんぐりとしていると、下着一枚になった頃に衣装が部屋に届く。 田中さんはズボンをはいてシャツを羽織ると、椅子に座ってヘアメイクを受けている。 その間、シャツのボタンは他の人達が留めている。 「ちょっと痩せました?ズボン、ゆるくなってますけど!」 スタイリストさんに文句を言われて 「だから、今回降りたんだよ。貧相な身体じゃ、仕方ないだろう?」 そう田中さんが答えている。 「はぁ?貧相?どこが?このくらいのゆるさなら、問題無いですよ」 言い合いをしながら、あっという間に身支度が整っていく。 ネクタイを結ばれる頃には、すっかりヘアメイクも終わっていた。 立ち上がって新郎のジャケットを羽織った瞬間、思わず息を呑んだ。 そこに居るのは、僕の知っている田中さんでは無かった。 おそらく、モデルをしてた頃の「陽」と呼ばれていた田中さんなんだろう。 華やかさと目を惹き付けるオーラがあった。 腕のボタンを留める仕草だけなのに、めちゃくちゃ格好いい。 そしてゆっくりと僕の前に跪くと 「すみません。新郎役が変わります。」 そう言って僕の手を取った。 「それで、お願いがあります」 そう言うと、田中さんは僕を真っ直ぐに見つめて 「これから撮影ですが、結婚式を挙げます。まず、撮影だという事を忘れて下さい。本当に結婚式を挙げるのだと、思ってもらえますか?」 そう言われて戸惑う。 「それが無理なら、私から決して目を離さないで下さい。離してカメラを見る時は、私が合図します。良いですね?」 優しくそう言われて、戸惑いながら頷く。
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