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ウォーレスの執務室
昼間の日差しは春めいてきたものの、根雪は残りまだ薄氷が張る日が続く冬の終わり。
毛布にくるまった子どもたちが雪解けの野原を駆け回る夢を見る横で、農家の夫婦は今年の植え付けは暦通りに行えるだろうと、期待を込めて額を寄せ合う。
ウォーレス伯爵ネイサン・カーライルはひどい顰め面で伯爵家の執務室にいた。
非難の矛先はたった今部屋に入って来て真正面に立つ祖母、レディ・ベアトリクス・カーライルに向けられている。
「……いま何と?」
「おお嫌だ、耳まで悪くなったのですか。いいでしょう、もう一度だけ言いますからよくお聞きなさい。『ネイサン、貴方の妻を決めました』と、私はそう言ったのです」
真っ白の髪を複雑に結いあげ、まるで鋼でも入っているかのようにまっすぐに伸びた背筋は杖をついて尚、老いを感じさせない。
レディ・ベアトリクスはまさに『威厳』という二文字がよく似合う女性だった。
「――どういうことでしょうか。説明を」
「耳の次は頭までとは。理解が遅くてはお勤めもままなりませんね、情けないこと。そんな体たらくで伯爵家当主とは全くもって嘆かわしい。意味などそのままです、ネイサン。貴方に婚姻の意思がなさそうなので、私が適当に選んだ妻をあてがいました」
ガタリと音を立てて立ち上がったネイサンに見下ろされる格好になっても、ベアトリクスは少しも揺るがない。
かえって片眉を上げて無作法をたしなめられる始末だ。
一触即発の雰囲気に、間をとりなす声が響く。
「まあまあ、二人とも落ち着いて。で、どこのお嬢さんなんですか、この『黒伯爵』に嫁ごうって奇特なご令嬢は」
「アラン、貴方もいつまでもフラフラと……まあ、いいでしょう。クレイトン男爵家の一人娘です。先月王都に行ったついでに貰う話をつけてきました」
「クレイトン……王都の近くでしたね。へえ、あそこに年頃のお嬢さんがいたとは知らなかったな。それにしてもレディ、『ついでに貰う』なんて猫の子じゃあるまいし」
「猫と一緒ですよ。当主が病で伏せっていて、代替わりしたら早々に放逐される身の上です。大した教育も受けておらず社交も期待できない娘ですが、クレイトンは歴史だけは長い家ですからね。捨てられるのを拾ってやるのですから、慈善と変わりません」
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