クローン

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クローン

 お父さんみたいになっては駄目よ、というのが、遠方に住んでいて暫く会っていない智和(ともかず)の母の口癖だ。智和は、母の言葉を忠実に守って成長した。  母曰く、智和の父は、働いては金を稼いでは居たものの、家には殆ど寄り付かず、挙句に借金と愛人を作って出て行ってしまったのだそうだ。はっきりとしていないのは、物心着いたときには智和は父が居なかったためだ。  父のようになってはいけないのなら、どういう男になれば良いのか。智和がこのような考えに至ったのは当然と言えるだろう。智和は、様々な経験や、読書や、会話、演劇を見て聞いた。そして、理想の男、理想の親、理想の大人についてを、心の中で形作っていった。  小学生のときは、運動が出来たり、足が速い男が異性に人気で、そして理想だった。智和は皆が放課後に遊んでいるとき、一人でランニングに励んだりしていた。高学年になってからは無論部活動に入った。当然のことながら勉学にも励んだ。  中学生になってからクラスの女子生徒たちが急に大人びた。彼女らは大人になりきれない男子生徒を小馬鹿にしていたので、智和は皆のように騒がず、つるまず、黙って、勉学に励んだ。そんな傍から見れば灰色の日々も、智和は満足していた。いま、自分は理想の大人、男性なのだという自負があった。  高校生になって、さすがの智和も恋と言うものをした。相手は同じクラスの、そこそこ美しい女子生徒だった。しかし受験という人生のハードルを控えていたため、智和は彼女と良く会話をしていたものの、とうとう想いを伝えなかった。クラスメイトが、好きだった生徒に愛の告白をしているさまを横目で見て、智和は羨ましかったものの、それでも智和は、まるで理想の父のクローンになるかのように、大学に進み、首席で合格そして卒業して、ある大企業へと就職した。そこから彼はただただ働いた。しかし母への電話と、年に二回の帰郷は欠かさなかった。智和の母は、仕事で疲れているのか電話に出ないこともあった。智和は何となく心寂しかったので、彼が好んで身に着けていたネクタイの色は、母が良く爪に塗っていた派手なネイルの色と同じにしていた。  社会人として生活し始めて数年が経ったある日、智和が所属する部署へ中途社員が入ってきた。彼女は智和が高校生だったときに恋をしていた女性そのひとだった。そしてなんと、彼女も智和のことを覚えていた。  ある帰り道に電車が遅延し、智和はたまたま彼女と長く話す機会に恵まれた。そのときに智和は、彼女から思わぬ告白を受けた。 「あなたが好きです。いいえ、好きでした。昔から」  彼女も智和のことが好きだったのだ。程なくして二人は交際を開始し、結婚を意識し始めた。今このとき二人は二十六歳。結婚には早いが、早すぎるという年齢でもない。二人はこの一年後にめでたく結婚をする。  しかし、すんなりとできたわけではなかった。智和の母が反対したのだ。智和は、母のことも大事だったが、交際していた女性のことも大事だった。ほぼ勘当に近い形で結婚した。  結婚生活は、可もなく不可もなくといった感じだった。二人はたまに喧嘩をするくらいで、それでもすぐに仲直りをした。  あるとき、珍しく智和の妻が我儘を言った。なんと、急に会社を休んで自分と一緒に居てほしいと言ってきたのだ。智和が理由を訊いても彼女は頑として口を開かなかった。しかし、会社を理由なく休むのは、智和の理想の大人・理想の夫像に反した。当然智和は彼女の願いを断ったのだが、彼の妻はぽろぽろと涙を零して、大きな声で泣き出した。 「いつになったら私の智和さんになってくれるの? いつまであなたは、あなたのお母さんの夫なの? いいえ、自分のお父さんのクローンをやっているの?」 「何を言っているんだ。俺は」  智和の妻は、智和が首に絞めている彼にまったくもって似合わない派手なネクタイの剣先を握り、引っ張り上げる。智和の首が上を向いたのを確認して、智和の妻は、持っていた裁縫はさみを彼に近づけた。 「や、やめろ――!」  ジャキン! という、断ち切る音がして、思わず目を瞑っていた智和が瞼を開く。  ネクタイが真ん中から真っすぐ切られていた。さらに、智和の妻ははさみを机のうえに置いて、静かに言った。 「あなた、お父さんになるのよ」  彼女は己の腹を摩りながら呟いた。彼女のもう片方の手には、作りかけのスタイが握られている。  偶然にも、今日と言う日は、父の日だった。  夫婦の子どもが生まれた後、つきものが取れたように考えが柔軟になった智和は、育児休暇を取って、妻と共に育児に励んだ。  今日彼は子と一緒に公園に来ている。妻の一人の時間を作るためだ。 「気持ちの良い天気だね」  智和が子に話しかけると子は無邪気な笑みを浮かべた。  既に智和の母は他界している。原因は急性アルコール中毒だった。葬式にはほとんど人は来なかった。遺品整理をしていたときに見つけた彼女の日記には、智和の父は誰だか分からない、と書かれていたが、智和にはもうどうでも良いことだった。  暖かな日差しの中で血を分けた子の笑い声が響いている。智和は願った。子には自分のことなど気にせず、自由な人生を歩んでいってほしいと。  そうして、彼の心の中の父親のクローンは、初夏の木漏れ日に交じって、幻のように消えた。  終わり。
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