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「はあ。なんか、辞めるつもりが引き止められちゃったね」
心なしか、ほっとしたような冬夕の声。
「かえって励まされた気がする。ミシン探しにゆくつもりだったけれど、それはやめて、わたしの家で作戦会議にしようか。杉本のブラのことも考えたいし」
「うん。そうしよう」
オートロックのエントランスを抜けて、エレベーターを呼ぶ。すぐにやってきて開いたそれに乗り込む。9階のボタンを押す。
冬夕はもう何度もわたしの家に来ているから慣れっこだ。
「おじゃましまーす」
「ただいま」
「おかえりー。いらっしゃい、冬夕ちゃん!」
ママが奥から声をかける。彼女は自宅で仕事をしている。わたしを産んでから長らく専業主婦をしていたらしいんだけれど、がんの手術を乗り越えたあとは、ずっとやりたかったという、紅茶のインストラクターをはじめた。昔にティールームで働いたこともあるらしいけれど、今は、紅茶専門店と契約をして、そこが主催する講演会や展示会で茶葉をすすめたりする仕事らしい。
普段は自宅にいて、その講演会の資料の作成や、取り寄せた茶葉の試飲なんかをしている。それで、わたしの家は、なかなかエキゾチックな匂いに包まれている。わたしは全然詳しくないんだけれど、それでも茶葉の種類によって香りが違うのも分かるし、同じ茶葉でも季節によって全く違うもののようにも感じる。
「今日はスコーンがあるわよ」
やった! と冬夕が両手を胸の前で合わせる。
「雪綺、あとで取りに来て」
「了解。ありがと、ママ」
ママは、わたしが中学の頃に乳がんにかかった。左胸の乳房を全摘しなければならなかった。その手術から4年が過ぎようとしている。今の所、再発はない。サバイバーとして生きている彼女を、わたしは誇らしく思うけれど、それと同時に、とてつもなく不安になる。
ママが死んじゃうことは、絶対に嫌だ。
わたしがブラジャーを作りはじめたのは、ママのこんな言葉がきっかけだった。
「もうちょっとかわいくってもいいわよね。ボーダーのブラとか選べるようになったらいいのにな」
わたしは、ママが喜ぶことをしたかった。というかママがいつでも喜んでいないといけないような気がした。今もそう思っている。少しでも弱気を見せたら、またがんがやってくるんじゃないかって怯えている。
ママはわたしの前で泣き顔を見せたことがない。それで、余計に心配になっている。
ーーあのね、雪綺。わたし、がんになったみたい。でもね、絶対に死なないからね。だから安心して。心配しなくていいのよ。
わたしは、張り詰めたママのあの表情を忘れられない。絶対にあの表情を浮かべさせてはいけない。そのためにはママが喜ぶことをわたしはしなくちゃならない。
中学生のわたしは、学校帰りに生地屋さんで青と白のしましまの布地とスナップボタンを買った。ママの医療用のブラを拝借して、見よう見まねで作ってみた。ミシンすら扱えないわたしはちくちくと手縫いをしていた。
どんな布地が適しているか、とか、裏地を何にするか、とか、縫い代の部分を余計にとる、とか、そういうことをひとつもわかっていなかった。だから、それはブラジャーになどならなくて、ただの布切れだった。おまけにパッドを入れるポケットのことも考えていなかったし、スナップボタンもうまく縫い付けることができなかった。ぼろぼろの布だけが残った。
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